はなとぶらひ
春の夜陰に白々と月の光が降り注いでいる。その月の光の中で、ぼんやりと発光さえして見える桜の花を遠目に見て、男――紅邵可は歩を進めた。
春の夜風は穏やかに花の香を運ぶ。目の端を白い花弁がひらひらと横切った。紅家別邸から少し歩いた土手の桜並木は少し前に盛りを迎えた。
その桜に誘われるように、邵可はふらりと土手へ足を運ぶ。
遠目には雲のように見えていた桜も、近づくにつれて徐々に輪郭を露わにした。風が吹く度に花弁を散らす桜の木には、美しさと同時にある種の物悲しさがある。
邵可ははたと足を止めた。かすかな人の気配に息をひそめ、その必要のないことに気が付いた。長年の癖に苦々しく笑みを零す。
ぐるりと首を巡らすと、見慣れた人影が目に付いた。
「銀児」
小さく呼ばれた名に、銀児はゆるゆると振り向いた。いつからそこでじっとしていたのか、頭に積もった花弁が肩に、肩に積もった花弁が膝に、膝に積もった花弁が地面へ、はらはらと落ちる。
銀児はにこりと笑って「邵可様」と嬉しげに声をあげた。
おや、と邵可は眉を上げる。常に表情も言葉の抑揚も乏しい銀児にしては珍しい。
何やら上機嫌に岩に腰掛けていた銀児の横に立つ。
「何が見えるの?」
「花が見えます」
先よりは平坦に、しかしどこか弾むように銀児は言葉を返した。それは酷く期待外れな答えではあったのだが。
銀児は岩から降り立ち、桜の花弁が降り積もる地面へしゃがみこんだ。足元の花弁がふわふわと揺れる。
「いつから此処に?」
「ずっとおりました。夕方からずっと」
「そう。花は好き?」
何気なく問うと、銀児はこくんと首を縦に振る。次いでふと首を傾げ「邵可様の方が好きです」と言って恥ずかしげに笑った。
邵可は、いよいよ銀児がおかしくなってしまったかと目を丸くする。熱でもあるのか、と掌で銀児の額に触れると心なしか熱っぽい気がした。
邵可の憂いをよそに銀児は掌の心地よさにうっとりと目を細めている。
さあどうしたものか、と邵可が銀児の横にしゃがみこむと、銀児の白い手が邵可の肩を押した。
邵可の視点が反転する。四方を桜に囲まれ、上方の桜の枝、下方の降り積もる花弁のせいで邵可は一瞬どちらが空か、それとも地面か分からなくなった。
されるがままに尻餅をついた邵可の周囲で、桜の花弁が蠢く。仰向けの邵可の腹の上に体を預け、銀児は邵可の顔を覗き込んだ。絡み合う視線に口付けを求められるかと思えば、銀児の頭はぽすんと邵可の胸の上に落ちる。
邵可の鈍い紅の着物の上に、銀児の白い髪と白い花弁が散らばった。
一瞬鼻腔をかすめた酒気に、邵可は軽い落胆を覚える。
どうして酒を飲んでいるのか、誰と飲んだのか。問い詰めようと思うも、自身の胸の上で弛緩しきった無防備な表情に上げかけた手を下ろした。
銀児は片耳を邵可の胸板に押し付ける。「邵可様は――」細められた褐色の瞳が邵可を見上げる。
「邵可様は死にたいと思ったことがありますか」
やわらかな笑みに似合わぬその問いに邵可は瞑目する。「あるよ」と低く答えると、銀児の唇は弧を描く。
先代黒狼が死んだとき、妻が死んだとき。それらは、怒りと悲しみと憤りが先行した。どちらかといえば、何ということのない――例えば、鶯の囀りが聞こえたとか、夕焼けが綺麗であったとか――ふとした拍子に、死んでしまいたいと思うことがある。
自分のいない世界は、きっと平和で優しい世界だ。そんな気がした。
「私もあります」と答える銀児の顔をまじまじと見つめると、白い睫毛が伏せられる。
地面に横たわる二人の上に花弁が降る。花の香りと酒の香りに、邵可は目眩と酔ったようなぼんやりとした心地よさを覚えた。
「私はろくな死に方をしないでしょうね」
言って、銀児は笑う。
「どうして」
呆れるほど愚かな邵可の問いに銀児は、なんとなくです、と首を捻った。
「こうしていると、死ぬときはこういうものだろうかと思うのです」
独白にも聞こえる銀児の呟きに、さぁ、と邵可は首を振る。
「それは誰にも分からない」
銀児ごと上体を起こすと、銀児は引き止めるように邵可の背へ腕を回しきつく抱き締めた。
私は、と薄く唇を開く「邵可様と一緒にいられて嬉しい。死んでもいいと思うくらいに」
そう言ってうっとりと笑って見せた。幸せそうに蕩けた口調に相反し、双眸が昏く邵可を見つめる。そして、ああと声を漏らす。
「でも、死んだら邵可様と一緒にいられませんね」
銀児の額がゆるく邵可の胸に打ちつけられた。
頭の中身がそのまま流れ出したかのような、支離滅裂な言葉を聞きながら、邵可は銀児の髪を弄ぶ。
やがて、銀児の言葉はぽつぽつと眠たげな風になり、ふつりと途切れた。
邵可の胸に寄り添うように、すうすうと小さな寝息をたてる銀児の頭を撫でる。髪に絡まる花弁を一枚手に取り、指先で軽くはじく。
(いつもこれだけ可愛げがあれば、私だってそれなりの対応をするのに)
結局、可愛げのない態度をとらせているのは邵可自身の言動にも関わらず、邵可はそう思う。
銀児の意識がないのをいいことに、しがみつく銀児の背にゆるく手を回した。