君がにゃあと鳴きまして
にゃあ、と鳴き声を聞いて邵可は読んでいた本から顔をあげた。
府庫から外を覗き込めば、元は白であろう毛皮を汚した猫が黄色の瞳で邵可を見上げる。その体躯は可愛らしい鳴き声に似つかわしくなく逞しい。
何気なく猫に指先を近付けると、目やにで汚れた顔をくしゃりとさせて鼻を指先に擦りつけてきた。
「どこから来たんだい?」
問うも、答えはない。もとより期待もしてはいないが。
猫は邵可を恫喝するように鳴く。
「……食べ物が欲しいの?」
しきりに鳴き続ける猫に追い立てられるように席を立つ。
府庫の裏には次官が作る干物が吊されている。干し柿を掻き分け、邵可は小さな干し魚を手に取った。
体が重いせいだろうか。自分では干し魚を盗んで逃げられないと見える。
「はい、どうぞ」
干物をひょいと投げると、猫は意外に俊敏な動きでそれをくわえて悠々と持ち去った。のしのしと歩く後ろ姿は、猫にしては貫禄がありすぎる気がする。
「……またおいでね」
後ろ姿に小さく声をかけると、猫は短い尻尾をぶんと振った。
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「あれ、魚の数が減ってるなぁ……」
ひい、ふう、みい、と干し魚の前で眉間に皺を寄せる部下に邵可は声をかけた。
「ああ、ごめんね。昨日、猫にあげてしまったんだ」
穏和を通り越し、最早なにを考えているのか分からない顔で次官は「そうでしたか」と頷く。
「それは、その猫ですか」
邵可は指の先を視線で追う。その先には先日の猫が図々しくも勝手に上がり込み、邵可の顔を見てにゃあと鳴いた。
「本当に来るとは思わなかったよ」
手を差し伸べるも、その手に何も握られていないのをちらりと見ると猫はぷいと顔を背けた。猫は干物を手にした次官の方を見て、にゃあと例の恫喝するような鳴き声をあげる。
「なんだか凄く脅されてるような気がしますね」
次官もどこかたじたじとした様子で後ずさった。彼は何を思ったか机の上の筆をとり、猫の鼻先にちらつかせる。
「ほらほら、じゃれないの?」
猫は馬鹿を見るような目で次官を一瞥すると、再び邵可に向かってにゃあと鳴いた。
邵可は、幾分かしょげて見える次官に「魚、あげてもいいかな?」と声をかける。次官はなんとなく納得のいかない様子で了承した。
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「そういえば、白玉さん最近来てませんねぇ」
干し柿をお茶請けに次官は寂しそうに窓の外を見やった。
なんというか、この男は虐げられたり蔑ろにされたりするのが好きなのだろうか。と邵可はたびたび思う。
でなければ、何度も猫にちょっかいをかけては無視され、爪をたてられ、それでも「白玉さん」と名前をつけて執拗に可愛がろうとする理由が分からない。
もしもそうであるならば、あの臍曲がりの弟とやっていけるのも頷けるというものだ。
「そうだね。他の人のところで餌をねだっていたりしてね」
「はは、そうですねぇ。白玉さんならやりそうです」
「二週間くらいかな? 彼が来ていたのは」
「はい」
死んだのではないか、とお互いに思いながらも口にはしない。悪童に悪戯されたか、他の官吏に打ち殺されたか、野犬に食われたか。考えられる事態は数多い。
邵可は茶をすすり、何もいない窓の外を見つめた。
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夕食も済ませて自室で本の頁を繰っていると、背後でかさりと空気が揺らいだ。
目の端にちらりと白が揺れる。あの猫であろうか、しかしまさかそんなわけがない。
そっと振り返ると、褐色の瞳が邵可を見返した。
「銀児か」
邵可が安堵の溜め息まじりに声をかけると、銀児は何も答えずに、ただ黙って邵可を見返した。
もともとそんなに饒舌な娘ではない。下手をすれば、二三日話しているのを聞かないのもざらである。だが、ここ一週間程声を聞いていない気がした。
「びっくりさせないで」
銀児はやはり何も答えず、室内にぽつりと立ち尽くしていた。褐色の瞳がじいと邵可を捉える。
「……銀児?」
邵可は怪訝に思い、本を閉じて席を立つ。銀児の目の前で歩みを止めて、その瞳を覗き込んだ。
銀児は目をまん丸にして邵可を見上げる。薄い唇が僅かに開き赤い舌が覗く。ひゅ、と息を吸い込む音がして、そして、銀児は、
「にゃあ」
と鳴いた。
「銀児?」
どういう類の悪ふざけであろうか。
銀児は少しだけ目を細めて、滑らかな動きで邵可の胸に頬摺りした。
「にゃあ」
邵可は銀児の白い髪に指を絡ませた。
「にゃあ」
胸にしがみつく銀児を見下ろして、邵可は溜息をつく。
「にゃあ」
銀児が邵可の首筋をべろりと舐めた。
「にゃあ」
銀児は邵可の胸元に顔を埋めた。
「邵可様は猫が好きなのですね」
抑揚のない声音には、わずかに不機嫌さが滲む。
府庫で猫を可愛がっていたのを知っていたのか、銀児は上目遣いに邵可を見た。
邵可は深く深く溜め息をつく。
「好きといえば好きだけど、それが?」
「……私と、」
どっちが好きですか。と俯く銀児の旋毛を眺めて、邵可は頭を抱えた。
大概あれだとは思っていたが、まさかここまでとは。
「馬鹿だね、君は」
銀児は首を傾げ、一つ二つと指を折る。
「お嬢様と静蘭と珠翠様と黎深様と玖琅様と……奥様と」
褐色の瞳が揺れる。銀児が戸惑いがちに邵可を見上げた。
「一番にしろなんて、思ってないですから……だから……」
それを聞いて邵可はまた深々と溜め息をつく。ぞんざいに銀児の頭を撫でて「君の方が好きだよ」と言うと、銀児はくしゃりと笑った。
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「どうかしましたか、長官」
相変わらずぼうとした顔で、次官は机の上に茶を置いた。
邵可は苦笑して「なんでもないよ」と答える。
「そうですか。……あれ?」
次官は細い目を見開いて、窓の外を見た。
「にゃあ」
件の白猫が、子猫を数匹引き連れている。ほら、こいつらにおねだりしなさい。とでも教えたのだろうか、子猫らも口々に鳴き声をあげはじめた。
「白玉さん、女の子だったんだねえ」
子猫に触ろうと手を伸ばし白猫に威嚇される次官を横目に邵可はお茶を飲み干した。