9
珠翠が自室に戻ると、銀児は蔀の外、桜が盛りを迎えた庭園にぽつりと佇んでいた。
「お入りなさい」
珠翠が声をかけると、銀児は身軽に蔀を乗り越えた。はじめのうちは注意していた珠翠ももはや慣れつつある。
人の目のあるところではそういう振る舞いをしないので、これはある種の親愛の表れかもしれないと思うことにした。
「どうですか? 進んでいますか?」
「上々です」
変わらぬやりとりを交わして、二人は席につく。
銀児が珠翠に数枚の料紙を差し出した。珠翠の出した課題だ。その出来は目を見張るほど素晴らしいというわけではないが、それなりにそつなくこなされていた。
銀児は教養は無いが頭が悪いということはなく、珠翠の言うことをよく学ぶ。むしろ熱意は並々ならぬものがあり、驚くような速度で知識を吸収していた。
珠翠がその課題を添削している間、銀児は何か物思いをしているようで、淡い褐色の瞳が宙を移ろう。珠翠はその表情を盗み見た。
珠翠は銀児のことを何も知らない。せいぜい元兇手であったことと、邵可や自分の正体を知っていることくらいしか知らない。
そういえば、霄太師と面識がある様子ではあった。あの人が絡むと碌なことがないのだけは確かだ。
何度か共に茶を喫するようになり、珠翠はいくつか自分のことを銀児に話した。当たり障りの無い程度に縹家の出であることや、昔のことを、だ。しかし銀児は益体もない世間話や、邵可や秀麗のことを話す程度で、己の核心には触れようとしない。
まるで、それから目を逸らしているようですらあった。
珠翠は添削を終えた料紙と新しい課題を銀児に手渡す。
銀児は添削された内容を改めながら、珠翠に尋ねた。
「珠翠様の故郷……縹家、でしたか?」
珠翠はどきりとするのだが、貴族でも王族でもない銀児にとって縹家の名はさして意味を持たぬらしい。珠翠にはそれが好ましかった。
「そのあたりはどのようなところでしたか?ここと同じように桜は咲きますか?」
いずれ基本的な地理も教えてやらねばなるまい、と思いつつ珠翠は頷く。頷いて、銀児に向き直った。
「あなたの故郷はどうなのですか?」
そう問うと、銀児は顔を上げて、不思議そうな顔をした。
「私の?」
「ええ」
言いながら珠翠は茶をいれる。銀児は何か考えている風だった。
「無かったと思います」
銀児は呟く。何かを思い出すときの癖なのだろうか、卓上に置かれた手の人差し指が、とん、とん、と天板を叩いた。
珠翠は銀児の前に茶と兎の形をした饅頭を並べる。銀児はほくほくと饅頭を手にとった。
「銀児、今日はあなたの話が聞きたいのです」
珠翠は意を決してそう言った。銀児は遠回しに探りを入れても答えてくれない。ならば真正面から問えばどうだろう、と思ったのだ。銀児は困った顔をする。
「私の話?」
「ええ、あなたの生い立ちや好きなものでもなんでも構いません」
生い立ち、と銀児は口の中で復唱した。きゅ、と銀児の眉間に皺が寄る。
「昔のことはあんまり覚えていないのですが……」
珠翠は銀児が「昔のことはあんまり思い出したくない」というのかと思って身をかたくしたが、杞憂であったようだ。銀児は珠翠が拍子抜けするほど淡々としていた。
「ああ、生まれは茶州でして。これは以前お伝えしましたか?」
「いいえ、初めて知りました」
「茶州の貧しい地域に産まれました。母親は売春婦だったらしいです。父親は――血の繋がった男親という意味での父親ですが、茶州の人間ではなかったようです。珠翠様は、飛斗をご存知ですか?」
ひと、という聞き慣れぬ単語に珠翠は首を横に振った。銀児は頷く。
「茶州と黒州境の山に住む――いわゆる、まつろわぬ民を茶州ではそう呼ぶのです」
銀児はそこでいったん言葉を切る。とん、とん、と指は一定の間隔で動いていた。
「……朝廷に従わぬ民ということですか?」
「そうです。山中を漂泊し、雪原で獣を狩る」
珠翠は銀児の白い顔をまじまじと見つめた。彩雲国に住みながら八仙を信仰せず、異なる理でもって生きる者たち。まつろわぬ民とは呼ばれるものの、彼らは何も反社会的に生きているわけではない。時には山を下り、細工物や毛皮を売ったりする。そういった山窩や世間師の類は、数こそ多くないが紫州周辺にもいる。
「飛斗の子供は高く売れるんです。私は半分はただの茶州の民でしたが、たまたま飛斗の特徴が強く出ていたらしい。飛斗の特徴を備えただけの茶州民の可能性もありましたが、仲買人が優秀だったのでしょう」
何と相槌を打ったのかもわからぬ珠翠を、銀児は唇の端だけで笑った。
「というか、売られたのかどうか、よく覚えていないのです。ほんの幼い頃の話でしたから。もしかしたら、捨てられたのを拾われたのかもしれないし、攫われたのかもしれない」
珠翠が眉間に皺を寄せて俯くと、銀児はやはり困った顔をした。
「そんな顔をしないでください。そんなに悪くなかったですよ。何しろ高額商品ですから、毎日飯は食えるし清潔な着物は与えられるし」
「銀児、飯ではなく食事と言いなさい」
珠翠が場の空気を変えるようにそう言うと、銀児は少々わざとらしく肩をすくめて見せた。
「ええ、そうですね。毎日食事を与えられました」
そこで、銀児は饅頭を一口かじる。まだ熱い茶を飲んで、銀児は目を細くした。
「私はましな方です。少なくとも瘡毒でぐちゃぐちゃになって死ぬことはありませんでした。飛斗まじりをまさか女郎宿には売りませんから。花屋に金物を売りつけるようなもんです」
ぼんやりとした銀児の瞳が、珠翠の顔のあたりを眺め回す。やはり、その口振りはどこか他人事めいていて、珠翠もその話にあまり感慨を抱けなかった。
涙ながらに語れば苦労話にはなるだろうか。だが、貧しい家が子供を売るのはよくある話で、むしろ殺さないだけ良心的かもしれない。
珠翠が先を促すと、銀児は迷うような素振りを見せた。
「どうしました?」
「いえ、……どこまで話したものかと思いまして。別に面白い話ではないですし」
それに、もう、みんな死んでいるのです。と、銀児は薄暗く笑う。
「邵可様にだって話していないのに」
「そうなのですか?」
それは意外だった。銀児は邵可に当然全てを明け渡しているものだと思っていた。
「だって、邵可様は私に何も教えてくれない」
ふふふ、と銀児は低く笑声を漏らした。
「だから、珠翠様もこの話は邵可様に秘密です」
銀児は左手の小指を唇に当てる。珠翠は曖昧に頷いた。そんなことまで聞いていいのか、と思う。
邵可と銀児の関係は、よく分からない。銀児が邵可に執着しているのは間違いない。それは同じ男を愛した女の直感だった。だが、それは愛と呼ぶには温度のない、かさついた感情であるようにも見える。邵可はどうであろうか。こればかりは、珠翠にも計りかねた。
愛しているのだろうか。静蘭や珠翠を慈しんだように、銀児も大切に思っているのだろうか。表面上はそう見えた。だが、時折、昔のようにぞっとするほど冷たい目で邵可は銀児を見る。
己で推し量れぬ養い親の心の動きを、珠翠はひどく恐ろしく思った。
銀児は珠翠の思惑も知らず、言葉を続ける。
「それで、私はかなりの大尽のところで働くようになりました。最初から兇手をさせるつもりだったのかまでは分かりません。ただ、そこには山守と兇手を兼ねて雇われた飛斗の男がいまして、飛斗のことは全てその男に聞きました。その男は私に飛斗の技術を――獣を狩り、解体する技術や、山を歩く術を叩き込みました」
銀児は目を伏せる。
「おっかない人でしたよ。縄一本で木々の間を飛び回るとんでもない人でした」
その時、はじめて銀児の口調に感情が滲んだ気がした。懐かしむように、哀惜するように、銀児が目を細めた気がした。だがそれは気のせいであったかもしれない。珠翠がそうあってほしいと思ったから、そう見えたのかもしれなかった。
事実、まばたきの間に銀児はあの淡々とした表情に戻っていた。
「銀児という名前はその人がつけました」
ああ、と珠翠は得心した。銀児の話しぶりが奇妙なまでに感傷を帯びない理由を。
銀児にとってそれはまさに他人事なのだろう。銀児の記憶はその身に銀児という名を戴いて初めて機能する。
銀児がその忌まわしい記憶の象徴たる“銀児”という名前を捨てなかったのはどうしてだろうか。銀児なりの自分と死者に対するけじめなのだろうか。そうでなければそんな名などさっさと捨てれば良かったのだ。旧い名と共に、貧しく惨めな幼少時の自分を捨てたように。
銀児の思考は獣じみて見えるが、その実ひどく人間的だ。人間的で合理的のようで、どこか矛盾に満ちていた。
銀児は顔を上げる。疲れたような顔をして、珠翠を見た。
「もう、いいですか、このあたりで。この話、面白かったですか?」
「ええ、とても」
ほんとうに? と銀児は怪訝そうに眉をひそめる。その反応が面白くて、珠翠は小さく吹き出した。銀児は一層憮然とした顔になる。
「笑うような話でした?」
「ふふ、いえ、すみません」
「構いませんが……。ああ、それから、好きなものでしたか?」
銀児は褐色の瞳でゆるりと宙を見る。
「好きなもの……問われると難しいものです。山鳥は好きです。美しい尾も、塩で焼いたのも。塀の上から見える隣の邸の花木も。実を言うと、麦飯も好きです。あとは、青蛇の若いの」
「蛇? なぜ蛇が好きなのです?」
「蛇っていっても、このくらいの小さなものです。若いやつは、青くて綺麗なんです」
銀児は開いた手の親指から中指ほどの長さを示して見せる。たとえ小さくとも、珠翠は蛇は好まない。銀児はふと何か考えついたように動きを止め、珠翠の方を挑戦的な目付きで見る。
「邵可様も」
珠翠は思わず一瞬だけ目を逸らした。それから、窘めるように銀児を睨む。
「邵可様を麦飯や蛇と同列に語るなんて」
銀児は膝の上で指を組んだ。女にしては長く、骨張った指だ。
「今挙げたものの中では、一番好きですよ」
言い訳をするように、銀児は唇を尖らせる。
「なぜ?」
珠翠が問うと、銀児はしばらくぼんやりと宙を見ていたが、首を傾げて「なぜ?」と口の中で繰り返した。眉根に皺が寄る。
「なぜ? なぜって、なぜ好きかという意味ですか?」
「ええ」
「そんなことを聞きますか?」
銀児は半ば呆れた顔をした。まさか銀児のこんな表情を見られる日が来るとは思わなかったし、その表情をさせるのが己だとも思わなかった。
「珠翠様にとって、邵可様は優しい……ええと、やし、の……?」
銀児は困ったように眉尻を下げる。珠翠は「養い親?」と助け舟を出す。それです、と銀児は頷いた。
「珠翠様にとって邵可様は優しい養い親ですけど、私にとっては違う」
銀児はするすると己の着物の襟を緩めた。ぎょっとして止めようとしたが、銀児の首まで覆う着物は戸惑いなく肌蹴られる。
青い静脈の浮く白い胸に、大きな傷があった。古い傷だ。大きさの割に深くもなかったのだろう。白く引き攣れてはいるが、注意しないと見落としそうな傷だ。
邵可に付けられた傷なのだろうか。
「傷は、付けた人の思いが消えない限り消えないんです」
初めて聞く話だ。珠翠は銀児の体から目を逸らし、早く着物を直しなさいと命じた。銀児は素直に襟を直す。
「私にとって、邵可様は私を殺そうとした人です。青い火のような目で見られただけで、死ぬんだと思いました」
「……でも、死ななかった」
銀児は笑った。硝子玉のような瞳が、熱に潤む。
「死ななかった。刃は薄皮を裂いただけだった。でも、怖かった。生まれて初めて感じた、純粋な死の恐怖だった。頭ではこのまま死ぬんだと、それでもいいと思いましたが、体は違った。全身を血が巡って、脳髄から何かが染みだすようにぞわぞわした。その場から逃げ出そうとする体と、死を望む頭とーーーー私は、」
私は、と、銀児はそこでゆるゆると息を吐いた。
「多分、その感覚が忘れられないでいる」
珠翠の背筋が寒くなる。そのために、邵可のもとにいるというのだろうか。銀児はしばらく熱に浮かされたように目を伏せていたが、蔀の外で鳥の鳴き声が聞こえるとすっと顔を上げた。
もはや瞳に狂気の色はない。
「お嬢様の身の回りに何か変わったことはありませんでしたか?」
珠翠は銀児の急激な話題の転換についていけず、目を丸くする。それから気を取り直して表情を引き締めた。
「実は、あなたが休んでいる間に、紅貴妃様の室に毒や呪いものの類が仕込まれるようになりました」
一番恐れていたことだ。何者かが紅貴妃の殺害を企てている。出来るならば平穏無事に送り出してやりたかったのだが。
銀児が無言で珠翠に一枚の紙片を差し出した。
珠翠はこれと同じものをこの間回収したばかりだ。一見すると護符のように見える小さな札である。経のような字が書かれているが、それが火を吐くような呪いの言葉であるのを巫女としての教育も受けた珠翠は見抜いていた。
「警戒はするべきですが、それ自体は恐れるものではありません。呪いの文句じたいはよく練られていますが、書き手に力が無いようです」
珠翠が言うと、銀児は眉をひそめた。
「呪いですか?」
「ええ、そうです。それには目を覆いたくなるような文言が記されています」
ふうん、と銀児は興味深そうにそれを見つめた。一応銀児の教師役をつとめる珠翠にしてみれば、銀児にこういう良くない言葉を覚えて欲しくはない。
「そうだと分かって回収したのではないのですか?」
「呪いには詳しくありません」
銀児はその紙片をつまみ上げ、飲み残した茶にひたす。
「墨に毒を混ぜる。あとは、夫婦和合の経文だとでも言って、水に溶かして飲ませます」
「確証は?」
「飲んでみますか?」
銀児は言って珠翠に茶器を傾ける。珠翠は顔をしかめた。
「冗談です」
「しかしそれが本当に毒だとしたら……」
「向こうはこちらを脅しているだけという可能性があります」
それはそうだろう。本来、飲ませるべきものを室に放置していては怪しまれるだけだ。珠翠は口を開く。
「しかしそれに何の意味があるのですか?」
「分かりません。言ってみただけです。あくまで、可能性の話です」
「たとえば、相手が素人という線はどうでしょうか?」
珠翠が提案すると、銀児は難しい顔をして深く椅子に腰掛ける。
「……貴妃の暗殺に素人を使いますか?」
「まずあり得ませんわね」
珠翠は自らその可能性を否定する。銀児は経文の溶けた茶を鼻先に近付けた。まさか飲むのか、と身構えたが、匂いを確かめただけらしい。
「ああ、砒霜だ。高価な毒です。簡単には手に入らない」
珠翠は先を促す。
「珠翠様が認められるほどよく練られた呪いの言葉なら、書き手は高い教育を受けている。かつ、砒霜を手に入れられるそれなりの財力。珠翠様に怪しまれず紅貴妃の室に入れる者」
「……内部犯と言いたいのですか?」
「可能性ですが、辻褄は合います」
「しかし、何故?」
「……そりゃ、自分が紅貴妃に成り代わりたいからじゃないですかね?」
珠翠はそれがどうにもしっくり来なかった。銀児も同じようで、自分で言いながら首を傾げている。
「辻褄は、合うのですが……」
「納得いきませんね」
二人は顔を見合わせる。
「分かりました。紅貴妃様の室に入られるのは私が選んだ信頼出来る女官に限定します」
「そうしてください」
「それから、紅貴妃様に余計な心配をかけませんよう」
珠翠が言うと銀児は茶器を手に席を立つ。廊下の方がざわついていた。どうやら主上と紅貴妃が勉強会を終えたらしい。
蔀を越えようとする背中に声をかける。
「……邵可様に宜しくお伝えになってください」
銀児は少しだけ笑った。