10
邵可はいくつかの書簡を抱えて庭園に面した府庫の回廊を歩いていた。邵可様、と控え目に名を呼ぶ女人の声がするので足を止める。
「おや、珠翠じゃないか」
人目を憚るように声をひそめる珠翠に、邵可は歩み寄った。
「お久しぶりでございます邵可様」
「ああ、久しぶりだね。銀児に用事かい? 彼女なら府庫でふてくされているよ」
十日の休みを半分で切り上げては周囲に良くない影響を与える、という理由で銀児はまだ府庫に閉じ込められていた。
秀麗の身に危機が迫りつつはあるのだが、邵可はおおむね珠翠に賛成である。ここで焦ってもどうにもならない。
「あの子はまだふてくされているのですか?」
「まだ、というと?」
銀児がふてくされているのは府庫から出られないのが原因だとばかり思っていたのだ。珠翠は小さな溜め息をつく。
「彼女が、頻繁に同じ使いが手紙を届けにくるようだと言って、ええと、その……」
「手紙を盗み見た?」
「ええ、手紙を運ぶ少女に菓子を握らせて。結局、それは茶太保から香鈴へ近況を知らせる手紙でした。それを銀児は端から端まで読むものですから、そんなことのために字を教えたのではありませんと、少々厳しく叱りつけてしまいまして」
邵可はその話を聞いて苦笑した。真面目な珠翠のことだから、他人の手紙を盗み見るなど許せなかったのだろう。一方で銀児も――方向性は違えど――真面目であるのだ。衝突することもあるだろう。
「大丈夫。銀児はそんなことを根に持ったりしないよ。でも、あの子はあの子なりに一生懸命なのだから、それは認めてあげてくれるかい」
邵可が言うと珠翠は勿論、と頷いた。
「実のところ、私も叱りすぎたと思っておりました……」
「じゃあ、それは銀児に伝えておいてあげよう」
珠翠は微笑み、お願いしますと会釈する。珠翠と銀児は邵可の想像以上に上手くやっているようで驚いた。
どうしても人に対して一線をひいてしまう珠翠と、友人らしい友人など一人もいない銀児は、性格も、物の考え方も、おそらく生まれ育った環境も違いすぎる。共通点はといえば兇手云々くらいだ。
だが、それが二人には心地よかったのかもしれない。二人の仲がよいのを嬉しく思うのと同時に少しだけ妬ましく思うのを、邵可は押し込めた。
踵を返しかけていた珠翠が、はたと邵可の方を見る。
「あの、邵可様、府庫に茶州の風土についての本はありますか?」
「あるけれど、何を調べるんだい?」
「ええと、茶州の少数民族について知りたいことがあって……」
そこで珠翠は言葉を切り、何か言いたげな素振りを見せたのだが、口をつぐんでしまった。
「分かった。何冊か見繕っておくよ」
邵可が言うと珠翠はどこかほっとしたように頭を下げる。
それから、と珠翠は邵可に淡い桃色に紅色の糸で薔薇の刺繍の入った包みを手渡した。
「これは霄太師から銀児に渡すように、と言いつかりまして。申し訳ありませんが頼まれて頂けませんか」
「それは構わないけど……」
邵可は包みを見下ろす。霄太師が銀児に何の用があるというのだろう。しかも、綺麗な布包みというのがいかにも怪しい。
邵可の怪訝な表情を見て取り、珠翠も首を傾げた。
「どうやら本のようなのです。霄太師は銀児が字を習っていることを知って、これを私に預けました」
「あの人が、ねえ……」
あの性悪が善意から贈り物をするとは思えないのだが。
「分かった。渡しておくよ。用事はそれだけかい?」
「ええ、足をお止めして申し訳ありません」
「いいんだよ。久しぶりに君とお話も出来たからね」
邵可が笑うと珠翠も笑った。
珠翠と別れて府庫に戻りながら、邵可はその包みをちらと見る。中を確認しようか、と思ったのだが、珠翠が手紙の盗み見にひどく憤慨していたのを思い出したのでよしておいた。
府庫の戸を開け、仕事部屋へ向かう途中で数冊の茶州についての本を手にする。
仕事部屋の前で両手が塞がっているのに気付いて、室内の銀児に声をかけた。ぎ、と中から扉が押し開かれる。やはりどこか不機嫌そうな銀児が邵可を見上げた。
「お帰りなさいませ」
「はい、ただいま」
邵可は言いながら卓上に本を置く。それから銀児に包みを手渡した。銀児は薔薇の美しい刺繍の入ったそれを見て、一瞬とても嬉しそうな顔をしたのだが、邵可が一言「霄太師からだよ」と言うと、どうやらさきほどより不機嫌になったようだ。
邵可は卓に向き直り、卓上に無造作に置かれた本を整理しては、少数民族の記述がある本を選別していく。
「ばらひめ」
ぽつん、と銀児の呟く声が背後から聞こえて、邵可はぎょっとして手を止めた。邵可が勢いよく振り向いたので、銀児は驚いて目を丸くしている。
「間違えていますか?」
銀児の手には解かれた包みがあり、中から鮮やかな装丁の絵本が覗いていた。その表紙には「薔薇姫」と装飾過多な文字が記してある。
あの性悪爺、と邵可は内心毒づいた。
邵可は平静を装い「いいや、あっているよ」とだけ言う。過剰な反応への言い訳は思い付かなかったので、銀児の困惑気味な視線は黙殺した。
銀児は胡乱気ながらも、すぐに絵本へ興味を移す。
「これ、御伽噺ですね」
銀児はところどころに金箔を散らした、豪奢な挿し絵に熱心に視線を落としている。銀児の瞳は挿し絵が反射して、濃い赤や青に目まぐるしく変わっていく。
その挿し絵の薔薇姫に妻の顔が重なって、邵可はそれから目を逸らした。霄太師のことだから、わざと似たものを選んだに違いない。
しばらくの間、銀児は真剣な面持ちで、時にはその一節を口の中で呟いたりしながら読んでいたのだが、最後まで読み終えるとぱらぱらと頁をめくって挿し絵を一通り眺め直し、一言「変な話ですね」とだけ言った。
ずき、と邵可の胸が奇妙な疼痛を訴える。
「そう、子供向けのお話だからね」
邵可がそうだけ言うと、ふうん、と銀児は息を漏らす。どうやら挿し絵は気に入ったらしい。何度も頁をめくっている。
「紫州の人は、皆、仙人を信じているのですか?」
「信じている人もいるよ」
己の色を取り戻した褐色の瞳が、いやに冷たく邵可を見据える。
「では、邵可様は信じているのですか?」
「……さあね、どうだろうか」
邵可はいやに渇いた喉を震わせ、やっとそう言った。
「君は信じていないの?」
邵可が聞くと、銀児は肩をすくめる。
「分かりません。私は仙人に会ったことがありませんから、どちらでも構わないのです」
会うことはないだろうが、と邵可は銀児の白い顔を見た。青黒い墨壷を頭の片隅でひっくり返したように、言いようのない不快感がじわじわと邵可の思考を侵す。
「私の知っている御伽噺は、狡賢い雪狐が、兎を騙して嫁にする話だけです」
「何、それ、初めて聞く話だ。どこで聞いた話だい?」
「茶州の端っこです」
面白い話でしょう? と銀児はうふふと笑った。
邵可は珠翠が茶州の少数民について知りたがっていたことに合点がいく。おそらく銀児自身が茶州、しかも少数民族の血をひいているのだろう。そして、銀児は珠翠にそれを話したのだ。
銀児が自分にさえ教えなかったことを珠翠に教えたのかと考えると、邵可の心は波立つ。
邵可が問えばきっと銀児は全て答えるに違いない。それでも、自ら尋ねるのは年下の娘相手に余裕のないような気がして、邵可は踏み切ることが出来ない。
邵可が仮眠用寝台に腰掛けると、銀児はそろりと邵可の隣に座った。膝の上に絵本を乗せている。表紙の美しい姫が邵可を見上げた。
くてん、と肩によりかかる銀児の頭を許容してやると、銀児は徐々に体全体を凭れ掛けさせてきたので、邵可は銀児の体を押しのける。銀児は悲しそうな不満そうな顔で邵可を見上げた。
「お嬢様には添い寝くらい良いじゃないかとおっしゃっていたのに」
「あのねえ、君、いくつになったの?」
「……にじゅうに? さん? 多分そのくらいです」
「で、私は?」
「四十?」
「……あと少しでね」
特段に年齢を気にしているわけではないが、やはりそこは譲れない。邵可が言うと、銀児は唇を尖らせる。
銀児の歳の頃には自分がすでに秀麗を授かっていたと思うと感慨深い。同時に、眩暈がするほど背徳的だ。
「二人は十九と十六だから可愛いものだけどね。それに、君は添い寝で終わらせる気は無いんだろう?」
銀児は薄く笑うが、邵可の瞳を覗き込むと、すう、と笑みを引っ込める。
「十六は子供ではないです」
真剣味を帯びた瞳を、邵可は直視出来なかった。ひく、と喉が引きつる。
「子供だよ、私にとっては」
「周囲はそうは見ません」
邵可は目を伏せ、小さく息をつく。途切れがちな息が細く吐き出される。
「……いやだねぇ、女の子は成長が早くて」
一言、呟いた。
「そうだね、秀麗はもう十六で、結婚にしろ何にしろ、もう自ら未来を決めるときだ」
邵可はうっすらと妻の姿を思い出す。縹家の箱庭で美しい着物を纏っていた彼女。
邵可はあれほど高価な着物も、贅沢な宝飾品も与えてはあげられなかったけれど、惜しみない愛情を注ぎ、温かい家庭を共に築いた。
妻が最期まで笑っていたように、秀麗にも幸せになってほしい。弟の口利きで、どこか良い家に嫁いで欲しいという気持ちさえあった。
何も特別な人生でなくて良い。平凡に、だが幸せに、と父親として願わずにいられない。
しかしそれは己の娘である時点で望めなかったのかもしれない。
急に黙り込んでしまった邵可を不安そうに窺う銀児の髪を、邵可はゆるゆると撫でた。
「さびしいのですか?」
銀児が問う。邵可は眉尻を下げて笑った。きっと、寂しいのだ。
だが邵可は答える代わりに意地悪く問い返す。
「君だって、もういい大人なのだがら、自分のことは自分で決めればいい。いつまでもここにいる理由は無いだろう?」
邵可はそう問うて、銀児がどれだけ必要としているのか再確認したくて仕方がない。
――銀児はむっとして、拗ねたような媚びるような目で「私は邵可様と一緒にいたいのです」と言うのだと思った。それを期待していた。
しかし銀児はその無機的な瞳をふと陰らせて、ほんの少し笑みめいたものを浮かべるだけだった。
邵可は銀児が苦しげな顔をしたり、泣いたり、くぐもった悲鳴をあげるのが好きだ。殊更に加虐趣味があるわけではない。
銀児は、笑顔を装ったり媚びを売ったりすることくらい何でもなくこなすから、それより偽らない負の感情を見せてもらった方がずっと心地よいのだ。
だから、その、何か隠すような表情は、邵可のささくれ立った神経を逆撫でした。
銀児はそれを感じ取ったのか、首を伸ばして機嫌をとるように邵可の唇を舐めた。
「……なに?」
「……いいえ」
銀児は邵可から少し離れる。
「邵可様、お嬢様を後宮から退かせないのですか?」
銀児は控えめに申し出た。
それは邵可も再三考えたことだ。確かに霄太師に依頼されて後宮入りした以上、危険をおかしてまで貴妃ごっこを続けさせる理由は無い。
それでも、秀麗に出会って息を吹き返したように明るく振る舞う劉輝と、王を助けるという夢に向かっていきいきとした様子の秀麗を見ていると、邵可はそれを決断することが出来なかった。
「まだ様子を見るよ。どうやら珠翠や主上がよく防いでくれているようだし」
邵可はついと壁際に視線をやった。手入れを欠かしていない鋭い長剣が、書架の間に隠してある。
「それに、黎深も朝廷の動向に気を配っているようだしね」
邵可がそう言うと銀児がふんと鼻を鳴らした。
「ああ、あの銀器を贈られたのは黎深様でしたね。……今時、銀器が毒に有効と信じている人間がいるとは思いませんでしたが」
銀児が小さな声で付け足したので、邵可はそれをたしなめる。
「黎深だって承知の上だよ。でも、それとない警告にはなるだろう?」
銀が毒に反応するといって、貴族の間で銀器――皿、杯、箸にいたるまで――が流行したのは大業年間の初期だ。
銀は砒霜の中の不純物と反応するから、あながち間違いとも言い切れないのだが、毒など探せばその種類は多岐に渡る。銀に反応しない毒は数知れない。
だから銀器は暗殺が横行した大業年間に大流行し、いっきに衰退した。安心して飲み干した銀の毒杯で大勢の人間が命を落としたからだ。
銀児はそれに言い返さなかったが、どうでしょうねとでも言いたげに視線を横に流す。
「それに、君だって秀麗のことを守ってくれるんだろう?」
邵可が言うと、銀児は肩をすくめた。
「私に出来ることなんてたかが知れてます。自分の命ならまだしも、他人の命を守る仕事には慣れていないんです」
名目上の療養も今日で十日目だ。あれほど休んでいる場合ではないと主張していた割に、銀児は浮かない表情だ。
「毒を仕込んだ人間を嗅ぎ付けるくらいは出来るかもしれない。でも、それならば時間が欲しい」
銀児は焦燥する様子で指先を眺めていた。
銀児の目は絡繰のように打算的だった。秀麗を助けたい、とか、そういった情は感じられない。今の状況で如何にして効率よく命令を遂行出来るか、という冷ややかな計算をしているのだろう。
十三年前もそうだった。目の前の脅威に怯えてはいたけれど、きっと銀児は邵可に切られてもその刃に食いついたのではないか。己の役割を遂行するためにだ。よく訓練された猟犬のようである。
邵可が「秀麗を頼んだよ」と言ったから、銀児はこれほどまでに心血を注ぐ。もしも邵可の命令が無かったら、容易く寝返るのではないかと思わせる危うさが、銀児にはあった。
「邵可様はどう思いますか? 何か知っていることはありますか?」
邵可は首を横に振った。
「まだ無いよ。銀児、頑張るのはいいけどほどほどにね。君、茶太保の書簡を盗み見たんだって?」
「怪しいと踏んだのです。……確認するくらい構わないと思ったのですが」
叱られたときのことを思い出したのか、銀児は顔をしかめて低く呻く。どうやらだいぶこたえているらしい。
「珠翠が少し叱りすぎたと言っていたよ。それから、君の頑張りは認めているともね」
邵可が伝えると、銀児はしばらくの間目を丸くしていたが、次いで満更でもなさそうな表情をした。
「他人の前で大泣きする晒してまで打ち込んでいるのですから、認めて貰わなくては困ります」
邵可はそう嘯く銀児の体を抱き寄せた。結局、秀麗の後宮入りからこちら、邵可は銀児を抱いていない。それどころでは無かったし、銀児も儀礼的にそういう素振りを見せつつも、せいぜい頭を撫でられるだけで概ね満足しているようだ。
「銀児」
耳元で名前を呼んでやると、銀児は長い前髪の間から上目遣いに邵可を見た。唐突な邵可の行動に、その目は戸惑いの色を見せる。
邵可は何も言わない。目も合わせずに、銀児の頭を自身の鎖骨のあたりに押し付けた。
「邵可様」
まったく察しの良いことに、銀児は邵可が望んだように邵可の背に腕を回した。その察しの良さが、不安ですらある。湿った息が胸のあたりにかかった。
「邵可様、好き」
銀児は決して愛しているとは言わない。だが銀児に限って言えばその「好き」という子供じみた言葉はいかにも本心のようで好ましかった。
短い一言が室内の空気を震わせ、その振動はやがて収束する。
その間だけなら、それは確かに真実だった。その間だけは、銀児はきっと本当に自分が好きなのだと確信できた。
残響の気配に耳を傾け、邵可は目を閉じる。
「知っているよ」
邵可は笑ってそう言った。