14
木の幹に突き刺さった短剣を、邵可は乱暴に引き抜いた。霄太師の残り香を感じた気がして、口の中で悪態をつく。
秀麗は目を覚ますだろうか。主上は傷付いてはいないだろうか。静蘭は無事だろうか。
様々な不安が去来する。本当は今すぐにでも無事を確認しに行きたいのだけれど、こんな血のにおいをさせては行かれない。邵可は短剣を懐にしまい込み、府庫へ向かう。邵可はいらいらと籠手を外した。内側に入り込んだ血がぬるついて気持ち悪い。
霄太師が言ったことを思い出して、眉根を寄せる。
「銀児に薬を盛ったのはあなただな」
頭痛、倦怠感、集中力の欠如、幻覚、躁鬱。銀児が訴える症状はこの男が好んで用いた毒薬がもたらすものだ。邵可は問うが、霄太師は何も答えなかった。ただ笑んで、邵可を見返す。
「何が目的だった」
低く唸る邵可に、霄太師は笑う。
「何が? おかしなことを聞く。あれはおまえの物ではないよ、邵可。王の兇手じゃて」
邵可は無言で霄太師を睨みつける。人一人殺せそうな視線に、霄太師は臆することもない。
「ただの女として野放しにするには惜しい兇手よ。おまえのもとですっかり飼い慣らされておるようであったから、少し揺さぶって起こしただけのこと」
それから、霄太師はきかぬ子供を言い聞かせるような口調で邵可に語りかける。
「故あっておまえのもとに預けたが、ああまで手酷く扱うならば、壊れる前に返してもらおう。可哀想に」
可哀想に? 秀麗を舌先三寸で利用した口がそれを言うのか。邵可は府庫の戸を押し開けた。
かすかに血のにおいがして、邵可は眉をひそめる。それは自室の扉を細く開けると一層強くなった。
「お帰りなさいませ」
銀児の声がした。室の隅の小さな椅子で、人影が揺れる。
褐色の瞳が邵可を見上げた。
「お帰りなさいませ」
銀児はもう一度言う。邵可は顔をしかめた。その、お帰りなさい、の意味を勘ぐりすぎてしまう。
上着で手を拭うと、乾いた血がぱらぱらと床に落ちた。ふと目をやると銀児の指先からたつたつと血が滴り落ち、床に小さな水溜まりを作っている。
「銀児、手当てをしてもらわなかったの?」
銀児が朝廷の医官に手当てをしてもらう、というのは難しいだろう。しかし、羽林軍の軍医はいなかったのか。まさかこの急事に寝ているということはあるまい。
銀児はふらふらと立ち上がった。顔はいつにもまして青白い。血を流しすぎている。銀児は邵可の方へ二、三歩歩み寄った。半ば倒れるように邵可の胸に飛び込む。
邵可は銀児を抱いて長椅子に座る。銀児の息が荒い。震える手が邵可の防具の金具を外した。
「銀児」
「……はい」
「酔っているの?」
銀児は苦しそうに喘ぐ。返り血さえついていない邵可の黒衣が銀児の血を吸った。
「……多分、そうです」
瞳が潤んでいる。
邵可は溜め息をつき、上体を伸ばして薬箱を取った。しがみついてくる銀児をなだめすかしながら、酒を探す。戸棚の上に埃を被った茅炎白酒の瓶を見つけた。邵可は蟒蛇であるが、強いばかりの茅炎白酒は好みではないので、貰ったは良いが放っておいたものだ。
銀児の手は器用に邵可を脱がせていく。胸を守る革の防具が床に落ちた。がちん、と金具が耳障りな音をたてる。
銀児は興奮しきって手がつけられない。鼻先を邵可の首筋に押し付けて、犬のように息を荒くしているが、邵可は銀児の口に手近な手巾を詰め込んだ。
「ちゃんと噛んでいなさいね」
邵可は言い、銀児の着物を脱がせて傷口を酒で洗う。かなりしみたのだろう、銀児はくぐもった唸り声をあげて、邵可の着物を握り締めた。
同じように酒で洗った針と天蚕糸で銀児の傷を縫う。
天蚕糸で皮と肉を繋いでいく。一刺しするたびに、銀児の体は強張った。手巾で押し殺された声が低く響く。
銀児の白い肌に針を刺しながら、邵可は奇妙に昂揚していた。銀児が痛みに震えるのを見て、邵可は目を細める。
「馬鹿だね。医務室なら阿片もあったろうに」
麻酔無しで傷を縫う苦しさは邵可にも馴染み深い。銀児は朦朧とした目を上げた。手巾を詰められた口で何事か言いたそうなのだが、何を言っているかわからない。
ぱちん、と天蚕糸を切ると、銀児は性急に手巾を吐き出す。痛みに震える指を、邵可の首に回す。
邵可は銀児の傷に布を巻くと、長椅子に組み伏せる。銀児は、甘えるように鼻を鳴らした。
銀児の着物を乱暴に引き剥がしながら、邵可は低く笑う。こんな、血に酔って狂乱する様など、誰に見せられようか。娘の一大事だというのに、自分は何をやっているのだろう。
銀児の小さな白い尻を手で割り広げる。挿入した陰茎は僅かな引っかかりこそ感じたものの、ぬめりと共に銀児の中に飲み込まれていく。根元まで陰茎を突き入れると、銀児はやっと安心したように表情を緩めた。
あとは、ただ乱暴に腰を打ち付ける。ほとんど暴力的な律動に、投げ出された銀児の爪先が、力なく空を掻く。生々しい傷の痛みと、蹂躙される臓腑の感覚に、銀児は表情を歪ませる。手足は冷え、顔は蒼白で、額にはじっとりと脂汗が滲む。だが、目だけは恍惚と蕩けていた。
このまま殺してしまいたい、と思った。銀児は悲鳴とも嬌声ともつかぬ声を上げて、邵可の首筋に熱い息を吐く。少なくとも、今の銀児は己だけのものだった。
邵可が覆い被さっていた銀児から離れると、銀児は左手を庇うようにしながら体を起こした。倦み疲れたような表情で、邵可を見る。
その目はすぐに伏せられ、白い睫毛が紗のようになって邵可にその色を窺わせない。
邵可は傍らに脱いだまま置いてある、いつもの臙脂の着物を着込んだ。
「湯を、用意いたします」
銀児はふらつく足取りで立ち上がったのだが、三歩も歩かぬうちに眩暈がひどいようで立ち止まった。邵可は後ろから銀児に上着をかけてやり、背を支えてやる。
「怪我人が無理をしない方がいい」
銀児は邵可に寄りかかる。肩のあたりに銀児の額が当たった。ひたひたと裸足の足音が、夜の府庫に響く。
夏が近づきつつあるとはいえ、やはり夜は冷える。裸に上着を被っただけの銀児は勿論、ざっと着物を纏っただけの邵可もひんやりとした空気に身震いした。
「横になっていたほうがいい」
邵可は簡易な寝台に銀児を導く。銀児は半ば崩れ落ちるように寝台に座った。足取りがふわふわとして、今にも倒れそうだ。
赤く腫れた左頬を撫でてやると、銀児は目を細めた。
「随分と腫れているよ。湿布をしてあげよう」
こくん、と銀児は頷く。頷く銀児の頭を、邵可は撫でてやる。顔の腫れに気付いてやれぬほど、気もそぞろだったのだろうか。
邵可は棚を探りながら、銀児を盗み見る。
書架の間から白い月光が差して、銀児の白い体をぼんやりと浮き立たせていた。月の光の下の青白い銀児は、不健康に色っぽい。肩にかけた邵可の着物が、白い膚に映えた。
「銀児は、茶州の出身だと言ったね。茶州のどのあたりだい?」
「……貧しいところですよ。それがどうかしましたか?」
「いや、府庫に置いてあった手巾、葉ばかり刺繍してあるのは君が作ったんだろう? 独特な色使いだから、君の出身が関係あるのかと思ってね」
手巾の話をすると、銀児は弱々しく笑った。
「どうなのでしょう。生まれ故郷はすぐに出ましたから」
「そうなのかい?」
「はい。影響を受けたとすれば、故郷ではないと思うのです」
邵可の知らぬ風に、銀児は笑うのだ。どうして言わない。珠翠には教えたのだろうに。邵可は湿布を探しながら、銀児を見下ろす。
――壊すくらいなら返せだと? 返すくらいなら壊し尽くしてやる。
「君の手巾は、あれはなんの葉だい?」
銀児は邵可を見上げる。
「……葡萄です」
「ふうん、葡萄。花も実もないなんて、ね」
「……気に入りませんでしたか?」
銀児は怯えて伺うように敷布をきゅうと握った。
「いいや、とても、君らしいよ」
それでも銀児は叱られた童のように上目遣いに邵可の顔色を見た。
「君は刺繍が上手だね。あれは初めてなんだろう?」
「あ……はい、でも」
「手先が器用なのだね。きっと、もっと練習すればもっと上手くなるよ」
浮かない表情だった銀児は、途端に嬉しそうに笑う。
「邵可様も、きっと裁縫は得意なのでしょう?」
邵可は苦笑する。さあ、どうだろうか、と言うと銀児の方を見る。
「傷は残ってしまうかもしれないよ」
銀児は肩を押さえて、ひきつるように笑った。
邵可は銀児の枕元に腰掛ける。布に膏薬を塗り付け、銀児の腫れた頬に貼り付けた。つんとした膏薬のにおいが鼻を突く。
「銀児、その頬はどうしたんだい?」
問うと、銀児は少し困ったような顔をした。なんでもありません、とか、少しぶつけただけで、とか、愚にもつかないことをぼそぼそと呟く。邵可は痺れを切らして、銀児の額をそっと撫でて問いただした。
「どうしたんだい。正直に言ってごらん」
銀児はおずおずと布団の隙間から邵可を見上げる。
「殴られました」
「誰に?」
「……静蘭に」
ふうん、と邵可は鼻を鳴らした。悪漢に殴られたなら許してもやろうかと思っていたが、静蘭に殴られたとあっては気がおさまらない。
「殴られるようなこと、したの?」
銀児は顔を曇らせる。どうやら、したらしい。
「……私が、最初に殴ったんです」
「なんでまた」
つ、と銀児は邵可に視線をやった。
「邵可様が私のことを信用してないと、静蘭が言いました」
「そんなことで……」
「邵可様、私がお嬢様に毒を送っているかもしれないと静蘭に言ったのでしょう?」
ひんやりとした瞳が邵可を射抜く。邵可は思わず少しだけ竦んだ。すぐに平静を取り戻して、銀児の腫れた頬を撫でる。
「君が府庫で療養する言い訳だよ」
「本当に?」
銀児の口調が僅かに熱を帯びた。月光を反射する褐色の瞳が濡れたように光る。
「何が本当で、何が嘘? 本当は、全部、嘘?」
「銀児……」
邵可は銀児の瞳を覗き込んだ。
「君は静蘭に何か言われた程度で私を疑うのかい?」
なんて狡い男だろう。邵可は自嘲する。こうやって自分は銀児の気持ちを押し殺させる。まるで駄々をこねる幼子のように、銀児に甘えきっている。
銀児ならばどんな自分でも受け入れてくれる。清濁併せ呑む銀児の深淵のような瞳は、混沌とした邵可の自意識をいとも簡単に飲み込んでくれる。
銀児は邵可の手に触れた。氷のように冷たい指先が邵可の手の甲をなぞる。
「邵可様、私、珠翠様と会って、色々なことを知りました」
「ああ、そうだね、邸に帰ったら秀麗が昔読んでいた本を出してあげよう」
「そう、字と、それから――」
どうして、私が、邵可様を好きなのか。
ぽつりと零された言葉に、邵可は瞠目した。銀児は邵可を見上げる。あの、深淵を覗き込むような瞳が、邵可を見据えた。
「……そう」
それしか答えようがなかった。どうして、を問う勇気は邵可に無かった。ただ、邵可は、銀児が獣の刷り込みのように理由なく己に懐いているという、願望にも似た傲慢な確信を抱いていた。
邵可は銀児の肩の傷に手をやる。
「可哀想に、痛いだろうね」
その手をするすると銀児の頸へ向けた。
「ねえ、銀児、理由は何でも構わないよ。ただし、私を裏切ったら、その時は――」
ああ、こんなことを言うつもりは無かったのに。こんな、惨めな台詞を吐くつもりは無かったのに。邵可は自己嫌悪に吐き気を催す。
銀児は褐色の瞳を三日月のように細めた。邵可の手を取り、強く喉元に押し付ける。ずぶ、と己の爪先が白く柔らかい肉に食い込む様を、邵可は黙って眺めていた。
「君は、さ。どこか壊れているよ」
「そうですか?」
「壊れている。おかしいよ」
銀児は笑みともつかない表情を浮かべ「きっと邵可様がそうしたのです」と言った。
それから、銀児はすうと蔀を指差す。
「珠翠様がいらしていますよ」
「いいのかい? 君は、一人で……」
「さあ。でも、珠翠様にはなるべくお譲りすることにしたのです」
邵可は胸がつかえるようになって、そうかいとだけ頷く。先程まで銀児を照らしていた月はぼんやりとしていて、代わりに柔らかな曙光が青く室内を照らし始めた。