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 銀児は数冊の本と大量の書き損じに埋もれて、府庫にある邵可の仕事部屋に引きこもっていた。引きこもる、というより、一応珠翠に命じられての療養かつ謹慎である。
 体調が悪かった、と伝えられた銀児に珠翠は柳眉を吊り上げて怒った。「だからあれほど休めと言ったでしょう!」と、また具合が悪くなりそうなほど散々叱られ、数冊の詩歌や論説の教本とともに府庫に押し込まれた。

 府庫には本以外何もないし、数少ない雑用もそれ専用の侍童や下男がいて、銀児のやることは何もない。食事は、いかにも楽しそうに次官の男が用意した。
 だから銀児はくる日もくる日も書き取りと音読ばかりしていた。しばらくは目の奥に残っていた痛みに似た違和感は、ここ数日で消えた。

 銀児に与えられた本は基本的には普段使っている言葉を文字にしたものであるから、基礎さえ学べば単純な文章は読むに容易い。
 それでも銀児は、やっと、という気分であったし、日々進歩している自分が嬉しかった。武器による胼胝と小さな傷跡ばかりの手のひらには筆の持ちすぎのために胼胝が出来ていて、酷使した前腕が時折ちりちりと痛んだが、それすら心地よい。
 言いつけられた療養は十日間で、今日は丁度半分の五日目。府庫の倉庫に大量にあった書き損じの料紙をばらしたものは、ここに来て半分にまで減っていた。いい配分である。銀児は満足げに鼻を鳴らす。
 墨を消費しすぎるので、二日目から筆は木炭に布を巻いて持ち手にしたものに持ち替えた。文字は読みにくいが、そもそも読むためのものではないから構わない。それに、この木炭のがりがりとした書き味が銀児は気に入っていた。

 き、と軋む音をたてて室の扉が開けられる。銀児が視線を向けると、邵可が自分の仕事を持ち込みながら呆れたような複雑な顔をしていた。

「まだやっているの?」
「はい」

 邵可は卓上に書簡を置き、銀児の傍らの本を一冊取り上げて中を眺めた。

「おや、随分と進歩したじゃないか」
「……そうなのですか?」

 ぱ、と銀児は邵可を見上げる。珠翠が見繕った教本だ。同じようなことばかり繰り返していると思ったが、内容も進歩していたらしい。
 銀児は照れ隠しに散らかった紙を一所に集めた。銀児の人差し指の長さほどのあつさになった紙の束をぽんぽんと叩く。
 すごいでしょ? とばかりに邵可を見上げると、邵可はすごいすごいと笑って銀児の頭を撫でた。

 邵可は卓と揃いの椅子に腰掛け、銀児の方を見る。銀児は邵可を見上げた。
 外はもう月の出る頃合いで、銀児は煌々とした月の光の下で書き取りをしていた。邵可が蔀と銀児の間にある椅子に座ったので、手元は薄暗い。

 邵可は銀児を手招いた。銀児はそろりと邵可に寄り添う。

「字くらい、私が教えてあげたのに」

 邵可が囁くので、銀児は少しだけ笑う。

「だって、恥ずかしいじゃないですか」
「……恥ずかしい?」
「多分、私は何も知らないから」

 ただでさえ銀児は無教養を自覚している。開き直る割には妙に虚栄心が強いというか見栄っ張りというか、邵可や秀麗に「字を教えてほしい」とは言い出せなかった。
 その点、珠翠には気を張ることはないし、教え方も分かりやすいから、今まで邵可に近いところにいるという理由だけで珠翠を毛嫌いしていた自分を馬鹿だと思った。
 銀児は一日おきに珠翠のところへ行って成果を見てもらうのだが、その時珠翠は菓子を用意して茶をいれてくれる。そして、後宮のことや秀麗のこと、邵可のことを話して、時には珠翠が銀児に仕事の愚痴をこぼしたりする。
 珠翠は容貌が美しいだけでなく、優しく、礼儀作法に通じ、教養もある。情に篤すぎるところは兇手には向かないと思ったが、友人としては文句のつけようがない。

 銀児は――珠翠がそれを了承してくれるかは分からないが――珠翠を自分の数少ない友人と感じ始めていた。

「それに、珠翠様に字を教えてもらうのは……楽しいです」

 ふぅん、と邵可は言う。銀児は思わず肩を震わせた。邵可の言い方になんとなく棘を感じたからだ。

「君が楽しいなら何よりだよ。連れてきて良かった」

 邵可はごくごく穏やかにそう言うのだが、思わず固くなってしまうのは銀児にやましいところがあるからだろうか。

「……あの、でも、邵可様と一緒にいるのも好き、です」

 銀児は自分に言い聞かせるように呟く。
 ざわざわと蔀の外で梢がざわめく。先ほどまで煌々と照っていた月が、ふと雲に隠れた。銀児は急に不安になる。

「どうだろうね」

 邵可は一言、そう言った。銀児は泣き出しそうになる。

「……本当です。でも、邵可様は忙しそうだから、その間は字の練習をするんです」

 ふう、と溜め息の声が聞こえる。ぎし、と仮眠用の寝台が軋む音が響いた。
 しょうかさま、と銀児は小さく呟く。

「私は少し休むけど、君はどうする?」

 邵可は寝台に腰掛けながらそう問うた。銀児は面食らって口ごもる。
 邵可が己から休むと言うのは初めてだった。邵可はあまり眠らない。銀児がいつも邵可を寝台に引き込んで先に眠る。目が覚めるとすでに邵可は起きている。
 眠れないのだろう。銀児自身、一人ではあまり眠れないし、陰惨な経験を経て眠れなくなった人間を大勢知っている。

 銀児は上目遣いに邵可を眺めた。薄暗い影になってよくその表情は見えない。銀児があれほど懇願しても構ってくれなかったのに、半ば諦めると手を差し伸べられる。
 もし、この手をこちらから振り払ったら、邵可はもっと自分を構ってくれるだろうか、と銀児は考えたが、結論を出す前に体はもそもそと布団に潜り込んでいた。
 まだひんやりとした布団の中で、邵可の体に触れる。自分より少し温かくて、固くて、厚い体だ。銀児は邵可の胸に頬を押し付ける。

「邵可様はずるい」

 銀児が呟く。体が温まると銀児の体は痛切に眠気を訴えだした。最近、眠ってばかりである。とろりとする目をまたたかせながら、銀児は邵可を見上げる。

「ずるいですよ。それに、いじわるです」

 しがみつく邵可の体がわずかに揺れた。笑ったのだろう。

「どうして?」

 銀児はうとうとしながら答える。ぼんやりとした頭では、あまり難しいことは考えられない。

「……やっと、邵可様離れ出来るかと思ったのに」

 邵可は銀児の頭を撫でる。その手は徐々に下りて、瞼や頬や唇を撫でる。

「そう、やって、気まぐれに優しくするから……」

 邵可の手が銀児の着物の下を這う。だが、頭を使ったせいかひどく眠くて、銀児の体はそれに応えたがるのだが、頭がそれを拒否する。
 銀児は頑張って起きようとするのだが、瞼が重い。

「離れ、られない……これじゃあ……」

 限界だった。最後の方は呂律が回らず、自分でも何を言っているのかわからない。抗いがたい睡魔に身を任せながら、銀児は邵可が「離れなくていいよ」と呟くのを確かに聞いた。


******


 銀児は深く眠って、夢さえみることなく唐突に覚醒する。細く開けた目には、薄青に照らされた室内が映る。
 銀児は温かな布団の中で目を覚まし、のろのろとあたりを見回した。邵可の着物を握り締めていた手をほどくと、握っていた場所に皺がよっている。
 顔を上げて邵可を見ると、眠っているようだった。

 ――珍しい

 銀児は布団の下で邵可の手を探して握る。邵可は身じろぎもしない。
 寝たふりをしているのだろうか、と銀児は思うのだが、どうやらそうでもないらしい。銀児はつい悪戯心をおこして、邵可の顔に触れてみようとした。
 目尻にうっすらとよる皺を撫でようと手を伸ばすと、手首を掴まれる。ぐいと肩のあたりを押されて、寝台に押し付けられた。捻り上げられた肩から手首が軋んで、銀児は小さく呻く。
 殺される、と思った。少なくとも、そういう目をしていた。体中を一気に血液が巡り、逃走に備えて心臓が跳ねる。
 邵可は銀児を見とめて、溜め息をついた。

「ごめん、寝ぼけていた」
「……次からは邵可様より早く起きないようにします」

 銀児が言うと、邵可は苦笑して額を押さえる。

「久しぶりにこんなに深く眠ったよ」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫。本当に寝ぼけてただけだから」

 邵可は笑いながら銀児の頭を撫でた。銀児は目を細めて、邵可の胸元にすり寄る。

「邵可様は……」

 何か言いかけようと呟くのだが、何を言ったらいいのか分からなくなった。銀児は黙って息を吸う。邵可のにおいを思い切り吸い込んだ。

「大丈夫だから」

 邵可はそれしか言わない。
 ぎゅうと銀児は邵可の手を握る。固くて骨ばった大きい手だ。

 ずっと考えていたことがある。たとえばの話だ。自分が霄太師に邵可を殺すように命令されたら、自分は邵可を殺すだろうか。
 逆に、邵可が自分を殺す必要にかられたら、邵可は自分を殺すだろうか。

 邵可はおそらく自分を殺すだろう。先ほど組み敷かれて、銀児は確信したのだ。自分は殺されて、取るに足らない黒狼の犠牲者の一人として列挙される。
 ならば、自分はどうだろう。
 銀児は笑った。笑ってしまうほど有り得ない想定だった。
 それは、愛してるから殺せないだとか馬鹿げた理由ではない。己の技量が遥か黒狼に及ばないのだ。及べば、殺すだろうか。多分、殺すだろう。その後自分がどうなるかは知らない。
 銀児が笑っているので、邵可は不思議そうに銀児を覗き込む。どうしたの、と邵可が問うた。

「なんでもないですよ」

 銀児は邵可の腰に腕を回す。

「銀児、どうしたの?」
「ん……」

 うふふ、と銀児は邵可に頬摺りする。

「なんでもないです」
「本当に?」
「本当に」

 銀児の手が邵可の脇腹を撫でる。少しだけ、邵可の体が震えた。
 ぺしん、と額を叩かれる。銀児は肩をすくめた。

「今日は珠翠のところに行くんだろう?」
「はい」
「じゃあこんなことしてる暇ないだろう」

 そのまま寝台を追い出された。邵可自身も寝台を出て上着を羽織る。

「そうですね」

 銀児ものろのろと着物を直した。顔を洗って、珠翠のところへ行く。珠翠の時間があくのは秀麗が主上と勉強会をしている午前中であるから急がねばなるまい。

 銀児は身支度を済ませると、薄暗くて本の匂いがする廊下を通って表へ出る。外は春らしい暖かく柔らかな風が吹いていた。後宮にほど近い府庫の周囲では、風にのって花の香りがする。

 香りを辿るように歩き、後宮への門を守る衛士に会釈すると、すっかり常連である銀児はちらりと顔を見ただけで通された。
 警備が甘い気がしなくもないが、いかにもひ弱そうな女一人、警戒が薄れるのも仕方ない。銀児は自分の脆弱そうな容姿が嫌いであるが、こういう時ばかりは重宝する。
 「また女官長のところへ行くのか?」と、一人の若い衛士が銀児に声をかけた。銀児が頷くと、衛士は銀児に紙を握らせる。

「珠翠様に渡してくれ、頼んだぞ」

 それだけ言うと、その衛士は何食わぬ顔で銀児を通す。銀児も何食わぬ顔で後宮に足を踏み入れたが、少し歩いて完全に衛士が見えなくなったところで、その手紙の内容を確認した。
 練習の成果であろうか。銀児はそれの内容が理解出来て、嬉しいのとおかしいので一人にやにやと笑う。
 もっとも、その内容など容易に想像出来るものであったが、一字一句読みながら廊下を歩いた。

「おや、銀児。随分と早いですね」

 珠翠にたまたま行き違い、声をかけられたので銀児は手紙から顔を上げる。
 銀児は挨拶して、珠翠に手紙を差し出した。
 珠翠目を丸くしてそれを受け取ったが、中身を確認して溜め息をつく。

「中を見たのですか?」
「念のため」
「……どう思いました?」
「今なら私の方がまともな文章を書けます」

 それを聞いて、珠翠は失笑する。何か言いかけた珠翠の言葉を遮るように、少女の小さな悲鳴と、次いで秀麗のどいて! とか、起きなさい! とかいう悲鳴が聞こえた。
 珠翠が緊張するのが分かる。銀児も身構えたが、悲鳴の調子から察するに、そう重大事ではないようだ。それは、珠翠も同じ見解らしい。
 すると、廊下の向こう、秀麗の室の方からぱたぱたと香鈴が走ってきた。珠翠がそれをたしなめるが、香鈴は目をきらきらさせて、珠翠を見上げる。

「紅貴妃様が主上と床を共になさいました!」

 きゃー! と、まるで自分のことのように頬を染める香鈴を見て、銀児は首を傾げた。王と同衾した女がどうして目を覚まして悲鳴をあげるのだろう。珠翠が秀麗の室へ向かうので、銀児は考えながらその後ろをついて行く。

「如何いたしました、紅貴妃様」

 秀麗の室の前で頭を下げる珠翠の後ろからちらと室内を覗くと、顔を赤くして怒った様子の秀麗と、不満げに唇をとがらせる劉輝の姿が見えた。室の様子からして床を共にしたとはいっても情を交わしたわけではないらしい。
 良かった、と銀児は胸を撫で下ろす。仮に邵可に尋ねられた時に「お嬢様は王と枕を交わしましたよ」と伝えるのはいかに銀児とて心苦しい。

 珠翠はなんとか二人をなだめて、劉輝を室の外に追い出す。「お召し替えをいたしましょう」と珠翠が言うと、秀麗は寝台から立ち上がり、薄物を羽織る。
 そのとき初めて珠翠の背後に銀児をみとめて、秀麗は顔をひきつらせた。

「銀児!? どうしてここに……! 休んでいるんじゃなかったの?」

 銀児は少し考えて口を開く。

「はい。ですが、用事がありまして」
「どうしてこんな時に限って! ねえ、銀児! ほんっとーに何も無かったのよ! ただ添い寝していただけ!」
「存じております」

 銀児が答えると、その断定的な口振りに秀麗は安心したように笑う。

「そ、そうよね! だって……」
「もしもがあれば、私より静蘭が先に嗅ぎ付けるでしょう」

 銀児が呟くと秀麗は硬直する。あ、と銀児は思ったが、出た言葉はどうにもならないのでつとめて平静を装っておいた。
 珠翠が咳払いをする。珠翠は秀麗の帯を締め、上着を整え終えた。

「紅貴妃様、御髪をお結いいたします。こちらへ」

 珠翠が秀麗を鏡台の前へ連れて行くので、銀児は手持ち無沙汰になって室内を眺めた。
 銀児は二人の目を盗んで化粧箱の引き出しや小箱を開けて中を改める。ふ、と銀児の手が止まった。一枚の紙片を小箱から抜き取り、懐にしまい込む。

「銀児、どうしたの?」

 鏡越しに秀麗と目が合う。銀児はその視線をついと切って答えた。

「小箱の中に虫が逃げ込みました」
「え! 銀児、お願い、捕まえてちょうだい!」
「はい」

 銀児は言いながら虫を追い払うふりをして、小箱の中身を次々改めていく。
 珠翠が秀麗の髪を結い終えた。

「紅貴妃様、朝餉の準備が出来ております主上もお待ちですよ」
「劉輝も!」

 怒りを思い出したように眦を上げる秀麗に銀児は肩をすくめた。
 添い寝でこの怒りようだ。まさか自分もあなたの父親と添い寝していました、とは言えないし、まして抱かれていることなど知られたら秀麗は憤死しかねない。
 勝手に枕をよけて添い寝していたのよ! と珠翠に愚痴をこぼす秀麗を見ていると肩身が狭い思いだ。自分も邵可の布団に勝手に潜り込んでいる。
 こんな初心で可愛い時が私にもあっただろうか、と銀児は考えるが、どうにも思い当たる節が無い。

 すれ違いざまに珠翠が銀児に耳打ちする。

「私は給仕をしますから、あなたは待っていなさい」
「何かお手伝いしましょうか? 室の掃除とか」
「いいからおとなしく待っていなさい。あなたは療養中ですよ」

 そういう次第で室を追い出された。銀児は目にかかる前髪をかきあげて溜め息をつく。
 よく整えられた庭園におりて、咲き乱れる花を眺める。銀児はある花木に目をとめた。細長い若葉が春の日差しにつやつやと輝いている。蕾はまだ青く固いが、銀児はこの木が美しい八重咲きで紅色の花をつけるのを知っていた。
 銀児はその木の陰で空を見上げる。木の葉には虫食い一つ無い。

 ――療養なんてしている場合ではなくなりそうだ

 銀児はその葉を一枚千切った。