冷たい指先



 蔀の向こうでは、すっかり葉を落とした木が寒そうに立っている。時折、鋭く冷たい風がびゅうと落ち葉を巻き上げた。
 邵可は冷たい指先を温かい茶で満たされた湯呑みで温める。
 邸内はしんと静まり返り、風の音ばかりが響いた。秀麗と静蘭が本格的な冬に向けて朝から買い出しに出掛けているからだろう。だが、それにしても静か過ぎるような気がする。
 邵可は低く銀児の名を呼ぶ。何かしらの雑事にかまけていなければ、銀児は常に邵可の側に控えている。家の中で人が動く気配はないから、普段であればすぐに銀児が現れる筈だった。

「……銀児?」

 姿は見えない。声も無い。どこかに出掛けたのだろうか。二人の買い出しに付き合っているのだろうか。主に断りもなく。
 有り得ない話だ。
 どうしたのだろうか、と考えを巡らせるも、ふとそんな自分が気恥ずかしくなって考えることをやめてしまった。
 茶器を卓上に置く。わざとカンと大きい音を響かせてみたが、邸内はしんと静まり返っている。邵可は静かに溜め息をついた。
 いかに銀児であろうと、たまには邵可に何も言わず出掛けることもあるだろう。何日も帰ってきていないわけではない。ほんの二三刻姿が見えないだけだ。

「……過保護だなあ」

 邵可はぽつりと呟き苦笑する。再び湯呑みを手にお茶を啜った。ひどく苦い。落ち着かなく茶器を置き、指を組んでは解きを繰り返す。
 邵可はゆるく首を振る。たまたま少しの間見かけないだけでこんなに落ち着かないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。
 其処にあるべき物がない喪失感。邵可の理性の奥底の、やわやわとした部分が落ち着かない。

 銀児とて年頃の娘である。逢い引きするのにわざわざ家主の許可をとることも無いだろう。
 そう考え、邵可はふと虚しさに襲われた。

 ――これは、何に対しての言い訳なのだろう

 邵可は唇の端に苦笑を刻む。
 そのとき、邸内の銀児の室の方から微かに物音が聞こえた。何か物を落としたような音だ。
 なんだ。いるんじゃないか。と安堵しつつ、邵可はなんとなくもやもやした気持ちを抱えて席を立つ。どうしてだか分からないが、銀児の顔が見たかった。
 居間にだけは火を入れているが、炭代も馬鹿にならないので廊下は寒いままだ。氷のように冷え切った板の廊下が軋む。吐く息が白い。
 銀児が使っている部屋は、ほとんど物置として使っていた部屋だ。使用人が使っていた部屋もあるにはあるのだが、四、五人用の大部屋だから一人で使うにはあまりに広い。銀児もそこを気に入っているらしい。

「銀児」

 返事は無い。だが、室内から衣擦れの音がする。

「入るよ」

 扉を開ける。見回す必要も無いほど狭い部屋だ。一瞬誰もいないとも思ったが、よくよく見れば寝台の上で布団を被った銀児が丸まっていた。こちらに背を向けていて様子をよく見ることが出来ない。
「おや、いたのかい。姿が見えないから心配したよ」
 銀児は「んん」と呻くように返事をした。邵可は首を傾げる。様子がおかしい。

「銀児?」

 寝台に手をかける。触れた肩が布越しにも熱いのが分かった。僅かにこちらを見上げた銀児の顔は赤く、瞳もひたひたと濡れたようになっている。

「銀児、体調が悪いのかい?」

 明らかに熱がある。体を持ち上げるのもだるいのだろう。銀児は丸まったまま首をふった。
 こんなに具合が悪そうなのに、自分に気を遣っているのだろうか。邵可は少しだけそれが気に入らない。自分はほんの短い時間でも銀児がいないことにあれほどまでに心乱されたというのに、銀児は体調を崩して不安な時でも自分を必要としていないなんて。そんな些細なことが、許せなかった。

 ふうん。と鼻を鳴らして邵可は眉を顰めた。銀児の態度も自身のうちに渦を巻く自分勝手な感情も、何もかもが気に入らない。
 邵可は小さな寝台に腰掛ける。古ぼけたそれは尻の下でぎしりと頼りなく軋んだ。
 銀児は邵可の淡い不機嫌を感じ取ったのか、気まずそうに掛け布の向こうに隠れてしまう。

「風邪かな、季節の変わり目だからね」
「……そうかもしれません」
「やっぱり具合が悪いんじゃないか」

 掛け布の向こうから、銀児がちらりと邵可を伺い見た。

「そんなことは――」

 邵可は銀児の掛け布を引き剥ぐ。寝台に投げ出された四肢がふるりと震えた。

「旦那様、」

 引き攣るように囁く声を無視して、邵可は銀児の熱を帯びた体を抱き寄せる。

「体調は悪くないんだろう?」

 銀児は困惑したように邵可を見上げ、己の体を抱きしめたが、すぐに諦めたようにくたりと脱力した。
 打ち捨てられた人形のような銀児を見て、邵可は自分の行いのあまりの馬鹿馬鹿しさに小さく笑う。低い笑い声を聞いた銀児は邵可の腕の中から邵可を見上げた。
 熱い体が浅い呼吸を繰り返しながら、邵可に寄りかかる。邵可は銀児の汗で貼りついた髪を払ってやり、額に手のひらを当てる。銀児は気持ちよさそうに目を細めた。
 すると銀児の方からすり寄ってきて、邵可の胸に頬を寄せる。緩慢な動作で邵可の着物の胸元をゆるく掴んだ。

「さむい」

 邵可は乱れた布団を整え、銀児の肩までかけてやる。

「……お粥でも作ろうか」

 誰に言うでもなくぽつんと呟くと邵可の腕の中の銀児の体が三寸ほど飛び上がったような気がした。
 あれほど緩慢だったのに、邵可の胸元にしがみついてぐずる子供のように首をふる。

「い、いいです……いらないです。……此処に居てください。お願いですから」

 目には涙が浮かんでいる。邵可は笑って、銀児の髪を撫でる。

「大丈夫。此処にいるよ」

 銀児は安心したように邵可の背に腕を回す。
 邵可は銀児の背を撫でた。銀児はくすぐったげに身を浮かせたる。着物の下に指を這わせると、熱を持った体が強張るのが分かった。冷えた指先に体温が流れ込んでくる。
 指先が滑らかな肌を伝う。時折引っかかるのは、消えることの無い古傷だろうか。傷をなぞると銀児は身を竦ませる。
 銀児は際立って小柄というわけでもない。だが貧相な体格のせいで、実際よりもずっと小さい印象を受ける。
 己の腕の中にいると、一層小さく見えた。
 安心したのか、すうすうと深い呼吸をはじめた銀児の頬を撫でる。

「おやすみ」

 閉じられかけた瞳が、邵可を見つけて笑んだ気がした。




******




 うとうとと、彼岸と此岸の狭間で感じたのは冷たい指先の心地よさ。おやすみ、とかけられた声の柔らかい響き。
 そして、粘性の強い水から引き上げられるように、ゆるやかに浮上する意識は、鼻をついた異臭のせいで唐突に覚醒した。

 銀児は暖かい布団を蹴飛ばし跳ね起きた。ぐらり、と目眩がする。眠る前より気分が良いとはいえ、まだまだ体調は悪い。

「だ、旦那様……」

 まさか、私を看病してくれようとしてはいないだろうか。
 銀児は痛む頭を抱える。勘弁して欲しい。よろめく足取りで扉へ向かい、廊下を覗き込む。開いた扉の隙間から、白い煙が室内に流れ込みそのあまりの臭いに銀児は慌てて扉を閉めた。

「ごぇ、げほげほっ!」

 異臭という言葉では生ぬるい。異物臭? 刺激臭? 怪臭? そんな単語が脳内を巡る。
 厨房は無事だろうか。と朧気な意識の端で考える。厨房大破などという事態になれば、静蘭に怒られるのは自分だ。静蘭は嫌いだ。静蘭に怒られるのはもっと嫌いだ。

 閉めたはずの扉が開かれて、そのひどい臭いとともに邵可が顔を覗かせた。寝台の上に座る銀児を見て邵可は優しく笑む。

「調子はどう? お粥を作ってみたのだけれど」

 眠る前より調子は良かったのですが、今を以て最悪になりました。銀児は邵可の持つ鍋に顔を青くする。臭いの源はあれだろうか。あれに違いない。

「随分具合が悪そうだったから、よく煮込んだんだよ」

 邵可は喜々とした様子で銀児に鍋の中身を見せた。真っ白の、それこそ純白のどろりとした粘物がそこに入っている。

「そしたらお米の粒も残らなくてね」

 人はそれを糊と呼ぶのだ。

「あ、でも、お米が無かったからお米は入れてないんだった」

 それは最早糊ですらない。というより粥からもかけ離れてはいまいか。

 うう、と言葉になりきれなかった言葉で返事をすると、邵可は布団にくるまる銀児を寝台に座らせた。
 それは、嬉しい。本来仕えるべき相手が、慣れぬ厨仕事をしてまで己の体調を気遣ってくれているのに、嬉しくないわけがない。
 匙で掬ったものが、得体の知れない粘物で無かったら、嬉しさのあまり死んでしまっていたかもしれない。
 銀児はなるべく息を吸わないようにして、唇を固く閉じた。だが、「ソレ」を掬った匙は容赦なく唇を濡らしてくる。
 涙すら浮かびそうな瞳で邵可を見上げた。それに邵可は優しげに目を細める。

「体に良いものがたくさん入っているんだよ」

 何が入っているというのだろうか。一体何をいれたらこんなに真っ白な食べ物が出来上がるのだろうか。これならばいっそ奇妙な色合いの食べ物を出された方がだ救われるというものだ。
 人一倍聡く、切れる男であるというのに、どうして自分が壊滅的に料理が出来ないことに気がつかないのだろうか。或いは、気付いていて自分に嫌がらせをしているのだろうか。

 長い時間息を止めていたせいで、銀児は無意識に深く息を吸ってしまった。まずい、と思った時には既にその臭いを脳が感じ取っていた。

 ――あれ?

 良い香りがする、のは、気のせいだろうか。柔らかな甘い香りがする。途端にお腹がきゅうと鳴った。
 いやいや、作成過程であれほどまでの異臭を放っていたのに。何やら色々な法則を無視している。
 それでも何を思ったのか、銀児は口を開けてしまった。熱のせいだ。そうに違いない

 匙が口の中へ侵入する。温かい粥――と呼んでいいものかはこの際頓着しないことにする――の味が口に広がる。

「あ、あれ、美味しい……?」

 銀児は二口目を口に含み、そして、

「ぐっ、うえぇ!」

 悶絶した。

 なんという時間差攻撃。
 金臭い? 生臭い? なんとなく、錆び付いた鉄をガリガリと噛み砕いたような味がする。もちろんそんなことをしたことはないが。
 飢えを凌ぐために多少悪くなったものも口にしてきたが、こんな味のものを食べたことはない。

 言葉を発することも出来ずに首をふる銀児に邵可は匙を差し出す。並々と注がれた粥のようなものが恨めしい。

「食べないと治らないよ」

 こんなものを食べたら治るものも治らない。しかし邵可は笑顔のまま容赦なく口内に粥のようなものを流し込んでくる。
 銀児はもう何もかも面倒くさくなって、脱力していた。というよりも意識を失いかけていた。
 こぼれた粥のようなものが唇を伝い胸元まで流れる。口内に止まった粥のようなものは、粒一つ残らない徹底的な煮込みのおかげで嚥下せずとも喉を滑り落ちる。

 そして結局、銀児は意識を失った。