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邵可の部下が作ってくれたふわふわの卵の入った粥は痛いほどに美味かった。空っぽの胃に染み入るようだった。
邵可はこっそりと筍の煮物を一口だけ食べさせてくれたが、次官に見つかって苦言を呈されていた。曰わく、筍は消化があまりよくない、と。
女であることは周知であったのだが、その男は別に知らないふりをしていたわけでも無かったらしい。普通に女人として接していたのがあまりに自然すぎて、自分も邵可も男だと思われていると思い込んでいたのだ。
彼は、男だろうと女だろうとどうだっていいことだし、見て見ぬ振りは朝廷で安穏と生きるにあたって必要だよ、と言った。変な男だと思った。
銀児は片付けくらい自分ですると言ったのだが、病人は好きなだけ甘えて良いんだよと言われたのでその通りにした。
どうやら、女であることは知っていても、自分のことを実年齢より少なめに見積もっているようで、まるで子供のように甘やかされるのは気恥ずかしかったが、いやではなかった。
そういうわけで、銀児は卵粥で腹を膨らませて、うとうとと邵可のいる司書室で微睡んでいた。
ふ、と目がさめると、体の痛みに呻く。寝ているうちに被せられていた毛布を押しのけて、室内を見渡した。
影の伸び具合から、どうやらそう時間はたっていないようだ。だが、よく分からない違和感に銀児は首を傾げる。
「……邵可様」
こちらに背を向けて仕事をしている邵可の名前を呼んだ。邵可はゆるりと振り返る。
「ああ、銀児。やっと起きたね」
やっと? と銀児は聞き返す。邵可は苦笑した。
「あれから丸一日寝ていたよ」
「い……いちにち」
銀児は違和感の正体に気付く。体はひたすら空腹を訴えているのだ。
食事を終える前にも断続的とはいえかなり長時間眠っていた。いくらなんでも眠りすぎだ。
銀児は唖然として蔀の外を見る。丸一日たっている、と言われても実感が無い。何だか取り残された気分だ。
銀児は伸びをする。眠りすぎて体がだるい気がした。
「しゅんみんあかつきをおぼえず、ですね」
珠翠に習ったのだ。銀児が何気なく呟くと、邵可は笑って「そうだね」と言った。
「息が止まってしまったときは驚いたけどね」
本当に暁を覚えられなくなるところだったねぇ、と事も無げに言う邵可に、銀児は閉口する。邵可は銀児に風呂敷包みを示した。
「着替えは用意してあるから、着替えて来なさい」
銀児は包みを手に取り会釈した。すっかり寝乱れた着物の胸元を思い出したかのように押さえる。
この室で着替えてしまおうかとも思ったのだが、顔を洗い、寝ている間の汗を流したいと思ったので、着替えは後回しにした。
朝廷の隅にある府庫の、さらにまた裏にある水場など、利用する人間はごく限られているから、人の目を気にする必要はないだろう。
寝乱れた着物を簡単に直しただけの姿に裸足でぺたぺたと水場に向かうと、案の定、人どころか猫の子一匹いやしない。石造りの水場は春の木漏れ日の中にひんやりと静かに佇んでいた。
毎朝下男が水を入れ替えているという水瓶には、澄んだ水がいっぱいに入っている。虫もわいていない汲み上げたばかりの井戸水は、雪解け水が入り込んでいるためか予想外に冷たかった。
それを頭からかぶったものだから、銀児は一瞬息を止める。手桶に水を汲み直し、髪をゆすぎ、かたく絞った手拭いで体を拭き、着物を着込んで銀児はやっと一息ついた。
ぽたぽたと雫を垂らす髪を拭いながら、銀児はこれからのことを考えていた。これで丸二日、自分は何も言わず失踪したことになる。
ろくに人前に出ず、時には同じ邸の秀麗や静蘭でさえ顔を合わせないことがある銀児であるから、常であればニ、三日いなくなったところでおそらく誰も気にしない。邸から少し離れた山を歩いていて、つい鳥を追うのに夢中になったとでも言い訳して山鳥の番でも持ち帰れば、追及は免れる。
最近聞いた話では「紅邸には静蘭以外の家人がいるらしい。何処其処の誰某が見たと言っている」と、まことしやかに――まことしやか、というか、まことであるのだが――囁かれたり「紅邸の門前を白い女が掃除をしているのを見るとその日は幸運」だとか、はたまた「その白い女を見ると幸運だが、目が合うと不幸が訪れ、話しかけられると身近に人死にが出る」とまるで妖怪のような扱いを受けている。失礼な話だ。
だが、今は一応、後宮で紅貴妃の後を追いかけ回しているから、二日も銀児が姿を見せないことを秀麗も珠翠も怪訝に思っているだろう。
邵可が何か上手い言い訳をしてくれているだろうか。そちらはどうにかなるにしても、自分が錯乱する姿を見せてしまった楸瑛と絳攸の二人はどうしたものか。
はぁ、と溜め息をついて銀児は水を口に含む。渇いた喉に冷水が染み渡る。そのとき、下草を踏み分けて近付いてくる音が聞こえたので、銀児は顔をそちらに向けた。
「おお! そなた、銀児だな!」
ばさばさと草を踏みながらこちらに歩いてくる金髪の男。その後ろを困惑顔の静蘭と、自分を見つけてぎょっとした様子の楸瑛と絳攸がついて歩いていた。
いくらこちらの肝を抜くような色男揃いとはいえ、いい歳をした男達がわらわらと連れ立って歩いているのは、見ていて気味の良いものではない。
銀児はその金髪の男に見覚えがあった。穂を垂れた小麦のような優しい金色の髪。草食動物を思わせる穏やかな榛色の瞳が銀児を覗き込む。
銀児はしばしの間呆けていたが、慌てて平伏した。
なんとなく見覚えがあるはずだ。銀児の視界の端に紫色の裾が写る。この男、王である。見かけたことはあっても、立場上近づくことを許されなかった銀児だが、紫色の着物を見ればすぐに分かる。
気付くのが遅れたのは、まさかそんなことは絶対に無いと思い込んでいたからだ。王が一体自分に何の用事があるのか。ちらりと上目遣いに様子を窺うと、紫劉輝は困ったように眉を下げていた。
「顔を上げてくれ。でなければ話が出来ぬではないか」
まるで拗ねた子供のように劉輝が言うので、銀児はおずおずと顔を上げる。
「今日はな、余は王として来たのではないぞ。秀麗の夫としてそなたに会いに来た」
「主上、紅貴妃の夫ならばすなわち王です」
絳攸が理路整然と反論すると、劉輝はむうと唸った。
「ならば、余は秀麗を思う一人の男として来たのだ。だから、そう固くなるな。気安く話して欲しい」
劉輝がそのつもりでも、銀児はすっかり困り果ててあたりを見渡した。楸瑛が見かねたように声をかける。
「主上、いきなり府庫に行きたいと言ったかと思えば、彼女に用だったのですか?」
「ああ、いつもともにいるお付きの者が、少し体調を崩して府庫で休んでいると秀麗から聞いてな。秀麗に内緒で秀麗の話を聞ける好機と踏んでやってきたのだ!」
それを聞いた絳攸は主上! と声を荒げる。
「俺は、府庫へ資料を取りに行くと思ったから外出を許可したんだぞ!」
「すまん! 許せ絳攸!」
「いいや許さん!」
言い合う二人を楸瑛がまあまあと諫める。どうやら、この男はそういう役回りらしい。
「残念ですけどね、主上。銀児は口がきけないんです」
だから、お話は出来ませんよ、と楸瑛が言い終わるのと、静蘭が「えっ!」と、らしくなく大きな声をあげるのはほとんど同時だった。
銀児は青ざめる。後宮をふらついていた楸瑛にとっさについた嘘だったのだ。まさかこの男がここまで深くこちらに関わってくるとは予想外だった。
銀児は静蘭に目配せする。静蘭は銀児の目配せを受けて、得心した、とばかりに小さく頷いた。
静蘭は一歩前に進み出る。
「藍将軍、銀児は喋ることが出来ますよ」
一瞬呆気にとられ、この野郎! と銀児は内心毒づいた。知っていた。静蘭はこういうやつだ。
「え? ……そうなのかい?」
「ええ、たしかに学は無いし、教養も無いし、品も無い女ですが、さすがに口くらいはきけます」
にっこりと静蘭は眩しいほど魅力的な笑みを浮かべる。
銀児はそっと楸瑛と絳攸を窺い見る。嘘をつかれたことに対する不快感を示している風では無いので、ひとまずそれだけが救いだ。
銀児は静蘭を睨む。静蘭は笑って、銀児の濡れた頭を掴み、ぐいと三人の方に向けた。
「はい、銀児、ご挨拶は?」
まるで子供にするような言い方に銀児は顔をしかめたが、いっそのこと開き直った。
「……こんにちは。本当は口がきけました。嘘をついていて申し訳ありません。それから、その節はご迷惑をおかけしました」
銀児が低い調子で一息にそう言うと、楸瑛は目を丸くして絳攸を見たが、絳攸はさして驚いていない様子であった。
「絳攸、君は知っていたのかい?」
「いや、そういうわけではないが、以前黎深様とその娘が話しているのを見たような気がしてな。おおかた、おまえの女癖の悪さを知っていて、自衛しているのだと思っていた」
賢いじゃないか、ときっぱり言う絳攸に楸瑛は肩を落とした。
静蘭が銀児に問う。
「迷惑? あなた、何をしでかしたんです?」
「体調を崩したときに手を貸して頂いたんです」
「まったく、余計なことしかしませんね」
「うるさい」
「旦那様にまで迷惑をかけて」
「かけていません」
「病人が仕事場にいては迷惑でしょう」
「寝ていただけです」
「どうだか」
「いかがわしい想像でもしているんですか?」
「馬鹿言わないでください。間違っても旦那様があなたを相手にするわけがないでしょう。色気も可愛げも欠片とないのに」
ひくん、と銀児の口元がひきつる。しばし睨み合うと、やはり楸瑛が二人の間に割って入った。絳攸は呆れ返り頭を抱え、劉輝はすっかり怯えて顔を青くしている。
「いやぁ、銀児は喋ると随分……印象が違うね」
銀児はゆるりと楸瑛を見上げた。自分にどのような印象を持っていたのかは知らないが、まったくもって余計なお世話である。
銀児がむっつりと仏頂面のまま「よく言われます」と唸ると、はは、と楸瑛は空笑いを浮かべた。
「じゃあ、銀児も喋れるみたいですし、主上、聞きたいことがあるのでしょう?」
「そ、そうなのだ!」
劉輝はどもりがちに言い、銀児に問いかけた。
「秀麗は余のことを何か言っていたか?」
銀児は少し考える。男色家で、ろくに仕事をしない王、でも金五百両のためなら四の五の言っていられないわ! と意気込む秀麗の姿と声が浮かんだが、わざわざ波風をたてるようなことを言う必要もあるまい。
「お嬢様は主上のことを、きっと良い王になるとおっしゃっておりました」
銀児が色々と省略してそれだけ言うと、劉輝はまさに喜色満面といった表情でうんうんと頷いた。
「そうか……秀麗は余をそんな風に……」
うふふ、うふふ、と嬉しげな劉輝の後ろで、静蘭が疑わしげな目で銀児を見ていた。生憎とあんたと違って空気が読めるもんで、と目を細めると、静蘭は苦々しげな顔をした。
「では、何か秀麗のことを余に教えてはくれぬか?」
「……お嬢様のこと、ですか?」
「そうだ。たとえば、人柄とか、何色が好きか、とか、好きな食べ物とか、…お、男の趣味とか!」
銀児は少しの間考えて、小さく溜め息をついた。
「申し訳ありません、主上。きっと私がお嬢様について知っていることは主上とほとんど変わらないと思います」
劉輝が残念そうに眉尻を下げる。銀児の胸が少しだけ痛んだ。
「本当か? そなたは余よりずっと秀麗とともにいるではないか」
「はい」
銀児が頷くと、劉輝はひどく寂しげな様子で銀児を見つめるので、銀児は目をそらして続けた。
「お嬢様は裏表の無いお方ですから、主上がお尋ねになればきっと全てにお答えするでしょう。お嬢様がお答え出来ないことは、私から申し上げることは出来ません」
そうか、と劉輝は俯く。
楸瑛が明るい調子で口を挟んだ。
「いやはや、家人の鑑だねぇ。私なんて侍女たちの口の軽さのせいで何人の素敵な女人を失ったことか」
「自業自得だ」
それに絳攸が冷たく返した。
「藍将軍、銀児をあまり誉めないでください。本当に知らないだけなんですから」
静蘭がぽんぽんと小馬鹿にしたように銀児の頭を叩く。銀児はそれを避け、鼻を鳴らした。
「私は私心なく誠心誠意お仕えしていますから」
「何事にも限度があります。お嬢様の好きな色や食べ物くらい把握しておきなさい」
「必要ない。布を選ぶのは私じゃないし、料理だってお嬢様がしますから」
再び睨み合う二人を楸瑛が笑う。
「君たち、いつもそんなに喧嘩ばかりしているのかい?」
「ええ、顔を合わせれば銀児がつっかかってくるんです」
「だから顔を合わせないようにしているのですが、それを静蘭はまた責めるのです」
「まあまあ、二人とも……」
楸瑛は苦笑しながら、威嚇しあう犬をなだめるように二人の間に体を滑り込ませた。なるほど、素晴らしい身のこなしである。
「なあ、銀児」
俯いて何か考えていた劉輝がぱっと顔を上げた。その瞳は変わらず穏やかだが、強く素直な光を宿していて、慣れないものを見たような気持ちで銀児は思わずどきりとする。
「やはり、余が間違っていたのだ。誰かにこっそり秀麗のことを聞こうなど、秀麗に失礼だった。余は、今から秀麗に秀麗のことを聞いてくる!」
銀児は目をぱちくりさせて、劉輝の榛色の瞳を無遠慮に見つめてしまった。
劉輝はにこにこと笑い、銀児を見つめ返す。
「銀児のおかげで大事なことに気づいた。余は、もう少しで秀麗にとても失礼なことをするところだった。礼を言う」
まさか自分が王に感謝される日が来るとは思いもしなかった。銀児は口をぱくぱくさせて何か言いかけたが、口を閉じて跪拝する。
この素直な王が秀麗の言うように良い王になるのか、銀児には少しも分からない。だが、この実直な態度に銀児は王にわずかな好感を抱いた。
もしかしたら、自分はこの王のために再び人殺し稼業に戻らねばならないかもしれない。
霄太師は決して親切心から銀児を邵可に預けたわけではないだろう。霄太師の権力を以てすれば、銀児を従わせることなどたやすい。
もとより銀児は短い間とはいえ霄太師の配下であった。多少なりとも国家機密に近いところにいた銀児を霄太師が手離すはずもない。自分が殺されなかったのは、霄太師が自分を使える駒と判断したからだ。
いずれ必要となれば霄太師は邵可の代わりに銀児を引き出すだろう。
だが、銀児は、この王が主ならば少しはましだと思った。それだけだったが、十分だった。
軽やかな足取りで秀麗のもとへ向かう王と、慌ててそれを追う配下の後ろ姿を眺めて、銀児は水瓶の口に手をかけてそれを見送った。