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 塵にも等しい己を、銀児は何の未練なく傍観していた。替えのきく人間だ。自分が死ねば誰かが取って代わる。だからこそ、死ぬわけにはいかなかった。
 銀児は生きることには固執したけれど、自分自身に執着したことは一度もない。己は己という意思を宿した肉の殻でしかなかった。
 生きるためだけに生きてきた。生きること以外に銀児が執着したのは、邵可くらいのものだ。

 邵可の黒くて綺麗な髪が好きだ。細められた緋色の瞳が好きだ。骨張った長い指が好きだ。しなやかな体躯が好きだ。頭の良いところも、博識なところも、優しいところも、非情なところも、意地悪なところも好きだ。

 だが、銀児は、何物だろうと薙ぎ倒す邵可の強さが、何よりも好きだ。死の恐怖が輪郭を持ったようだった。美しい虚無のその先に惹かれた。
 耐え難く避け難い死神の刃を突き付けられたときに、銀児は生を実感した。死の恍惚が銀児を捕らえて離さない。

 邵可に必要とされたい。そのためならば何も惜しくない。銀数両の価値しかない己に、邵可は無量の価値を与えてくれる。虚ろの中の実を感じさせてくれる。だから銀児は邵可に全てを捧げる。
 それは無償の愛でも献身的な愛でもない。

 ごめんね、邵可様。

 銀児は広い背中を眺めながら、心中で呟く。当の本人はそれに気付くはずもなく、卓子に向かっていた。
 銀児は邵可の背後から首に腕を回す。黒い髪を結った頭を抱きかかえるようにする。
 己の左頬を邵可の右頬に添わせると、腫れのひいたはずの頬が鈍く痛んだ。
 静蘭に思い切り殴られた頬は景気良く腫れた。今は目の回りや顎に青黒い痣が残っている。こんな顔の女をよく抱いたものだ。

 邵可が手の甲で銀児を押し戻す。銀児の痣の残る頬に一瞬だけ指が触れた。名残惜しく鼻を鳴らす銀児を邵可は苦笑して遠ざける。

「今日は秀麗と静蘭が戻るから、きちんと支度をするんだよ」
「結局、お嬢様は残られないのですね」
「そのようだね」

 銀児は首を傾げた。

「王の妃になれるのに? 妃になったら三食美味しいものを食べられて毎晩絹布団ではないですか」
「そう簡単なものでもないんだよ」

 ふうん、と銀児は肩をすくめる。邵可は銀児の頭を撫でた。

「じゃあ君が乞われたら、君は王のもとへ行くのかい?」

 銀児は数回まばたきして、首を横に振った。


******


 府庫を出た銀児は早足で後宮へ向かった。朝方の青白い庭園を眺めて息をつく。
 散り落ち踏まれた桜の花弁が地面に貼りつき、風に煽られてはぺらぺらと揺れた。さく、と花弁を踏む微かな音に銀児は振り向く。

「珠翠様」

 振り向いた銀児を珠翠はぎょっとして見返した。

「銀児、あなた……その、頬」

 ああ、と銀児は頬に手をやる。やはりまだ見た目は痛々しいのだろう。秀麗への言い訳を考えながら、銀児は口を開きかけたのだが、珠翠がそれを遮った。

「ま、まさか、私のせいで!?」
「……平手でここまで腫れません」

 確かに女人の平手打ちにしては、流石と言うべきか、手首の捻りのきいた見事な一撃ではあったのだが。
 珠翠はおずおずと銀児の頬に触れた。

「なんて酷い……」
「実は見た目ほど酷くない。痣が目立ちやすい顔色なだけです」

 銀児は苦笑する。だいぶ侘びしい様相を呈する桜の枝がさわさわと揺れた。

「あなたに……」

 珠翠は一瞬口をつぐむ。

「あなたに会えないと邵可様に言われて、もしかして大怪我なのではないかと……」
「ご心配をおかけしました。顔は大丈夫ですよ。肩を怪我しただけです」
「ひどかったのですか?」
「もう良くなりました」

 銀児は珠翠を見つめる。吸い込まれるような翠色の瞳に自分の青黒く変色した顔が映って、目を伏せた。
 邵可に必要とされていない自分など珠翠の髪飾りほどの価値もない。自分に価値を見いだせないから、邵可を通して己の価値を確認したい。
 浅ましい、のだろうか。報酬のためならば何だってしてきた。今更だ、と嘲笑う自分がいる一方で、見返りはいらぬと言い切れる珠翠をとても羨ましく思うのだ。
 恋とは美しいものではないのか。少なくとも、銀児はそう思っていた。そして、珠翠の思いは美しいと思った。強い、と思った。
 何もかも断ち切って前へ進めるのも一つの強さかもしれない。だが、綺麗に微笑んで「愛しい人の幸せな姿を見守るだけで良い」と言える珠翠を、銀児は強い女人だと思った。

 銀児は珠翠の気持ちが分かる。邵可の過去を聞くとき、銀児は取り残されたような寂しい気持ちになる。きっと、珠翠も同じだ。珠翠も薔君を、或いは自分を嫉ましく思うだろう。
 小指の先ほども嫉妬しない、というならばそれは嘘だ。そんなの、人間ではない。それでも珠翠は笑うのだ。笑って、平気だと言う。

 銀児が、ふと溜息をこぼしたのを珠翠は聞いた。

「珠翠様、きっと、恋も愛もそんな美しいものでは無いのですね」
「……ええ、そうね。だって、人間のすることですもの」
「私は知らなかった」

 恋をしたことが無かったから、と銀児が言うと、珠翠は目を伏せる。

「全然美しくない。御伽噺は、みんな嘘だ」

 銀児は己の胸に手をやった。薄く粗末な上着の胸元を強く握りしめる。

「こんなに、苦しい」

 珠翠の白くすべらかな手が、銀児の手を包み込んだ。柔らかくひんやりとした手が銀児の胸元で組まれる。

「素敵な気持ちでしょう?」

 珠翠は言った。その表情は相変わらず穏やかで、美しくて、そして悲しそうだった。だが、その言葉は嘘でも皮肉でも冗談でも無かった。
 銀児は首を振る。

「……分かりません」

 そう、と珠翠は頷いた。いずれ分かるわ、とも言った。

「銀児、多分ね、本当はこの世に美しいものなんて何一つ無いのです。でも、美しいと感じることは出来る」
「……分かりません」
「いつか分かるはずですよ」

 銀児は少しの間目を細めて珠翠を眺める。

「珠翠様は美しいと思いました」

 珠翠ははにかむようにして笑った。それはどこか少女めいた、しかしやはり大人の笑みだった。

「ありがとう、銀児」

 銀児は曖昧に笑って、珠翠の手を握り返した。向かい合ったまま、互いの胸の前で指を絡ませる。

「珠翠様、私はもしかしたら邵可様になりたいのでしょうか」

 銀児、と珠翠は小さく呟いた。銀児は珠翠を上目遣いに見る。

「自分はどうしようもない人間だけど、私は自分が死ぬほど嫌いなわけではありません」
「でも、好きでもない?」
「はい。それに、自分が他人に好かれないことも知っています」

 日が徐々にのぼり、閑散とした桜の枝の隙間から朝日が差し込む。黄金色の光が地面に敷き詰められた白い花弁に反射した。

「私が邵可様だったら、珠翠様は私が好きだったでしょう?」

 それは、と珠翠は口ごもる。何を言いたいのかはっきりとは分からなかったが、銀児が何を考えているのかは薄々分かるような気がした。

「いいえ」
「……どうしてです」
「あなたが邵可様でも、私のお慕い申し上げる邵可様とは別人ですもの」

 銀児は目を伏せる。珠翠の美しい衣の裾を見ていた。

「そうですか」
「ええ、でも、あなたが邵可様でなくても、私はあなたが好きよ」

 銀児は面食らって弾かれたように顔を上げた。珠翠は笑う。

「信用していないでしょう?」
「……いいえ。私に受け止める度量が無いだけです」
「あら、それは困ったわ」

 銀児は珠翠の笑顔を直視出来ずに目を逸らす。

「珠翠様は、美人で教養も人望もあるのに、私と同じように悩むのですね」
「同じ人間だもの」

 同じ、と銀児は口の中で呟く。

「あなた、あの夜私に人間なんてそんなものだと言ったでしょう?」
「え? ああ、……言いましたか、そんなこと?」

 無礼であったのだろうか、と銀児は首をひねる。珠翠は苦笑気味に頷いた。

「ええ、言ったわ。それとおんなじよ。人間なんて、そんなものよ」

 珠翠はやはり笑った。美しいけれど、どこか悲しげだった。美しさの陰に淡雪のように悲しみがちらついている。
 銀児は握りしめたままだった珠翠の指を、より強く握る。細く華奢で滑らかな白い指は、銀児の骨張った手で握ると砕け散ってしまいそうだった。

「珠翠様は、悲しいのですか?」

 銀児は問うた。珠翠は首を振る。

「いいえ、幸せよ。とても」

 そうですか、と銀児は空を仰いだ。

「帰ります」
「え?」
「お嬢様の貴妃ごっこはお仕舞い、私の風の狼ごっこもお仕舞いです。邸に帰ります」
「……そう、寂しくなるわね」
「ご冗談を」

 壮麗な朝廷と煌びやかな後宮を行き来する生活は、慣れぬ慣れぬと思っていたわりに名残惜しい。難しげな言葉を口にする役人や、美しく着飾った宮女を眺めているだけで、自分も賢く美しくなれた気がした。
 賢く、で思い出したのだが、ここ最近銀児は珠翠の課題に手を付けていない。どうしたものか、と思案すれば珠翠は見透かしたようににっこりと笑った。

「続けるのでしょう?」
「え?」
「まさかやめてしまうのですか? まだまだ学ぶことはたくさんありますよ」
「……と、言うと?」

 銀児はにやりと唇を歪めて珠翠を見る。珠翠も目を細めて銀児の耳元に唇を寄せた。

「府庫の裏の外壁は、崩れて穴があいているのです。そうね……女人ならば通り抜けられるかしら」
「……それは」
「外壁の向こうは竹林です」
「…………なるほど」

 銀児は額に手をやる。常々思っていたが、おとなしそうな顔をしてなかなか苛烈なご婦人である。

「唆しますね」
「あら、随分難しい言葉を知っているのね」
「おかげさまで」

 銀児は溜め息をついた。素振りは繕って見せても緩む口元が抑えられない。

「どうかしら?」
「邵可様にばれたらお仕置きされるのは私ですよ」
「ばれなければ良いのです」

 府庫の中から邵可が自分を探す声を聞いて、銀児は珠翠に目配せする。珠翠も片眉を上げた。

「女人には殿方の知らない秘密がたくさんあるものですから」

 銀児と珠翠は顔を見合わせて、二人とも少しだけ笑った。