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 珠翠が紅貴妃の室に戻ると、朝の支度を終えた秀麗は、今日は刺繍で息抜きをすることを決めたらしかった。
 室の隅では銀児が番犬のように睨みをきかせている。銀児が戻ると紅貴妃の護衛は格段に楽になった。何しろ、珠翠が四六時中ついて歩かなくても、銀児と入れ替わりにどちらかが見ていればいいのだ。秀麗に無用な不安感を与えるのを防ぐことも、間者にこちらが気付いていることを悟られるのを防ぐことも出来る。

 秀麗が刺繍した手巾を見た香鈴が、ほうと感嘆の溜め息をついた。

「なんて美しいお刺繍でしょう」

 秀麗はにこりと笑い、香鈴にも刺繍を勧めた。大切な人に贈るのだ、と真剣な様子の香鈴を見て、珠翠の頬も弛む。同時に言いようもなく悲しい気持ちになった。

「珠翠もどう?」と絹を渡され、珠翠は面食らう。お裁縫は苦手でして、と断ると、秀麗や香鈴だけでなく、壁際の銀児まで意外そうに顔を上げたので、珠翠は目を伏せた。
 自分が養女であることや“ちょっと変わった養い親”について話すと、やはり感づいたのだろう銀児は目を細める。その目に宿るのはほとんど殺気と言っても良かった。
 珠翠は思わず銀児から目を逸らす。

「あなたもお刺繍を大切な人に贈ればいいわ。そうだ、銀児。銀児もどう?」

 銀児は呼びかけられ、慌てて背筋を伸ばした。

「私ですか?」
「ええ、あなたは手先が器用だからきっとすぐに上達するわ」

 断るきっかけを失い、銀児は淡い黄色の手巾を受け取った。手渡すときに秀麗は銀児に悪戯っぽく囁く。

「こんな上等な絹で刺繍が出来る機会、もう無いわよ」

 銀児は手元の布をするすると撫でながら見つめていた。どうやら絹の手触りがお気に召したらしい。
 銀児は香鈴とともに刺繍の仕方を簡単に教えてもらうと、三人の輪から少し離れた位置に座った。

「こっちに入れば良いのに」

 秀麗は言うのだが、銀児は「そういうわけにはいきませんので」と、断ってしまう。下女としては正しい振る舞いではあるが、あれでは冷たくとられてしまうだろう。
 実際、香鈴は銀児が輪から外れたのを見てほっとしたような表情をしていた。無愛想で無口な銀児を、まだ幼い香鈴が怖いと感じてしまうのは仕方のないことだ。

 珠翠は自分の白い練り絹に視線を落とす。さて、何を刺繍しようか、と刺繍の型紙を眺める。つまらぬ見栄であるが、銀児に見劣るものだけは作りたくない。何故なら、おそらく送り先は同じであるからだ。
 珠翠は大輪の牡丹の型紙に目を止める。これならば花弁が大振りで刺繍しやすいだろうし、見栄えもいい。
 珠翠は白墨で布に牡丹を写し取る。

 ――それを横で見ていた香鈴は、珠翠の手元を覗いてぎょっとした。珠翠の顔は真剣そのものなのだが、布地にひかれた白墨はひどく混沌として線を描いていた。どうやら刺繍が苦手というより、壊滅的に絵心が無いらしい。
 天は人に二物を与えずとは言うが、と香鈴は見てはいけないようなものを見てしまった気持ちで、自分の手巾に集中した。
 濃い色に染められた絹に白墨は鮮やかに映えた。香鈴は型紙を見ながら、丁寧に丁寧に菊花を描いていく。


 珠翠は見本通りの目の覚めるような緋色の糸に手を伸ばしたのだが、はたと気が付いた。邵可に渡すのならば――いや、まだ渡すと決めたわけではないが――もっと渋い色合いが良いのではないだろうか。
 珠翠は迷いながら色合い毎に並べられた刺繍糸の上に手を滑らせる。花弁の色に合わせて花芯や萼の刺繍糸も彩度を落とした物を選んでいく。

 珠翠はちらと銀児の方を見た。手元は隠れてよく見えないが、どうやらもう刺繍を始めているらしい。
 何を縫っているのかまでは分からないが、茶色の糸を使っている。何か枝のある花を選んだのだろうか。その目は真剣で、鼻先に針が刺さるのではないかと思うほどに刺繍用の木枠に顔を近づけていた。

 香鈴は時折秀麗に教えを乞い、そのたびに秀麗は嫌がるそぶりもなく丁寧に答えてやる。珠翠は一通りの裁縫の技術は会得しているので、わざわざ聞く必要は無い。
 だが、その持てる知識を布上に表せられるか、となると話は別である。珠翠は自分が薔君に呆れられながら裁縫を習ったことを思い出した。
 薔君は珠翠の作った、いつの間にか三角形になった雑巾や、中身がぼろぼろと零れる巾着袋を見て「これなら蓑虫の方が裁縫上手じゃな!」と大笑いしたものだ。それすら今は懐かしい。
 今でこそその手の小物は人並みに作るようになったが、刺繍だけはいまだに苦手だ。そもそも、刺繍をするくらいならば、掃除をしたり、書架の整理をしてすっきりする方が、よほど珠翠には息抜きになるのだ。
 珠翠は思うような紋様を描かない糸目を見下ろし、溜め息をつく。


 結局、その日は夕方までかかって各々刺繍を完成させた。珠翠は途中、茶と点心を用意したのだが、その皿が空になることはなく、すっかり冷めた茶の表面には夕陽が反射していた。

「出来ましたわ」

 にっこりと笑い、香鈴が顔を上げる。秀麗と香鈴は互いに手巾の見せ合いを始めた。

「こんなに綺麗に出来たのは初めてです。紅貴妃様のご指導のおかげですわ」

 夜空の色をした濃紺の絹に鮮烈に縫い取られた白菊は、時折花弁が歪んでいるが、それもまたご愛嬌で実によく出来ている。

「そんなことはありませんよ。香鈴が大切な方を思って、心をこめて作り上げたがら、素晴らしいものが出来上がったのですもの」

 秀麗が言うと、香鈴はぱっと顔を赤くし、はにかんだ。咲きかけの雛菊のような微笑は、どうしてか見るものまで気恥ずかしいような気持ちにさせる。

 珠翠はさりげなく時刻を確認した。

「紅貴妃様、そろそろ夕餉のお時間でございます。主上がおつきになられますので、私は支度をして参ります」

 銀児、と名を呼ぶと銀児はすいと視線を上げる。

「紅貴妃様についてさしあげてください」
「かしこまりました」

 珠翠が出て行くと、秀麗は銀児を手招いた。

「銀児、あなたは出来たかしら?」

 銀児はしぶしぶといった様子で手巾を差し出した。
 あら、と秀麗は小さく声を上げる。感嘆の声ではない。どちらかというと戸惑いや驚嘆に近い。

「銀児、これは何を刺繍したの?」

 秀麗の問いに銀児は黙って型紙を差し出した。そこには青々とした葉とたっぷりと丸い実をつけた葡萄が描かれている。
 秀麗は銀児の刺繍に目を落とした。そこに縫い取られているのは何故か葉ばかりで、しかも曲線を縫いきれなかったのかいやにぱきぱきとして、まるで凍りついた葉のようだ。
 葉の縁や葉脈は茶と青の糸で太く豪快に縫い取られ、繊細で写実的な美しさの見本とは、もはや別物と化している。
 それ以外は、糸を引きすぎて布が少しつっぱっていることや、何度か縫い直したせいで布に小さな穴があいていることを含めても及第点であるのだが。
 秀麗は首を傾げた。

「どうして葉ばかり縫っているの?」
「綺麗だと思ったのです。……駄目でしたか?」
「そういうわけではないけれど……」

 斬新と言おうかなんと言おうか。秀麗は銀児に手巾を返した。

「とても綺麗に縫えているし、それに、とても……独創的で素晴らしいと思うわ」

 秀麗が言うと、銀児は嬉しげに少しだけ笑う。それを見た香鈴は驚いた顔をした。

「紅貴妃様、夕餉の支度が整いました。主上がお待ちでございます」
「分かりました。今行きます」

 珠翠の言葉に秀麗は手早く裁縫道具を片付け、席をたった。後ろに香鈴が続く。
 去り際、珠翠は銀児に「私の室に。耳に入れておかねばならないことがあります」と耳打ちした。

******

 珠翠は主上と紅貴妃の食卓を整えると、何気ない動作で自室に戻る。戸を滑らせると、薄暗い室内に銀児の姿があった。

「お嬢様には誰がついていますか?」
「主上がともにいらっしゃいます」

 不信感を露わにする銀児に珠翠は釈明した。

「年嵩の女官たちがなるべく二人きりにするようにとうるさいのです。あまり警戒しても怪しまれます。それに、主上は鋭い方ですから安心してください」

 珠翠は銀児の向かいに座り、燭台に火を入れた。卓上に置かれた淡い黄色の手巾がぼんやりと浮かぶ。

「これは……あなたが?」

 珠翠が問うと銀児が頷いた。銀児は珠翠の手にする手巾を覗き見て自分の手巾と見比べ、ふふと勝ち誇ったような笑みを浮かべる。珠翠はむっとして自分の手巾を懐にしまった。

「これは、蔦の葉ですか?」
「いいえ、葡萄の葉です」

 葡萄の葉だけ、とは、まったく変わった題材を選んだものだ。らしいと言えばらしいのだが。

「お嬢様に、独創的だと誉めていただきました」

 銀児はどこか嬉しそうだが、それは賛辞というより事実の羅列でしかない。
 珠翠は笑み、銀児の手巾を手にとる。

「次は花や、せめて葡萄の実に挑戦してみてはどうですか?」
「……でも、珠翠様も松毬と栗の毬を刺繍していらしていたではないですか」

 ぽつり、と銀児は呟く。珠翠は凍りついた。

「……え?」
「松毬と栗の毬……ちらと見ただけですが、違いましたか?」
「ちっ、違います!そんなものを刺繍するわけがないでしょう!」
「そうでしたか。では、見間違いでした」

 銀児の瞳が珠翠を見た。炎が反射して橙に揺らめく。

「珠翠様は何を刺繍したのですか?」
「……牡丹です」
「牡丹、見たいです」

 銀児は字を習うのと同じような、童子のような好奇心に満ちた目で珠翠にねだる。だが、珠翠の方は字を教えるのと同じようにとはいかない。

「それは……駄目です」
「どうしてですか?」
「……た、大切な方に一番に見ていただきたいから、です」

 む、と銀児は唸ると、さっと珠翠から手巾を取り返した。いそいそと仕舞い込みながら、珠翠を見やる。

「それなら、私だって邵可様に一番に見せれば良かった」


 つきん、と珠翠の胸は微かに疼いた。邵可様に、と言い切れる銀児が羨ましい。

「羨ましいわ。……あなたは、邵可様の近くにいるから」

 く、と銀児は目を開けた。その目には浮かぶのは戸惑いだろうか、或いは憤怒にも似た何かかもしれない。

「前も言ったじゃないですか。私はあなたが羨ましい。皮肉だと思っていましたか?」

 珠翠は首を振る。
 銀児の思いは十分に理解しているつもりだ。どう足掻いても邵可の人生における闖入者でしかない銀児は、必死で邵可の中に居場所を求めている。

「きっと、お互いに無い物ねだりなのでしょうね」

 珠翠が呟くと、銀児はその目に宿る獰猛な光をおさめた。

「……そうですね」

 銀児は低く呻いた。その声は震えている。銀児の手が、卓上できゅうと握りしめられた。

「珠翠様、私は、あなたの考え方が、理解出来なくて、でも、とても――」

 銀児はそこで言葉を切る。言葉を懸命に探しながら、視線は室内を不安げにさまよった。

「とても、素敵だと思いました」

 珠翠は息を飲む。銀児の目の縁がうっすらと赤くなった。

「どうして、その思いを抱えているだけで幸せなどと言えるのですか。私は、そんな……。もしも私がそう思うことが出来ていたら――」

 ひく、と銀児の喉が引きつる。その続きを銀児は口にしなかった。
 銀児は表情を歪めた。珠翠には銀児の気持ちも分からなくは無い。だが、ここまで心を傷付けるくらいならば、離れていてもその思いとともに平穏に暮らす方が良いのではないかと思うのだ。
 珠翠は己を決して不幸とは思っていない。邵可に出会い、邵可を思う自分はこの世に比類無いほどの果報者だと思っている。

「私は、邵可様のお邸に置いてもらうようになって、髪を切りました」

 銀児の髪は肩甲骨にかかるかかからないかという程度の長さで、下女であるとしてもあまりに短い。女結いに出来ない髪は、いつも垂らされている。
 そういえば、紅邸に来たばかりの初めて会った銀児の髪は、背の中ほどまであったと珠翠は記憶していた。二度目の記憶からは、銀児の髪は既に短い。

「邵可様の大切な女人は奥方一人だと知ったときに、切り落としてしまいました」

 銀児は薄く笑った。
 銀児の瞳が揺らいでいるのは、夜風に蝋燭の火が揺れるからだろうか。

「……それで、あなたは何者になれたのですか?」

 珠翠は問う。それは酷な質問かもしれなかった。銀児は冷ややかな笑みを浮かべながら珠翠を見返す。

「さあ、ただの肉塊ですかね。腑と血の詰まった皮袋です」

 ふふふ、と銀児は薄暗く笑い声を上げる。顔は、ほとんど泣いていた。
 その表情から、珠翠は目をそむけた。見るに耐えなかったからではない。どうしても覗き見たくなってしまったからだ。
 邵可は、銀児の望む形ではないにしろ、銀児に惹かれているはずだと珠翠は思う。この狂気じみた暗くて粘つく深淵を垣間見ながら、覗かずにいられる人間が果たしているのだろうか。間近で覗き続けた邵可が、その狂気にあてられているとしても、珠翠は不思議に思わない。

「私は、そういう自分が嫌いです」

 銀児が呟く。珠翠は何も言わなかった。
 しばし沈黙が続いた。すう、すう、と自分の息の音ばかりが聞こえる。
 先に沈黙を破ったのは銀児だった。まだかすれた声で、問う。

「それで、耳に入れたいこととはなんですか?」

 まるでさっきまでのやりとりがどこか遠い世界の話であるかのように、銀児はそう切り出した。珠翠は姿勢を正し、声を潜める。

「……隠し立てしても仕方ありませんから直截に申し上げますが、おそらく紅貴妃様に毒を送っているのは香鈴です」

 赤い火を映した銀児の瞳孔が、きゅうと引き絞られた。

「私もあなたがいない間、のんびりしていたわけではありません。日ごとに紅貴妃様の室に入る女官を制限して、怪しい者を絞っていきました。……本人は気づいていないのでしょうが、今、紅貴妃様の室で仕事があるのは香鈴だけです。それでも毎日毒が仕込まれます」

 まさか、という気持ちが珠翠にもあった。後宮に来てからの香鈴の面倒を見たのは自分であるし、香鈴は素直に自分を慕ってくれていた。それが、どうして紅貴妃に毒を盛るといった愚かな真似をしたのだろう。

 銀児は伏せていた目を上げた。

「何故、香鈴を押さえないのです?香鈴が首謀者にしろ手駒にしろ、捕らえて吐かせるのが手っ取り早い」

 珠翠は首を振る。

「香鈴のやり方がとても拙いからです。おそらく、背後に何者かがいる可能性が高い。そうなれば香鈴を捕らえたとて蜥蜴の尾を切るようなものです。早急に次の手を打たれるでしょう。それへの対策を一から考えるより、香鈴の仕込む毒物を回収する方がずっと効率が良いからです」

 銀児はなるほどと頷いた。
 珠翠は橙から青へ変わりゆき、徐々に色を失って行く蔀の外に視線をやった。それから、銀児に視線を移す。

「香鈴を泳がせて、糸を引く者を捕らえる必要があります」
「……ある程度の目星はついているではないですか」

 低く、冷たく、銀児は言った。

「あの、香鈴へ頻繁に手紙を送る……名はなんと言いましたか?」
「まさか」

 まさか、と珠翠はもう一度呟く。状況的にはそれが一番辻褄が合う。しかし、茶太保の人柄がその案を否定する。

 かちん、と珠翠の中で歯車が合った気がした。
 香鈴のもとへ頻繁に送られる茶太保の手紙。
 香鈴が大切な方からと抱きしめた大量の手紙。
 珠翠が霄太師に兇手として茶太保に紹介されたこと。
 茶太保が珠翠を筆頭女官として後宮に据えたこと。
 茶太保が秩序維持のためと後宮の様子を逐一知らせさせていること。

 まさか、と珠翠は三度呟いた。銀児が怪訝な顔をして珠翠を見つめた。

「どうしましたか?」
「……いいえ、なにも。……ええ、茶太保ですわね、その線も、考える価値はありますわ」

 つ、と珠翠の首筋を冷や汗が伝う。これが何年も前から綿密に組まれた計画だとしたら。とんでもない大事に巻き込まれているのではないだろうか。
 しかし、理由が無い。王の外戚となるため? いや、茶太保の孫娘にはすでに婚約者がいる。寸前で婚約を破棄しては茶家の沽券にも関わる。それに、紅貴妃を殺害し、うまうまと孫娘を後宮に入れたなら、当然疑惑の目は茶太保へ向くだろう。そもそも、そんなことをせずとも、茶太保の地位は盤石である。
 珠翠はついと銀児を伺う。伝えるべきだろうか、しかし、そうだと決まったわけではない。銀児を不用意に巻き込むのは気が引ける。

「……そろそろ夕餉も終わる頃ですから、紅貴妃様のところへ」

 珠翠が言うと、銀児は僅かに不審そうな顔をしたが、素直に頷くと席を立った。
 しんと静かになった室内で、珠翠は額を押さえる。色々なことが頭の中を往来して、混乱しそうだった。
 何より、心ならずも邵可を裏切っていたかもしれないという疑念に身震いする。

 その時、自室の扉を叩く音がして、珠翠はのろのろと顔を上げた。

「銀児、早く紅貴妃様のところへ――」
「銀児ではないよ」

 扉を開けた人物に、珠翠は息を飲んだ。どくどくと脈打つ血の音が頭の中に響く。

「……霄、太師」

 白髭をしごき、霄太師はうっすらと笑っていた。

「どうしてこんなところへ……」
「なに、気負うでない」

 す、と霄太師は室内に滑り込んだ。しゅる、と衣擦れの音が痛いほど響く。柔らかな白檀の香りが室を侵食する。
 霄太師はごく穏やかに、遠くない日時と後宮の一角の名前を口にした。

「紅貴妃を茶太保に引き渡してほしいのじゃ。その時、紅貴妃に余計な心配をかけぬよう、これを」

 差し出された薬包は睡眠薬だった。ただし、加減を間違えれば二度と目が醒めぬ強力なものだ。
 珠翠はそれに目を落とす。珠翠の中で疑惑は一層あやふやなものとなった。茶太保が下手人として、性根はともかく王の忠実な下僕たる霄太師が何故手を貸す。

「まだ分からぬのかの?」

 霄太師は白い眉の下の、鋭い瞳を細めた。

「紅貴妃に毒を送っていたのは銀児じゃよ」

 く、と珠翠は喉をひきつらせた。考えなかったわけではない。が、何故か珠翠は真っ先に銀児への疑いを解いていた。

「……そんな」
「仕込まれた毒には経路の分からぬものもあったじゃろう? あれの正体が分かったのじゃ。附子に天南星を加えたもの。それから、夾竹桃。どちらも獣を狩るのによく用いる毒じゃよ」
「しかしそれだけでは確たる証拠とは言い難いのではないですか」

 霄太師はふむと唸り、声を潜める。

「詳しい事は言えぬ。茶家には鴛洵――茶太保を良く思わぬ者がいる。その者達が、かつて朝廷に牙剥いた獣どもを飼い慣らし、けしかけた、とだけ言おうか。奴らは茶太保の失脚を望んでいる」

 確かに銀児は茶州の出だと言っていた。銀児がその一員だというのか。
 銀児が果たして邵可を裏切るような真似をするだろうか。しかし、在りし日を語る銀児は、珍しく感情的ではなかったか。

 迷う珠翠に霄太師は囁く。

「あの娘、どうやら随分と邵可に入れ込んでいる様子じゃな。なれば、最愛の奥方の面影を継ぐ娘は、邪魔じゃろうて」

 銀児は協力を要請したかつての主の手を、渡りに船とばかりに取ったのだろうか。
 やりかねぬ、と珠翠は消極的に結論づけた。そういう目を、先ほど彼女はしていた。

 邵可のために己を肉塊とすることの出来る銀児には、秀麗を肉塊とすることなど容易いのではないか。

 思えば銀児は、何度となく珠翠の疑惑を茶太保に向けた。毒の経路を示唆し、香鈴への手紙を見せ、先の話でも銀児は真っ先に茶太保の名を出した。これは偶然なのか。
 何より銀児ならば、香鈴を隠れ蓑にして毒を盛ることなど容易い。珠翠はあまりにも銀児を信用し過ぎていた。

 じわり、と視界が滲む。銀児は自分を利用したのだろうか。あの微かな笑顔の裏でほくそ笑んでいたのか。そう考えると無性に悲しかった。
 珠翠は薬包を受け取る。霄太師は深刻な表情で頷いた。

「秀麗殿の命は保証しよう」

 珠翠は薬包を懐へしまい込んだ。きしり、と胸の奥が軋む。
 ふと蔀の外を見ると、見事な満月が赤く不吉に浮かんでいた。