無慈悲な夜の獣



 山中を行く銀児の足取りは軽やかだ。その目的を思えば決して楽しい道行きではなかろうに、銀児の双眸は生気に満ちる。
 夏の山は無数の生き物の気配にむせ返るようで、昨晩の雷雨で繁る草木は青々とし、ざわざわと音を立てて伸び上がっているようにさえ感じられる。
 野に在る銀児は美しいと思う。痩せた四肢には力が行き渡り、五感が冴え渡っている感覚が傍らにいるだけでひりひりと膚を刺した。
 人界と隔絶した、文明や理性の光の届かぬ暗い森に在るべき生き物なのだ。それを明るい最中に引き摺り出され、文明の尺度で測られ、人を殺めさせられたことを、邵可は哀れを超えて痛々しくさえ思う。

 全てを失った邵可に残されたのは、家屋敷と財産とも呼べぬ小さな山だけであった。亡妻の墓を築いたその山の手入れは、以前は静蘭が行っていた。だが、銀児が邸に来てから、どういう経緯であったかは思い出せぬが、銀児が山道の手入れを行っている。
 亡妻の墓へ続く山道の下草刈りを、銀児が何を思いながらやっているのかは分からない。命じたわけでもないのに、銀児は黙々と山道を整える。一人になれるから山に入り仕事をするのが好きなのかもしれないし、複雑な思惑があるのかもしれない。どちらにせよ、墓参りが楽になることには違いなかった。
 毎年、墓参りには娘と静蘭を連れて行く。銀児は山道の整備はするが、墓参りについてくることはなかった。今年は秀麗も静蘭も邸を留守にしているから、銀児を供にするしかない。墓を洗う水桶と束子を運び歩く銀児の額には汗が玉のように浮かび、首筋を流れていく。体温を感じさせぬ青白い体もこの暑さには汗をかくのか、と邵可はぼんやりと考えた。

 亡妻の墓前へ銀児を連れて行くのに、些かの躊躇いもなかったといえば嘘になる。事実、これまで銀児を連れたことはなかった。さて秀麗も静蘭もいない今年はどうするかと考えていると、銀児は何も言わずに墓参りの準備をし、淡々と荷を背負うと邵可について来た。
 思えば、墓参りに同行することはなくとも、毎年墓参りの支度をしていたのは銀児であった。我ながら酷なことをしたものであろうか。


 小高い丘の上に建つ小さな墓は、そこまで延びる山道の整備に比べれば、笑ってしまうほどに手付かずだった。墓石の中程まで伸びた草を毟りにかかる邵可を、銀児は半ば困惑したように眺めた。

「……お手伝いした方がよろしいですか」

 その口振りに邵可は苦笑する。

「好きにすればいいよ」

 答えると、銀児はおずおずと墓石の影に屈んだ。おや、とそれを見る。意外だった。亡妻には、かなり複雑な心象であったようだから。

「意外だね」

 邵可の言葉に、銀児はふと顔を上げる。

「何がですか」
「墓参り、来たがらないかと思っていたから」

 ああ、と銀児は小さく呟く。しばらく沈黙が落ちた。

「ただの石です」

 銀児らしいといえば銀児らしい言葉に、邵可は低く笑う。

「この下に、骸を埋めたのですか」
「骸じゃなくて遺体だよ、銀児」
「ああ、ええ、そうですね、遺体」

 そうだ。そこには、妻の遺体が眠っている。正確には、妻の肉の殻だった娘の遺体だが、そうとて無碍には扱えない。
 銀児はあまり興味なさげにふうんと吐息にも似た相槌を打つ。
 
「どうして遺体を埋めるのです?」
「どうして、って?」
「人間一人入る穴を掘るのは大変ではないですか」
「身に覚えがありそうな口振りだ」

 邵可が言うと、銀児は肩をすくめた。

「人を埋めるのは、死体を見られたくないときだけです」
「弔うときは?」
「野に晒します」

 笑えぬ冗句かと思えば、銀児は草を毟りながら淡々とした無表情のままである。

「臓腑は熊が、手脚は胡狼が、頭は雪狐が、骨は烏鷲が持ち去っていく。残りは蟲が食い尽くして、何も残らない」
「君も、そうして葬られたい?」
「はい」

 皮肉交じりに聞いたつもりが、銀児は迷いなく肯んじた。銀児が乾いた地面に視線を落としたまま「みな、そうしてしんでいった」と呟くのが聞こえる。ぽとり、と額の汗が地面に落ちて、白っぽい土に黒く染みを作った。
 銀児が自分の話をするのは珍しい。ましてや、紅邸に引き取られる前の話は、ほとんど銀児の口から聞いたことはなかった。邵可も、己の昔話などしない。血と汚穢にまみれた陰鬱な、だが終わった話を、わざわざ他者と共有しようとは思わない。兇手など、そういうものだ。

「みな?」

 邵可の問いに、銀児は己が言い出したことであるのに、わずかに顔をしかめた。

「……そう教えられたのです。昔の話ですが」
「その人もそうして死んだの?」

 硝子玉のような瞳が、邵可を見つめる。

「ええ、――邵可様が殺しました」

 ふ、と邵可は小さく笑う。

「あそこで君といたうちの誰かかい?」
「そうです。灰色の髪の男で、確か、背はこれくらい」

 銀児は己の頭より少し上に手をやる。

「覚えていないな」
「そうでしょうね」

 感情を窺わせぬ声音だった。

「あそこで、色々なものを失いました。でも、命だけは失わなかった」

 狼の爪牙からこぼれてしまったから。銀児は邵可の土に汚れた手を取り、己の喉笛に当てる。汗の滲む白い首に、五本の泥の筋がひかれた。

「死ぬときは邵可様に殺されたいのです」
「なぜ」

 銀児はうっすらと笑う。

「邵可様のやり残した仕事ではないですか」

 ああ、と邵可は低く呻いた。銀児は、いつまでも邵可に忘却を許してくれない。銀児は邵可にとって永遠に付き纏う死の影のようなものだ。厭わしい過去から、細くたなびく白い煙のようについてくる。
 痩せっぽちの小さな子供にふと娘の面影が重なった気がして、逃がしてしまったのが運の尽きだった。使命のためなら心に漣ひとつたてぬ己が、なんとなく慈悲めいた行いをしたばかりにこのざまだ。運命とは、なんと皮肉なものだろう。
 殺してしまえばいい。銀児の細い首に指をかけ、当人にさえ気取られない早さで邵可はその頸骨を圧し折る事ができる。だが、そうしないのは、邵可はその厭わしいそれを無かったことにできないからだ。
 廃嫡された紅家の長子。絡繰のごとき精密な為政者。浮世離れした府庫長官。瞬き一つせず人の首を落とせる兇手。優しい父親。どうしようもない男。全てが己なのだ。どれも嘘ではない。しかし、受け入れられることもない。
 銀児だけはそれを受け入れてくれる。人間なんてそんなものだと知っている。深謀で、寛容で、どこまでも残酷だ。

「殺してあげないよ」

 そう言うと、銀児は不満そうな顔をした。今はまだ、と付け加える。銀児はしばらくの間黙って草を毟っていたが、すと顔を上げると遠慮がちな上目遣いを邵可に向けた。しょうかさま、と呟かれる名を制止する。

「やめなさい。墓前でするような話じゃない」

 銀児は大人しく口を噤んだが、物言いたげに目を細めた。銀児にとっては、朽ちた死体の上に建った石の塔だ。言い分は分かるが、聞き入れるつもりはない。
 墓洗いは己の手で行う。銀児は自分がやると申し出たが、断った。それを無意味な石塊だと考える人間に墓を洗わせるのは、あまりに無為な行いに思えた。
 墓石に水をかけて洗っている間、銀児の手持ち無沙汰な視線を背に感じる。

「邵可様」

 溢れるような囁きが投げかけられた。邵可は顔を上げずに応える。背後でかさりと下草が鳴った。

「私が死んだら土に埋めますか」

 邵可は磨かれた墓石に手を添え、白い日の光に焼かれる土を眺める。

「――生者が死者を弔うのは、そこに愛惜と悲しみと疚しさがあるからだ。取り残された者は、何かせずにいられない。たとえそれが無意味でも」

 ふうん、と銀児はまた無関心な声を発した。

「君には何もない。だから、土に埋める必要がない。君は他の獣と同じように、何物かの糧になる」

 枝葉の擦れる音のような、かすかな笑い声がする。邵可はそれを遮るように言葉を続けた。

「でも、人の寄り集まる土地では人の遺体は単純に不衛生だからね。疫病を齎さないためにも、遺体は土に深く埋められる」

 銀児は痙攣のように声をあげて笑う。低く密やかな笑声は邵可の心を無闇に逆撫でした。

「茶州は寒く乾燥した土地だから、山の民にはそういう葬送が根付いたのだろう」

 不意に邵可が銀児を見上げると、銀児はぎらぎらとした日の光を浴びて陽炎のように立ち尽くしていた。俯く顔に濃い影が落ちる。口元がゆるりと動く。笑みであったろうか。

「我々は我々が何者でもないことを知っているのです。人は人でしかなく、死は死でしかない」

 生きて、死に、朽ちて、糧となり、巡る。明快で残酷で無慈悲だが、優しく、そして決して間違いではないのだろう。
 邵可は細く息を吐き、墓石に向かって手を合わせる。ふと、この行為に何の意味があるのかと思った。