12






 珠翠は茶を淹れる。異物の混入を避けるため、紅貴妃の命を守るため、手ずから茶を淹れる。
 揺れる黄金の水面に、白い粉末が溶けていった。

「紅貴妃様、花茶でございます」

 珠翠はいまだ劉輝への怒りに震える秀麗に茶をさしだした。秀麗は誰もいないのを良いことに、その茶器を一息で空にした。
 ぷは、と秀麗は息を吐く。

「本当にもう、腹がたって仕方がないわ!」

 常であれば苦笑しながらも天晴れと言いたくなるような飲みっぷりであるが、珠翠は固い表情でそれを見つめただけだった。
 秀麗はそんな珠翠の様子に首を傾げる。

「どうしたの、珠翠」

 いいえ、と珠翠は首を振った。秀麗の身を守るためとはいえ、騙し討ちのように睡眠薬を盛るのは気が引ける。

「なんでもございませんわ」
「そう。なんだか、思い悩んでいるように見えたから」

 秀麗は笑う。

「差し出がましいようだけど、私に出来ることがあるなら言って頂戴。珠翠にはすごく良くして貰っているし、銀児もお世話になっているもの」

 珠翠は苦い気持ちを飲み下して、わずかに頷いた。

「銀児がね、言っていたわ……。珠翠には言わないでと言われていたのだけ、ど……」

 かくん、と秀麗の頭が揺れる。

「……あれ、なんだか……ねむいわ、とても……」

 そのうち秀麗はぱたんと卓に臥してしまった。
 珠翠は秀麗の呼吸や脈拍に異常の無いことを確かめ、彼女を袋に詰めて他の塵と一緒に荷車に積んだ。それから珠翠は髪をほどき粗末な着物を纏って、掃除婦を装った。秀麗は滅多なことでは目を覚まさないから、焦る必要はない。

 珠翠は顔に襤褸布を巻き、俯いて荷車をひく。途中、近衛がちらと珠翠を一瞥したが、塵芥の回収だろうと素通りさせた。
 珠翠は複雑な気持ちでそこを通過する。事が済んだら後宮の警備を徹底せねばなるまい。
 銀児は、秀麗に何を言ったのだろうか。ふと珠翠は考えを巡らす。きっと字を習ったことを伝えたのだろう。自分に言うな、と言ったということはどういうことなのだろうか。

 ぎ、ぎ、と古い荷車をひく音がいやに響いている気がして、珠翠の首筋に冷や汗が伝う。珠翠は後宮の一角に荷車を止め、秀麗の入った袋を荷台から下ろした。
 秀麗が規則的な寝息をたてているのを確認する。

「紅貴妃はその中か」

 一人の男が暗がりから姿を表した。黒い頭巾と口布のせいで、その表情は窺えない。
 珠翠は注意深くあたりを探る。男の背後にさらに二人の気配を感じた。

「……ええ、紅貴妃様はこの中に」

 男は背後に合図する。二人の男が頭陀袋を抱え上げた。珠翠が声を上げる。

「紅貴妃様の身に危険無きよう」
「心得ている」
「紅貴妃様に怪我一つ負わせることは許しませぬ」

 珠翠の眼光に男は一瞬ひるんだが、すぐに平静を取り戻して頷いた。その態度に珠翠はその男がそれなりの手練れであることを確信する。二人の男が秀麗を運んで行った。
 珠翠はふと不安になる。秀麗は銀児のことを家人としてそれなりに信用している様子だった。薬による眠りから目を覚ました時に銀児が捕らえられたことを知れば、少なからず衝撃を受けるだろう。
 それに、銀児が秀麗を狙った理由や邵可の過去さえ知ってしまうかもしれない。果たしてそれらは秀麗の知るべき事柄なのか。
 邵可も知られたくないだろうし、秀麗の心は傷付くだろう。珠翠は銀児だけでも助命を嘆願出来ぬかと考えるのだが、賓妃とはいえ妃の命を脅かすことは大罪だ。本来、一族郎党まで皆殺しにされてもおかしくはない。

 はた、と珠翠は気が付いた。もしも奸計が発覚したら、銀児を辿り主たる邵可にも累が及ぶ。もちろん、邵可が秀麗の父親であり、そのような政治の駆け引きに無縁であることはすぐに知れるだろう。
 だが、あの臆病と言っても良いほどに用心深い銀児が、一片でも邵可に不利益を為すような真似をするだろうか。
 起きた事柄は銀児を下手人であるかもしれぬと示している。しかし、銀児の異様なまでの邵可への執着は、犯行の動機たり得るのと同時に抑制の動機たり得た。
 ざわり、と胃の底が蠢く。珠翠が声を上げるのと、男が珠翠に飛びかかるのはほとんど同時だった。
 珠翠の細い頸に男の指がかかる。珠翠はとっさに気道を押しつぶされぬように、男の手と自分の頸の間に指を滑り込ませた。

「――っ、なに、を」

 愚かな問いだと珠翠は内心自嘲する。始末しようとしているのだ。
 嵌められたのか、と珠翠は歯を食いしめる。指を滑り込ませた隙間から、ひゅうと息を吸った。その珠翠の指ごと男は珠翠の頸をしめる。
 どくどくと耳のあたりで己の鼓動が木霊した。頭がぼんやりしてくる。
 刃物で切りつければ血痕が建物に染み付くし、一太刀で仕留め損ねれば声を上げられる。己の死さえ無かったことにしようというのか、と珠翠は男の顔を睨み付けた。

 ひゅ、と何かが空を切る音がして、次いで鈍い音がする。男が崩折れ、珠翠は一気に空気を吸い込んだ。酸欠で滲む視界に、白い人影が浮かぶ。
 地面に放られた陶製の置物が、ごろりと無造作に転がった。後頭部を容赦なく殴られた男は地面に膝をついた。その男の腹に銀児は戸惑いなく爪先をめり込ませた。息をつまらせ仰け反る男の髪を掴み、顔面に膝蹴りを入れる。
 男は悲鳴をあげる間もなく気を失い地面に倒れ込んだ。銀児は男の口布で男の手を、腰帯で脚を縛り上げる。

 珠翠はぽかんとして銀児を見上げる。銀児は珠翠を見下ろした。

「銀児、どうして……」

 喉がつまり、珠翠は咳き込む。銀児は少し眉をひそめた。

「……お嬢様に毒を盛りに、と言うと思いましたか?」

 びくりと珠翠は震える。やはり、銀児が下手人では無かったのだ。珠翠は頭を抱えた。

「なんて、……なんてことを、私は……」

 まんまと連れ去られた秀麗の姿を思い浮かべ、珠翠は身震いする。それに、珠翠は加担してしまったのだ。

「……私は、……私は紅貴妃様を……」
「珠翠様」
「邵可様に申し訳が立たない……私は……」
「珠翠様」
「私はいったい、どうすれば……!」

 銀児は溜め息をつき、御免、と低く唸ると珠翠の頬を張った。ぱん、と軽い音とともに珠翠の頬に痛みが走る。その衝撃ですっと頭が冷えた。

「私にここへ来るように言ったのは霄太師です。おそらく、私も珠翠様も霄太師の掌の上。霄太師――失礼、あの腐れ爺が私を使って珠翠様を助けたということは、お嬢様を助けることを見越して戦力に数えられている。ならば、霄太師の策が失しない限りお嬢様は死なない」

 銀児はそこで言葉を切り、苦々しく呟いた。

「そして、私は霄大師の計略が上手く運ばなかったのを見たことがありません」


 ざ、と風が吹いた。珠翠が頷くと、銀児は目を細めて、珠翠の頬を指す。

「失礼な真似をいたしました。かわりにと言っては何ですが、私のことも一発だけ殴っ……」

 ばしん、と珠翠は銀児の頬を張り飛ばした。銀児はしばし放心したが、ややすると赤くなった頬に手をやる。

「……こんなに思い切り殴ることは無いでしょう」

 私は手加減したのに、と銀児は零した。

「景気付けです」
「……はあ、それだけ気丈なら安心です」

 珠翠は立ち上がり、銀児を正面から見据える。硝子のような双眸に珠翠は少しだけ怖じ気づいた。銀児は怪訝そうに珠翠を見つめる。

「私は貴女を疑いました。もしかしたら、紅貴妃様に毒を送ったのは貴女かもしれない、と。そしておめおめと紅貴妃様を攫われてしまいました。銀児、私のことも一発だけ殴ってください」

 珠翠は本気であったのだが、銀児は一瞬戸惑いの表情を見せて、決まり悪げに視線を外した。

「仕方ないです。私達は疑うのが仕事ですから」
「いいえ、冷静になればあなたがそんなことをし得ないのは分かりきったことでした」

 銀児は息を吐き出し、首を横に振る。

「ええ、本当ならば珠翠様を締め上げていたところですが、霄大師が絡んでいたならそれも出来ません。あの××××、人の心に付け入るのが本当に巧みですから」

 銀児は霄大師を何事か称したようであったが、珠翠の知らない単語であった。だが、口調からおそらく苛烈な罵りであることは分かる。

「きっと、あなたがそんなことをしないなんてことは分かっていたのです。でも、自分でも知らぬうちに邵可様に仇なしていたと認めるのが怖くて……」

 珠翠は絞り出すように言う。握りしめた拳にぽつぽつと悔し涙が落ちる。銀児はニ、三度瞬きして、肩をすくめた。

「人間なんてそんなもんです」

 責めている様子も、呆れている様子もない。ただ淡々と銀児は言う。ふ、とその表情が陰った。

「それに、疑ったというなら私だって同じです。珠翠様なら誰にも気付かれずお嬢様の室内に毒を仕込めた」
「……たとえ命じられようと邵可様を裏切るくらいならば、自ら喉を突きます」
「そうですか。私は貴女を見くびっていたようです」

 銀児はついと男に視線を移す。

「貴女を疑っていなければもう少し早く割ってはいりました。貴女がどちらについているか見極める必要がありましたから、不用意に姿を表せなかったのです」

 珠翠は銀児の無機的な瞳を見つめた。ということは、銀児は珠翠が男達に秀麗を引き渡すのを黙って見ていたのだろうか。珠翠の視線に気付いて、銀児は眉尻を下げた。

「私が貴女に追いついた時、既に男達がいました。私に同業者を三人相手取れと言うんですか?」
「出来ませんか?」
「出来ません」 

 そう言う割には、見事な手際であったが。
 地面に伸びていた男が呻き声を上げる。どうやら意識を取り戻したらしい。銀児がそちらに目を向け歩み寄ろうとするのを、珠翠は制した。

「銀児」
「はい」
「あなたがその男を殴ったその置物、金何両するかご存知?」
「…………いいえ。いいじゃないですか、そんなことは」

 銀児はそう言って、男の方に歩み寄った。立つこともままならぬ男は、冷たい目でぎろりと銀児を睨む。

「この男に話を聞くのが先です」
「残念だったな。俺は何も知らない。この女から紅貴妃を受け取った後、女を始末しろと命じられただけだ」

 銀児は男の脇腹を固い皮の靴で蹴りつけた。男は呻き、身をよじらせる。

「聞かれた事だけに答えろ。勝手に喋るな」

 男は悪態をつくような事は無かったが、反抗的な目で銀児に視線をやる。銀児は無言で男の傍らに座り、男の縛り上げられた手を取る。ぺきん、と軽い音がして、男の指があらぬ方向に曲がった。珠翠は思わず顔をしかめる。
 男は吐息じみた呻き声をあげただけだった。かなり手強そうだ。

「主は?」
「知らん」
「目的は?」
「知らん。俺達は命じられたことをこなすだけだ。指令は文書で回される」
「これからの計画はどうなっている?」
「さあな」

 銀児はふうと息をつき、わざとらしく首を振ると珠翠に向き直った。

「時間がありません」
「そうですわね」
「殺して首実験といきますか。この首の男の素性か、もしくは計画の全容を教えろと迫れば快く教えてくれる輩がいるでしょう」

 銀児は珠翠に目配せする。その意を受けて珠翠は首を傾げた。

「この男の素性を知ってどうするのです?」

 言ってから、少しわざとらしかっただろうかと珠翠は反省したが、銀児は小さく笑って続ける。

「一族郎党皆殺しです」
「そんなことをして何になるのです?」
「舐められっ放しは好きではないんです。親も、兄弟も、妻も子も、残らず見つけ出して、皮膚など残らぬほど切り刻んでやる」

 男は、顔を青くした。珠翠はほんのりと眉をひそめる。銀児の脅迫はおそらくははったりで、そんな手間のかかる無意味なことをするわけはない。だが、銀児の無感情な声で噛み締めるように呟くと、はったりだと分かっている珠翠ですら「もしかするとこいつは本当にやるのではないか」という気持ちにさせられる。
 その脅迫を受ける男の心情たるや如何ばかりであろう。珠翠は男に近寄る。
 比較的穏健な風貌の珠翠が前に出たことに、男はわずかに安堵の色を見せた。珠翠はそれを見逃さない。珠翠は黙って男の懐をあさった。やがて、煙草入れを取り出す。蓋を外し、中身を地面に捨て、筒の中を覗きこんだ。

「ほら、ご覧なさい。家紋ですわ。これで手間が省けます」

 珠翠はにこりと笑う。銀児も煙草入れの中を覗き込み、にいと笑った。
 そこに家紋などない。粉のようになった煙草の葉がこびり付いているだけだ。だがそれは男が持つにしては古い品のように思えたので、珠翠はそれが親から受け継いだものと判断してはったりをかけた。
 貰い物ならば「もしかしたら自分は家紋に気付いていなかったのかもしれない」という不安を煽ることが出来る。
 銀児は珠翠に目配せすると、腰にさげていた細い縄を男の首にかけた。男は泡を食って、痛むであろう体を打ち上げられた魚のように必死にばたつかせた。

「待て! 待ってくれ! あ、主は茶太保だ! 何でも話す! だから、家族には手を出すな!」

 銀児は冷ややかに男を見下ろした。

「嘘だ」
「嘘ではない! も、目的は分からない! 本当だ!け、計画も話す! 話すから……!」

 男は悲痛な声で懇願した。

「紅貴妃は仙洞省に運ばれた。王をおびき寄せるためにだ」
「茶太保はどこだ」

 銀児が問うと男は少し言いよどんだが、後宮の建物の名を口にした。銀児は珠翠を目で伺う。珠翠は頷いた。
 確かにその建物は存在する。男が後宮に詳しいとも思えないから、嘘を言っているのではないだろう。

「最初からそのくらい素直ならば良かったのに」

 銀児は男の首にかかった縄を握り直した。青白い顔が月光に照らされる。ぞっとするほど表情がなかった。

「おやめなさい」

 珠翠は思わず制止した。今度ばかりは演技ではない。銀児は珠翠を見返す。

「……その男にも、そうまでして守りたい家族がいるのですよ」
「情けじゃ飯は食えません」
「何も殺すことはないでしょう」
「生かしておく利もない」

 珠翠は首を横に振った。

「あなたの手をこれ以上汚すことはありません」

 く、と銀児は喉を鳴らす。眉間に皺を寄せ、苦しげに笑った。

「一人目や二人目ではないですよ」

 銀児は言い、珠翠の懐から薬包を奪う。秀麗に使った残りの薬を手に取り屈むと、男に飲ませた。
 すぐに昏倒した男を手近な物置に蹴り込み、銀児は珠翠をちらと見た。

「もしこの男が目を覚まして襲ってきたら、仕返しするなら珠翠様にしろと言います」

 珠翠は拗ねたような銀児の言い分に苦笑する。

「では、心の準備だけはしておきます」

 銀児は不機嫌そうな顔のまま、珠翠に向き直った。

「下手人は茶太保だそうです。何が目的だと考えますか?」
「本来ならば紅貴妃を亡き者にして自らが王の外戚に、と考えるのが妥当ですが、茶太保は既に今上陛下のもとでは最高の地位にあります」
「それに、先ほどの男は主上をおびき寄せると言いました。本当の目的は王の殺害でしょうか?」

 そこまで言って、銀児は動きを止めた。途端に険しい顔になり、瞳がせわしなく動く。

「銀児、どうしたのですか?」
「……いえ」

 銀児は目を細めた。

「珠翠様、茶太保が今上陛下で最高の地位にあるならば、王が変わればどうですか」

 だが、血筋を重視するこの国で紫の姓を持たない人間が王位につくのは難しい。だから、珠翠はその可能性を否定していたのだ。

「……それは、王を擁立したとあればその地位は今より絶対的なものとなるでしょう。しかし、誰を立てるのです?」

 過去にも傍流を王としたことはある。しかし、正当な血統を持つ劉輝を廃してまで、となれば、それなりの血統を求められる。
 現在の彩雲国に劉輝以上に王の血脈を継ぐ者はいない。
 銀児は表情を歪めて、低く唸った。

「心当たりがなくはない」

 ひどく苛々した様子で銀児は何かに考えを巡らせている。

「珠翠様、お嬢様と主上の方を任せても良いですか?」
「ええ、しかし……」
「こうなると私達に出来ることは出来る限り敵を攪乱することしかありません。敵方に嘘の情報を流してください。紅貴妃を捕らえ置くのは別の場所に移ったとでも」
「分かりました。けれど、貴女は?」

 銀児は暗い空に視線をやった。まるでそこに何か見えているかのように、暗闇に目を凝らす。

「私は、少し用事があります」

 銀児は言うと踵を返した。風に紛れて銀児が「こんな面倒になるならば、あの時殺しておけば良かったのに」と呟いたのだが、珠翠の耳には届かなかった。