君の匂い、月の香り



「旦那様、お嬢様がお夜食をご用意されたのでお持ちいたしました」

 銀児は書斎の外から、書物を広げているだろう主に声をかける。扉の中から「入りなさい」と答えがあったので、細く扉を開けて体を滑り込ませた。
 蔀から差す月の光と燭台の頼りない光が卓を照らしている。邵可はわずかに顔をあげた。

「そこに置いておいてくれるかい」

 銀児は無言で邵可の指差した先、卓の上に盆を置く。出来立ての粥からふうと湯気が立ち上る。

「それから、秀麗にもう眠るように言ってくれるかな」
「もうお休みになられています」

 そう、と邵可は再び手元に視線を落として文字を追う。銀児は何の気なしにその横顔を見つめていた。

「どうかした?」

 突然に声をかけられ、銀児は目を伏せた。

「せっかくお嬢様が作られたお粥が冷めてしまいます」

 取り繕うようにそう言うと、邵可はそうだねと書物から視線をあげた。

「おいで、銀児」

 邵可は銀児を招き寄せる。
 こういう呼び方をするとき、邵可は大抵ろくでもない事を考えているのだ。それを分かっているにも関わらず、銀児は促されるままに邵可に近付いた。
 粥を掬った匙を、邵可は銀児に向ける。銀児はたじろぎ動きを止めた。

「……旦那様?」
「秀麗が作った粥だ。美味しいよ」

 邵可の意図するところが読めずに銀児は戸惑う。だが、邵可は一向に匙を下ろす気配も無い。
 銀児は椅子に座る邵可に合わせて、その傍らに膝をついた。銀児はおずおずと口を開く。匙が迷いなく銀児の口に押し込まれた。
 予想以上の粥の熱さに銀児は盛大に咽た。鯉のように口をぱくぱくさせ、やっとのことで粥を飲み下す。喉元を熱い粥が滑り落ちる。
 舌先がひりひりと痛んだ。目にも涙が滲む。

「あ、熱かった? ごめんね」

 故意か否か、判別のつかぬ風に邵可は眉尻を下げた。

「いえ、平気です」

 銀児は熱で痺れたままの舌で答える。
 邵可は銀児を上向かせる。

「口を開けなさい」

 そう命じられ、銀児は首を横に振った。また熱い粥を押し込まれては堪らない。邵可は幼子を諭すように言う。

「口を開けなさい。舌を見てあげるから」

 銀児はおそるおそる口を開けた。邵可は咥内を覗き込む。なんとなく、嫌だった。恥ずかしい場所というわけでもないが、綺麗なわけでもない。弱味を晒している気がして落ち着かない。

「邵可様、もう、いいですか?」
「んー、よく見えないなぁ。舌、出して」

 銀児は震える舌を出す。
 邵可は銀児の舌をおもむろに指で挟み引っ張った。

「ふ、あ……」

 慣れぬ鈍い痛みと違和感に銀児の背筋に力が入る。邵可の親指がざらりと舌の表面を撫でた。
 ひりりと舌が痛む。
 溢れた唾液がぼたぼたと垂れ、邵可の衣に染みを作る。邵可の手が勝手に舌を弄び、蹂躙する。

「痛む?」

 銀児の答えを待たず邵可の顔が近付く。鼻先がぶつかるほどに近付くと、銀児の舌を舐めた。

「ひっ……!」

 ざらざらと引っかかるような妙な感覚に思わず銀児は上半身を引いたが、邵可に強く舌を引っ張られ押しとどめられる。
 口づけ、舌を絡めるでもなく、ただ舌を舐められるという行為の不可思議さに背筋が粟立った。

「しょうひゃひゃら、やら、やえれ」
「何を言ってるか分からないよ」

 紡いだ言葉に邵可は苦笑する。細められた瞳が意地の悪い光を湛えている。
 銀児は逃げ腰だった上半身を邵可に寄せて、唇を押し付けた。舌を絡め、唾液をすすり、邵可の乾いた唇を貪る。

「銀児」
「こっちの方が好きです」

 銀児が言うと、邵可は笑って銀児を抱き寄せた。
 いつも見上げている邵可を俯瞰に眺めて、銀児は優越感に舌なめずりした。
 いったい何人の人間がこうやって邵可を見下ろすことが出来るのか。腰に回される腕の暖かさに酔い痴れる。
 まるで普通の恋人同士のようだ。銀児は遠慮がちに邵可の頭を抱いてみる。髪紐を解くと、黒い髪がさらさらと流れて夜のようだった。

「邵可様」
「……うん?」

 銀児は邵可の髪に指を滑らせながらこめかみのあたりに頬を寄せた。ふ、と香の薫が鼻腔をくすぐる。
 銀児の優越感に影が落ちた。褐色の瞳を人知れずすがめる。

 その香が、亡き薔君の供養のために焚き上げられていることを、銀児は知っている。
 その髪に、体に、香が染み付くほどに、邵可は薔君を思っている。薔君も邵可を思っている。いや、思っていた。
 死なば終わりだ。骸は腐り、嫌な臭いを放ち、腐敗液を垂れ流す。土に還って、それで仕舞いだ。それ以上もそれ以下も無い。

 銀児は唇を噛む。邵可と薔君の繋がりを羨望の目で眺めるしかない。目に見えぬものなど信じられるものかと思えど、そこには確かに何かが在るのだ。
 銀児は邵可を求めずにいられない。それがいかに薄っぺらい関係かということなど、とうに分かっているにも関わらず。
 銀児は邵可の肩越しに、煌々と光る青白い月を睨む。

 銀児の袖口から細い造りの刀が滑り落ちた。銀児はそれを指先で摘んだ。邵可の頭の後ろに回した手でそれを弄ぶ。月の光を受けて刃が光る。血のにおいで全て消してしまおうか。多分それは一番有効で、一番虚しい。

「銀児」

 ちくりと脇腹が痛む。皮膚の上を氷が滑るような感触。脇腹を温い液体が伝う。

「はい」

 銀児は手の力を緩める。かん、と軽い音をたてて刀は床に落ちた。邵可は銀児の血がついた凶器を懐にしまい込む。

「何か欲しいものはある?」
「欲しいもの?」

 唐突な問いに銀児は首を傾げた。そう、欲しいもの。と邵可は銀児の背を撫で、ついで脇腹に触れた。痛みが走る。
 欲しいもの。銀児の脳裏にふと一つの考えが浮かんだが、それを笑って振り払う。

「では、それを」

 銀児は卓上の盆を示した。すっかり冷えた粥に添えられた果実の糖蜜漬けを指差す。

「これ?」

 邵可は小鉢を手にした。それを受け取ろうと手を伸ばしたが、すいと避けられる。

「はい」

 指先で摘まれた果実を差し出され、銀児は内心溜め息をつく。観念して唇でそれを受けようとすると、再びすいと避けられた。

 邵可は果実を手のひらの上に転がす。
 銀児は眉をひそめるが、邵可はただ笑ってその様子を眺めるばかりだ。

 銀児は視線を伏せて、邵可の手のひらに唇を寄せる。果実を啄み、糖蜜を舐める。
 邵可の手を汚す糖蜜を全て舐め終え、指の股を舐め指をしゃぶる。口内で糖蜜の甘味と手のひらの塩はゆさが混じり合った。
 銀児は邵可の余裕綽々の表情がわずかに揺らぐのをみとめて邵可の手を離す。

「それだけでいいの?」
「はい」

 銀児は笑う。口元を緩めるだけの拙い笑みが、薄暗闇でどれだけ通じたのかは分からない。

「無欲だね」
「まさか」

 銀児は邵可の体を服の上からなぞる。邵可が息をつめた。

「私も欲しいものがあるんだ」
「差し上げます」

 ふうと強く薫る匂いに目を閉じる。衣擦れの音だけが響く。肌寒い。

「邵可様」
「なんだい」
「私は誰よりも欲深いのです」

 邵可は笑った。

「知っているよ」