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 春先の淡い緑色の若葉によって形作られた木漏れ日が、邵可の手元をまだら模様に照らす。
 時折、葉の擦れる音が聞こえるだけの静かな室内に、浅い呼吸の音が断続的に響いた。

「……銀児」

 名を呼ぶと、部屋の隅の薄暗がりがうごめく。府庫の仮眠室にある毛布に包まり眠り続けている銀児が、その隙間から邵可を見上げた。
 銀児は府庫に来てから、泣き疲れた幼子のように眠りこんでしまった。ああしてこんこんと眠り続けている。一刻眠って半刻起きて、また一刻眠る。まるで病んだ獣のようだった。

 その神経質そうな外見に反して、銀児は精神的に強固だ。実際、銀児自身が卑下する割に、その精神は驚くほど健全だった。
 もちろん、彼女の心は麻痺し、欠損し、歪んではいるけれど、それでも銀児は自分自身の哲学を持っていた。それは獣の理と言ってもいいかもしれない。

 自分の命を繋げるための殺しに、銀児は真摯に向き合っていた。ある者は利己的と謗るかもしれない。「自分の命のために他を犠牲にして何が悪いのだ」という開き直りにも聞こえるからだ。
 だが「弟を守る」という偶像に罪悪感を預けて大勢の人間を殺してきた邵可には、それはひどく健全に思えた。弟のため、国のため、民のためにと自分以外に罪をなすりつけて殺し続けた。
 嫌悪感はあった。さきほどまで温かかった体から体液が流れ出し、どんどん冷たくなっていく。王族にも貴族にも平民にも、当然己にさえ等しい死の恐怖に恐れをなした。
 だが、そこに心からの罪悪感はあっただろうか。風の狼に引き込んでしまった珠翠に申し訳なく思うことはあっても、遺された者達に申し訳なく思うことはあっただろうか。
 答えは否だ。そうでなければ自分はこうして妻を持ち、娘を持ち、過去に蓋をして何食わぬ顔で幸せな家庭を演出することは出来ない。
 兇手としての過去は邵可の人生に影を落とし、心に深い傷を残したけれど、邵可はどこかそれを他人事のようにも思っていた。

 かつて「銀児は命ずれば誰でも殺す。女でも子供でも」と、霄太師が言ったのを思い出す。それを聞いた邵可は銀児を狂っていると思った。だが、銀児にとって人間は死を以て己の命の糧となるというただ一点においては平等なのだろう。
 人を人と思わず殺すのは殺人鬼だ。標的を人と見なさず殺すことが出来る己は天性の兇手だ。人を人として殺す銀児は何者だろう。

 銀児は夜が怖いと言う。銀児自身が闇夜に乗じて幾人も屠ってきた。だから、きっと己も夜に死ぬのだと囁くように言った銀児の恬淡とした瞳が忘れられない。生きるために殺してきた銀児は、誰かが生き延びるために殺されることを理不尽に思わないようだった。
 夜に怯える銀児は邵可の本来あるべき姿であり、それを間近で眺めることは邵可に心の安寧をもたらした。
 銀児を己の依代に、死と向き合う姿を見ることで、それを我が事のように引き寄せているのか。或いは、その姿を嘲笑っていたのかもしれない。自分のやり方が正しいことを再確認し続けるために。

 ――そういう意味で、邵可は銀児を心から求めている。銀児に自身の依代であることを求め、慰めであることを求め、そんな邵可を求めることを求めている。邵可は銀児に求めてばかりだ。
 銀児はそんな自分の傍にいるだけで良いと言う。邵可は知っている。銀児も一人では立てぬのだ。だから、邵可を求める。

 歪んでいる、と、邵可は思う。お互いがお互いに歪んでいて、お互いに寄りかかりやっと立っている。どちらかを軽く押しさえすれば、その微妙な均衡は簡単に崩れる。
 その均衡は、恋だとか愛だとか生ぬるいものではない。邵可は銀児の苦悩を憧憬する。銀児は邵可の逃避を羨望する。

 言葉を尽くして説明したところで、傍から見れば二人とも薄汚い人殺しでしかない。そこにあるのは組織の大小と頭と末端という違いだ。それとて大したものではない。ただ、人殺しは人殺しなりに、この歪んだ現状を受け入れようとしているのだ

「長官、いいですか?」

 扉が叩かれ、部下の男が顔を覗かせる。そう仕事熱心な男ではないが、人柄は信頼できた。青い顔で涙を流す銀児を見て随分心配していたようだった。柔和な表情は眉をひそめて悲しげである。
 邵可は室の隅を視線で示す。

「さっき目を覚ましたようだよ」

 彼はほっとしたように表情を弛ませ、細く開けた扉から体を滑り込ませた。

「心配したよ、銀児くん」
「まだ少しぼうっとしているようだけどね」
「そうなんですか? ……え? それって大丈夫なんですか?」

 おろおろと邵可と銀児を見比べる部下に、邵可は小さく笑う。

「大丈夫だよ。寝惚けているだけだから」

 次官は「そうなんですか?」と納得したのかしないのか分からない様子で首をかしげ、銀児に視線を合わせた。

「大丈夫かな、銀児くん」

 はい、と銀児は掠れ声で答えながら首肯する。次官は微笑みを浮かべながら、銀児の額に手をやった。

「よしよし、熱もないようだね。あんなになるまで無理をしてはいけないよ。銀児くんは女の子なんだから」

 額に当てられた手の心地良さにうっとりと目を細めていた銀児は、ぎょっとして身を引いた。銀児の目が、戸惑うように目の前の次官と、邵可を見上げた。
 邵可も困り顔で次官に問う。

「私、銀児が女人だと言ったかな?」
「おっしゃっておりませんけど、でも普通は分かります。……長官、僕のこと並外れた鈍感だと思ってませんか?」

 じとりとした目で次官は邵可を見る。ははは、と邵可は乾いた笑みを浮かべた。
 彼の手は銀児の前髪を撫で付けるようにして立ち上がった。銀児は嫌な顔をするでもなく、むしろ名残惜しげな顔をしたように邵可には見えた。
 それを見て、邵可は腹の底にぞわぞわとしたものが渦巻くのを感じた。おそらく、嫉妬めいたものだ。あまり気分のいい情動ではない。
 次官は邵可の暁闇のような思いをつゆも知らず、おっとりとした顔を邵可の方へ向けた。

「長官、朝餉は召し上がりました?」
「いや、まだだけど……」
「僕、何か作りましょうか? 銀児くんもお腹が減るだろうし」
「そうだね、お願いするよ」

 了解ですー、と次官は間延びした答えを返した。実に人の良いにこにことした笑みを浮かべる。

「実は、裏の山の筍が旬でしてね。灰汁抜きして持ってきてるんです」

 そう言うと、次官は銀児に向き直り、視線を合わせた。

「銀児くんはお粥だよ。筍はまだ胃に悪いかもしれないからね」
「……私まで、よろしいのですか」

 おずおずとした銀児の問いを、次官は軽く笑い飛ばした。

「もちろん。ああ、家の鶏が卵を産んだから卵粥にしようと思っているんだ」
「たまごがゆ!」

 ぱ、と銀児は目を輝かせた。卵はそれなりに高価なので、紅邸ではめったに食卓に登らない。銀児は涎でも垂らしそうな顔をしている。

「病気の時は美味しいものを食べてたくさん眠るのが一番だからね」

 ねー、と次官が言えば、銀児もかすかに笑んだ。

 支度に向かう次官の背中を眺めながら邵可は考える。
 銀児が自分をさしおいて他の人と楽しげなのが腹立たしい。それ以上に、腹を立てる自身が苛立たしい。
 邵可は銀児を失うのが怖い。先代黒狼や、妻のように、また置いて行かれるのではないかと不安なのだ。
 まるで銀児のことを好いているようで、邵可はそれが気に入らない。自分と銀児の関係は、繊細な打算の上に成り立っていればいい。
 銀児は邵可を好きだと言うけれど、それが本当だという保証はどこにもない。
 銀児は邵可の傍にいるためなら何でもする。無理矢理組み敷いても、冷たくあしらっても、銀児は何も言わない。きっと、好きだと言うくらい何ということもないのだろう。

 もし自分の銀児への感情の中に一滴の恋情や好意というものがあったとしても、邵可はそれを頑なに認めたくなかった。
 銀児が打算のつもりであるのに、自分が好意を抱いてしまってはみっともないにも程がある。若い娘に踊らされる寡男など、目も当てられない滑稽さだ。
 何より、邵可は銀児を失うことを恐れているのだから、たとえ現状がいかに不毛で空虚だろうと、今のままで銀児がいてくれるならそれで構わない。

 酷い男だ。と、邵可は自嘲する。「君がいればそれでいい」なんて、まるで恋物語の情熱的な台詞のようだけれど、実際は銀児の気持ちも何もかも無視した残酷な言葉だ。

「銀児」

 名前を呼ぶと、銀児は顔を上げる。おいで、と言うと銀児はふらつく足取りで邵可のもとまで近寄った。
 邵可は銀児を抱き寄せた。火をたいて粥を煮るのにどのくらいの時間がかかるだろうか、と考えながら。

「銀児、私のことが嫌いかい?」

 銀児は悲しそうな顔をして首を横に振った。

「じゃあ、怖い?」

 一瞬戸惑い、首を横に振る。

「……邵可様」

 かさりとした声が邵可の名を呼んだ。邵可の名を呼ぶときの銀児の声は、痛々しいほどに熱を帯びる。邵可は銀児のその声が好きだった。
 もしかしてこの子は心から己を愛しいと思っているのではないか、と一瞬だけ勘違い出来る。
 無為で幼稚で馬鹿馬鹿しい話だ。邵可は苦笑する。

「……すみませんでした。なんだか、よく分からないんですけど、涙が止まらなくって」
「疲れているんだろう。眠りなさい」

 邵可は優しく囁く。抱かれた銀児の喉が、くうと切なげに鳴った。
 邵可はゆるゆると銀児の頭を撫でる。先ほど次官が整えた髪を乱すように、銀児の髪を梳いてやる。銀児は目を細めて、邵可の胸元にすり寄った。

 どうかしている。と邵可は唇を歪める。氷の理性とまで呼ばれた己が、娘ほど年の離れた女に必要とされて、充足を覚えている。

「銀児」

 とろりとした目で銀児は邵可を見上げる。

「私のこと、好きだろう?」

 銀児は目を丸くして、少しの間呆けたが、すぐにくすぐったげに笑んで頷いた。
 どうだろうか。邵可はそれが心からの返答に思えるのだ。しかし、邵可の主観と願望が入り混じっていることを否定できない。
 だから邵可はそれを信用しない。己など、他人以上に信用出来ない。
 嘘でもいいから好きと言って、自分を慰め続けてくれるならそれで良い。あえて真偽を問うつもりはない。

 邵可は銀児の腰に回していた手を離す。出汁と筍の良い香りがしたからだ。銀児もきちんとそれを察して、邵可から離れたところに座る。

 邵可は蔀の外に視線を移す。春の陽気は鬱々とした気持ちには清々しすぎた。
 中庭を並んで歩く娘と王を見つけて、邵可は細く息を吐いた。