13
散りかけた桜が月の光を反射して淡く光っていた。銀児は必死に走って荒くなった息を整え、その視界に静蘭の姿を捉える。
静蘭が向かう先は、先ほど兇手の男が告げた茶太保が身を隠している場所だ。銀児は焦燥に爪を噛んだ。
このままでは、静蘭は茶太保を捕らえるつもりが逆に取り込まれる。珠翠に言われて気付いた。茶太保の目的は第二公子たる静蘭――清苑を王として擁立することだ。
珠翠に任せて飛び出して来たは良いものの、銀児には一切の妙案が無かった。とにかく、静蘭は身を隠した方が得策だ。秀麗の身も案じられるが、そちらは珠翠や主上に任せるしかない。
静蘭の方を他に任せても良かったが、第二公子の件が公になればさらに面倒が起こることは、政治に微塵も見識の無い銀児にすら分かる。己で何とかせねばなるまい。
しかし己のことも知られるわけにはいかない。「今まで黙っていましたが、実は私は十三年前に貴方の命を狙った兇手の残党です」など言えるわけがない。
銀児は自分が静蘭の正体を知っていることを隠しながら、静蘭の行動を止めねばならない。
遠ざかって行く背に、銀児は焦る。とりあえず足を止めよう、とわざと音をたてた。
静蘭は足を止め、剣の柄に手をやる。
「誰だ。出てこい。さもなければ切り捨てる」
銀児は両手を肩のあたりに上げて茂みを抜け出した。姿を見せるのと切り捨てられるのでは、前者の方が余程ましだ。
「……銀児」
静蘭は低く唸った。瞳には激情の色がちらついていて、まるで銀児が下手人であるかのように銀児を睨み付ける。
「よくものこのこ姿を表せたものだな。お嬢様は敵の手に落ちたぞ。姿を見せないから恥を知って自ら命を絶ったものと思っていたが」
「私が死んでお嬢様が解放されるなら、いくらでも死んで差し上げますがね」
話を長引かせるしかない。話を長引かせて、その間に突破口を見つけよう。銀児は用心深く言葉を選ぶ。
「死ぬより有効な手段が好きです」
「……たとえば?」
「たとえば、こんな夜更けに後宮をふらつく怪しい男を捕らえるとか」
銀児がついと静蘭に目をやると、静蘭は緑色の瞳を怒りに震わせた。
きん、と静蘭の剣が冷たい音を響かせた。銀児は空に浮かぶ月に目をやった。少し欠け始めた月は特段見るべきところもなく、白く退屈に輝いている。
「行くな、静蘭」
急にそのようなことを言い出す銀児に、静蘭は殺気立った。銀児は静かに付け足す。
「旦那様からの言付けです」
主の名を出せば銀児の言うことでも多少は耳に入れてくれるだろうという打算があった。だが、静蘭はそれを鼻で笑った。
「旦那様が、そのようなことをおまえに言付けるわけがない。旦那様は、もしかするとおまえが下手人の手先となった可能性もあると考えていた」
「……まさか」
「嘘ではない。だから、おまえは療養と称して府庫で監視されていたんだ」
ひくん、と銀児のこめかみが震えた。
そんな筈は無い。邵可は自分を信用していなくてはならない。邵可と銀児は互いの秘密を共有する者だ。互いの首筋に斬首刀を押しつけあっている。生半可な信用では立ちゆかない。
邵可は、己の右腕の動きを自分の意思によるものだと疑わないように、銀児は動けという指令を右腕が中枢から下された自らの意思によるものだと疑わないように、互いを信用していなくてはならない。
邵可が秀麗を守れと言ったのではないか。銀児はそれを違えていない。邵可が銀児を本当に疑ったのだとしたら、銀児は何を寄る辺にすればいいのか分からない。
銀児は唇を舐める。きしきしと耳のあたりで雑音がした。
銀児は一歩、また一歩と前に踏み出す。静蘭は腰の剣に手をやった。
「寄るな。寄らば斬る」
銀児は構わず歩みを進める。
銀児には静蘭の命を救ってやるいわれはない。主上が殺されようと構わない。ただ、秀麗の命だけは守らねばならない。
静蘭がおとなしく茶太保の言いなりになるとは思えない。そうなるくらいなら自刃するだろう。静蘭が死ねば邵可が悲しむだろうから、息急ききって駆けつけたのだ。いつから自分はこんなに優しくなったのだろう。
「私はあなたがずっと嫌いでした」
「奇遇だな。私もだ」
「何を鼻にかけてるのか知らないけど、一段上から人のこと見下して」
「教養も品位も無い下賤な女が旦那様やお嬢様のお世話をするなど虫酸が走る」
「しがない貧乏邸の家人風情が気取ってるのは、いっそのこと滑稽でした」
「卑屈にこそこそと邸を這い回るだけより余程ましだろうが」
銀児は静蘭の目の前で足を止める。静蘭の澄んだ泉のような翠の目は、今は怒りに揺れていた。
今はただの家人のくせに。邵可様のお情けで生かしてもらっているだけの身のくせに。いつまでも王子様気分のこの男にはうんざりだ。銀児は静蘭の白い顔を見上げて胸の内で毒づく。
邵可が静蘭のためにどれだけ危うい立場にいるのか知らないのだろう。静蘭は邵可のことを何も知らない。
「あんたのことは嫌いだけど、ここで見捨てたら叱られる」
銀児はぽつりと呟く。静蘭が苛々とした視線を銀児へ向けた。
「誰にだ? 本当の主か?」
銀児はそれを黙殺する。
「行くな。死ぬぞ」
静蘭は双眸に迸っていた怒りを和らげた。銀児は溜息まじりに首を横に振る。
「狙いはあんただ。分かるでしょう?」
聡い男である。それが分からぬ静蘭ではない。だが、静蘭は諦めたように静かに笑った。美しい笑顔だった。白い月光に紫銀の髪がきらめく。
「だが、私がお嬢様を助けなければならない」
もう一人の家人が役立たずだからな、と静蘭は嘯いた。
「腕づくで止める、と言ったら?」
「おまえには無理だ」
それはそうだろう。こちらは丸腰の女、向こうは帯剣した男である。有無を言わせず背後から殴っておけば良かった。
銀児は細く長く息を吐くと、懐にしまっていた小さな瓶を静蘭に投げる。静蘭はそれを片手で受け取った。
「これは?」
「走野老。喉をつくより楽に死ねる。匿名希望の誰かからの贈り物です」
それから、と、銀児は静蘭までの距離を二歩で詰め、左頬を殴りつけた。静蘭はニ、三歩よろめき、乱れた前髪の間から銀児を睨んだ。べっ、と地面に血を吐く。
「死ぬ前に、その綺麗な顔を殴ってみたかった」
静蘭は口元の血を手の甲で拭うと、拳で銀児の頬を殴った。ぱ、と視界が白くなる。頭がぐらぐらした。
銀児は天も地も分からず膝から崩れ落ちる。随分当たりどころが悪かったらしく、視界がぐにゃぐにゃと歪んだ。
「……わ、私だって、手加減、したのに」
「それはどうも。だが、後を追われては困るから、そこで寝ていろ」
静蘭は涼しい顔で言うと、銀児を抱き上げる。銀児の体が持ち上げられ、桜の太い幹に凭れさせられた。ぽた、ぽた、と手の甲に桜の花弁が落ちるのをぼんやりと見下ろす。
「おまえは死ぬな。旦那様とお嬢様を頼む」
銀児は静蘭を見上げた。静蘭はひどく忌々しげに顔をしかめると、踵を返した。
小さくなっていく静蘭の背中を眺めて、銀児はぐらぐらする頭を庇うように額に手をやる。
しばらくの間、そのままじっとしていた。月がじりじりと動くのを見ていた。
思えば、長い時を紫州で過ごしたものだ。銀児は邵可が好きで仕方ないけれど、邵可が銀児の望むように銀児を好きなわけではないことを知っている。それでも良いから傍に居たいと思った。
そういう意味では、珠翠と自分は同じだ。
銀児はもう一度きつく目を閉じ、木の幹を支えに立ち上がる。静蘭の誤算は、銀児が想定していたより丈夫なことだ。
銀児は心底静蘭が嫌いなのだが、苦しみの少ない自死を選ばせてやるくらいには仲間意識があったらしい。
ふ、と銀児は息を吐き、まだ少し違和感の残る体を引きずり茶太保と静蘭のもとへ向かう。助けようと思ったわけではない。もはや銀児にはどうしようもない規模に事は発展している。
冷静になってみれば、銀児が静蘭を匿ったところですぐに暴き出され王に引きずり出されるだろう。本当にこの計画を止めたいならば、今上陛下の方を守ればいい。
しかし、銀児は静蘭を追った。心の奥底では、自分にはどうすることも出来ないのは重々承知していたにも関わらず。
銀児は、静蘭が死ぬ前に、自分がどれだけ静蘭のことをいけ好かないと思っているか思い知らせてやりたかったし、せめて生きているうちにあの綺麗な顔を殴ってみたかった。それに、取り込まれるにしても殺されるにしても、最後まで見届けてやろうと思ったのだ。
******
後宮に建つにしては小振りな建物には、さざめくような人の気配が満ちている。
多くの同業者の目を縫うように、銀児は柱と飾り棚の間に隠れた。ここからでは静蘭と茶太保の様子はよく見えない。もちろん会話の内容も聞こえない。しかし、これ以上近づいたら、言い訳の暇もなくたちまち八つ裂きにされるだろう。
時折静蘭が声を荒げると、銀児にもその声が届く。ここで我慢するしかあるまい。
私は清苑ではない、という静蘭の叫ぶ声が室内に響いた。その大きな声に兇手たちがぴくりと反応する。銀児は慌てて息をひそめたが、兇手たちが動くことはなかった。
銀児は柱に寄りかかり、目を細める。昨日まで彩雲国の第二公子として下にも置かぬ扱いを受けていたのが、急にその座を転げ落ちたのはどんな気持ちだったのだろうか。
一応、自分の人生は右肩上がりであると銀児は思っている。
日の糧に困窮する生活から、他人の命を飯の種にする生活。それが今では紅家の家人だ。貧しいとはいえ、麦であろうと毎日何かを口に出来るのは銀児にとって幸せなことだ。おまけに邵可の傍に居られる。至れり尽くせりだ。
それが、明日から邵可に会えぬ。飯も食えぬと言われるようなものだろうかと銀児は想像して、身震いした。
そんなもの、耐えられない。
銀児は静蘭が死ぬほど嫌いだし、あの気位の高さを胸糞悪いと思っている。だが、そうならざるをえない静蘭を哀れと思わなくもないのだ。
自分のような茶州の貧民は、目の端に入れるのも厭わしいだろう。茶州の一般人でさえ、そういう意識を持つ人間は大半だ。紫州の公子にとって、自分などもはや生き物と認識出来ないのかもしれない。
そう思えば、静蘭は自制心の働く方だろう。
銀児だって、王子様は自分のことを人間のために働く虫くらいにしか思っていないだろう、と端から決めてかかっている節がある。
銀児は秀麗が嫌いではないし、広く公正な目を持っていると思う。だが、銀児は己が貧しい地域の出であることを言おうとは思わない。悪名高い貧民窟の出であることを嬉々として教えるほど馬鹿ではない。
銀児が紅邸に来たとき、紅家は自分の身元を洗ったらしい。何の情報も出てこないと大騒ぎされたのを覚えている。当たり前だろう、銀児は人別帳に名が無い。貧しい民で、戸籍を持たぬ者などごまんといる。
切れ者と称される紅家でさえその調子だ。
戸籍が無ければ人間ではないとでも言いたいのだろうか。では、いったい自分は何者なのだろうか。
ふ、と銀児の脳裏に浮かんだのは邵可の顔だった。
邵可は銀児の出自を知らない。聞かれないから、銀児も言わない。だが、字も知らず、礼儀作法も知らず、戸籍すら無い自分を、どう思っているのだろうか。
言葉の通じる犬くらいに思っていたとして、それも悪くないなと銀児は思う。それでも、時折自分が貴族までとは言わずともそれなりの身分に産まれていたら、とも思う。
所詮、無い物ねだりである。自分が貧しくなければ売られなかった。売られなければ兇手にならなかった。自分を構成する全ては邵可に会うための布石に過ぎない。それで、十分だ。
不意に室内がざわめいた。茶太保が何かをひっくり返した。中から白っぽい粉塵が舞い上がる。
黒服の男達が静蘭を取り囲んだ。銀児は息をひそめ、そろりとその輪に近寄る。静蘭が目に見えて焦るのが分かった。この場所からなら静蘭の顔色までよく見える。柱の影にしゃがみ込んで息を潜める。
「茶太保!」
静蘭が剣を振るう。鋼に反射した月光が煌めきざま、兇手が二人倒れた。
おお、と銀児は心の中で歓声を上げる。強いのだろうとは思っていたが、ここまでとは思っていなかった。
先ほどのことを思い出して、銀児は少しだけ反省する。次からは――次があればの話だが――あまり怒らせないようにしよう。
珠翠が偽情報を流し、大なり小なり敵の勢力を削ったと思ったのだが、それでも静蘭一人の手に余るだけの人数がいる。
自分が出張ったところで二人死んで仕舞いだ。むしろ、静蘭には利用価値があるが銀児には無いから、銀児は確実に始末される。
こんなところで犬死は御免だ。
静蘭は急に崩れ落ちる。毒だろうか。あのぶちまけた粉は灰ではなく毒だったのだろうか。もっと食らいつくかと思ったのだが、案外呆気ない。銀児は床に倒れる静蘭の姿を見てから、周囲に視線をやり、いつでも逃げ出せる用意をする。
静蘭が吼えた。毒に冒された体を持ち上げ、茶太保に短剣を投げる。茶太保の痩せた背に、銀色の短剣が突き刺さった。
兇手たちが色めき立つ。そのざわめきも扉が蹴破られるような音でかき消された。勢いよく開けられた戸から、どう、と強い風が吹き込んだ。銀児は思わず目を眇める。
低く呻くような悲鳴が聞こえた。銀児は身を翻す。何かは分からないが、逃げた方が良いと本能が警鐘を鳴らしている。その感覚には馴染みがある。
吹き込んだ冷たい風に血のにおいが混ざった。銀児の背筋が粟立つ。ほとんど本能のままに開け放たれたままの扉に向かって走り出す。
逃げ出した銀児の前に黒い影が立ちはだかった。人影は流れるような滑らかさで長剣を振るう。銀児はとっさに腕で首のあたりを庇った。
ひゅ、と空を斬る音がして、剣の切先が頸を狙った。
あ、死んだな。と銀児は剣先を見る。腕ごと切り落とされて終いだ。のんびりと静蘭が連れ去られる様を見ている場合ではなかった。
頭はいやに冷静で、そんなことをぐるぐると考える余裕があった。半ば諦めていたからだ。だが心臓だけは強く速く脈打ち、抗えと警笛を鳴らしていた。
ざくりと肩口を抉られる。避けたのは銀児ではなく、剣の方だった。柱に食い込んだ剣先が引き抜かれる。邵可は一瞬銀児を見たが、すぐに視線を切った。
銀児は目を見開き、腰を抜かして床にへたり込む。石畳の溝に、つうと血が伝ってきて銀児の指先を濡らした。
銀児は放心してぼんやりと宙を見る。心臓だけはまだ早鐘のように打っている。黒い背中を見上げて、唇を噛んだ。
もう四十なのだから、そろそろ少しばかり人並みになってもいいのではないだろうか。いまだその背中は大きく、遠い。
しかしその冷たい瞳に混じり気のない殺意を湛えていることに銀児は歓喜した。
ずきずきと肩が痛む。着物が吸いきれなかった血が、着物の下を伝っていく。
「……いたい」
下手に隠れたのが仇になった。銀児は肩口を押さえて立ち上がる。
「銀児、静蘭を陶老師のもとへ」
邵可が言う。視線を上げると茶太保の姿はもう無かった。
「……私がですか?」
「そうだよ。静蘭の危ないところを黙って見ていたんだろう?」
「それは……」
「ついでに君も手当てしてもらいなさい」
銀児は痛む肩をすくめる。
「邵可様のせいじゃないですか」
「私を見て逃げ出そうとした人影を見て、ついね」
「……誰でも逃げます」
銀児は毒を吸い気を失っている静蘭を肩に抱え上げる。細身とはいえ鍛えた成人男性の体はそれなりに重い。
「いけるかい?」
「平気です。……こういうのは得意なんで」
銀児は邵可に顔を向ける。何度でも夢に見るあの景色が蘇る。まるであの日をなぞるように、静蘭は倒れ、銀児は負傷し、邵可は血のついた剣を下げている。
「邵可様は?」
「私は……やることがあるから」
銀児は笑った。ひんやりとした空気に馴染む血のにおいが鼻孔を刺激する。
静蘭を抱え直して、銀児は邵可の名を呼ぶ。
「どうしたんだい?」
「その格好、素敵ですね」
邵可の表情が僅かに引きつる。邵可は黙って剣を鞘におさめ、手に付いた血を上着でぬぐった。