仮にそれを愛と呼ぶならば




 不機嫌な視線をひしひしと背中に感じて、邵可は一人笑みを零した。分かりにくいようで分かりやすい感情表現は、いじらしくて嫌いではない。
 先ほどまで訪ねてきていた珠翠が北斗の話をした際、自分だけ理解できない話をされるのを厭うたのか、ふらりと姿をくらませようとした銀児をわざわざ呼び戻した。
 邵可は出会うまでの銀児が、どこで、何をしていたのかをよく知らない。詳細に知りたいと思ったこともない。お互い後ろ暗く、そこには触れ合ってこなかった。
 己には忠犬よりも従順な銀児は、問えば必ず答えるだろう。だが、聞いたところで何だというのだ。死体の数を競い合うことほど馬鹿馬鹿しい話もない。どちらがより報われないかなど、さらに無意味なことだ。

 全てを一人その小さな身体で受け止めようとするにも関わらず、自身を支えるものを他に求めてしまうという大いなる矛盾を孕む銀児が、邵可に抱くのは恋心と呼ぶにはあまりに生々しい感情であった。
 己がかつて亡き妻に生の意味を見出したように、銀児は邵可に尽くすことでそれを見出している。邵可には銀児が今まで何人の主にその表情を見せてきたのかという了簡が、うっすらとかかる霧のように付き纏う。
 ふ、と思ったのだ。銀児もそう思うのだろうか。それともなかば盲信に近い妄執を己に抱く彼女は、終わった話になど欠片の興味も抱かないのだろうか。
 些細な悪戯であったが、思いの外覿面に効果があったようだ。部屋の隅に椅子を置き、その上にうずくまっていた銀児の方を向くと、恨みがましい視線を放つ目と目が合う。

「珠翠と何の話をしていたの?」

 珠翠を送るよう命じ、帰って来てからすこぶる機嫌の悪い銀児にそう問うと、少しだけ目を伏せ眉根をよせた。

「紅薔君の、話を」

 ああ、やはりそんなところか、と苦笑を一つ零す。おいで、と銀児を手招けば滑らかな動作で椅子を降りる。
 その様子は、どこか蜘蛛が脚を広げる様にも似ていた。

 銀児の腕を強くひく。昔、幼い娘にそうしたように、己の膝の上に抱く。腰のややひけている銀児をやんわりと押さえつけた。
 己だけは拒絶しないことを逐一確認せずにはいられない。愚かだと、滑稽だと、笑うならば笑えばいい。

「妻はね、とても素敵なひとだったよ」
 
 囁くも常に乏しい表情に変化は見られない。虚空をうつろう目は深い穴のように底が知れない。

「でも、死んでいるではないですか」

 銀児は掠れた声で呟くと、邵可を伺うようにして先を続ける。

「いない人間に嫉妬はできない。それなのに邵可様はいない人間のことばかり考えているのですね」

 常になく饒舌な銀児は、やはり怒っているのかもしれない。

 月光に白磁よりも白い肌が淡く光る。日の下では紙のように青白く、不健康な顔色も、月の下では妖気を湛える。骨張った指先が、邵可の頬をそろりと撫でた。

「それに、こうしている時は私しか見ていないでしょう」

 即物的な銀児のことだから、それは物質的な意味以外を持たないのであろう。それでも、銀児の口からそんな台詞が出るとは予想外であった。
 邵可はその背に手を回し、逃げようと身じろぎする銀児を抱き寄せる。まるで子供に教え諭すように、その顔を真正面から見据えた。

「ねぇ、銀児。もし君が、私のものになって、私だけを見て、私のために生きるなら、私は君を愛してあげないこともないよ」

 そう言って、優しく笑んで見せる。すると、銀児はほんのりと目を細めた。

「愛ってなんですか」

 そう零して、拗ねたように邵可の肩に顔を埋める。

「形あるものの方が好きです」

 仕方の無い子だね、とその髪を梳く。

 お互いの傷を抉り合い、舐め合うような不毛な関係である。決して甘やかではないそれが、邵可は少しだけ心地良いと感じているのだ。