恋の妙薬



 道寺から帰ってきた秀麗が、ふうと悩ましげにため息をついた。それを聞いた静蘭はすかさず秀麗に声をかける。

「どうかしましたか、お嬢様」

 秀麗は困惑しきった様子で肩をすくめて見せた。

「静蘭、これ知ってる?」

 そう言うと、白と桃色の紙に包まれた黒い丸薬を指し示す。

「なんですか、これは」

 静蘭はその丸薬を摘んで眺めた。つるりと滑らかな表面が白く光を反射している。普通の丸薬に見えた。

 うん、と秀麗は小さく唸る。

「惚れ薬らしいわよ」
「惚れ薬?」

 静蘭は目を丸くした。

「惚れ薬というと、飲むと人を好きになってしまうということですか?」

 いかにも胡散臭そうに摘んだ丸薬を観察する。見たところ、腹痛の丸薬と何ら変わりがあるようには見えない。
 そう、と秀麗はため息をついた。

「そうなんだけど――あ、銀児」

 掃除の最中に顔を覗かせた銀児に秀麗は声をかける。

「ちょっと相談があるんだけど」

 銀児は二人が真剣な面持ちで顔を突き合わせているのを見て、不可思議そうに首を傾げた。

「銀児、惚れ薬の話を聞いたことあるかしら? 最近、町で流行ってるらしいの」
「いいえ、初めて聞きました」

 これがそうなのよ、と秀麗は指先で丸薬を転がすと頬杖をついた。

「この間、市が開かれたでしょう?」

 紫州では定期的に国中の商人が集まり大規模な市が開かれる。他州の名品や他国の珍品、果ては生活用品まで安価に手に入る便利な催しではあるのだが、それに便乗した素性の知れない行商人が、妙な商品を売っていることもある。

「そこでこの惚れ薬がちょっとした評判になって、一部の男女がこぞって買ったらしいのね。それで、道寺の女の子がお姉さんの買った惚れ薬を貰ってきたみたいで」

「はあ」

 静蘭は相槌をうつ。

「危険なものだと困るから預かってきたのよ。道寺の子達はみんな小さいし」

 秀麗は丸薬をぴんと弾いた。丸薬はころころと転がり、包み紙の縁にぶつかって止まる。

「なるほど……効くと評判ならば心配ですね」
「そうでしょ? 薬に頼って恋をするもんじゃないって注意はしたんだけど、遊びやおまじないのようなものなら強く禁止するのも野暮だろうし」

 どうしたものかと考え込む二人を後目に、銀児はぽつんと呟いた。

「飲んで試してみればいいのではないですか」

 二人ともその考えがないではないのだ。しかし、いざ飲めとなると後込みしてしまう。言葉に詰まる二人を見て、銀児は呆れたように口を開いた。

「要は毒でなければいいのでしょう?」
「で、でも銀児……」
「そうですね。命をとるような毒ではないことは分かっているんですし」
「ちょ、ちょっと静蘭!」

 秀麗の制止を笑顔でいなし、静蘭は銀児に丸薬を手渡す。銀児は静蘭の笑顔を胡乱気に睨んだ。

「ならばあなたが飲めばいいのでは?」
「私が飲んで“もしも”があったらどうするんですか。非力なあなたに私は止められませんが、私はあなたを押しとどめることが出来ます」

 非力、の言葉の皮肉げな響きに銀児はこめかみのあたりをひきつらせたが、静蘭はどこ吹く風である。銀児はふんと鼻を鳴らして、丸薬を口に放り込んだ。がり、と奥歯で噛み砕き、静蘭の湯呑みを奪い茶で流し込む。

「大丈夫……?」

 心配そうに秀麗が銀児の顔を覗き込んだ。銀児は口をつぐむ
 頭がぼんやりとする。はくはくと心臓が脈打つ。得体の知れない薬をよくよく確かめもせずに口にするなど、平和呆けしたものだ。あ、これは少しまずいかもしれない、と思う頃には意識はすっかりふわふわと混濁していた。

「銀児……? 銀児?」

 動かなくなった銀児を心配して秀麗は銀児の肩を揺さぶる。がくがくと抵抗なく揺れる体に、ぎょっとして秀麗は手を離した。

「大変!」

 静蘭もどうすべきか考えあぐねているようで、ただ立ち尽くしている。
 椅子に座り虚ろな視線を宙に浮かせる銀児と焦る二人がいる室に、邵可が顔を出して銀児に声をかけた。

「銀児、悪いけどお茶をいれてくれるかい」
「と、父様……」
「しょーかさま!」

 秀麗がこの状況をなんと説明すればいいか迷っていると、その深刻な空気をぶち壊す素っ頓狂な声が秀麗の思考を遮った。
 半ば裏返ったその声の張本人である銀児は、普段はひた隠しにしている裏渡世仕込みの素早さで邵可に真正面から抱きつく。

 もちろん、邵可はそれを避け封じることが出来る――事実、銀児の異様な様子に邵可の手は一瞬懐にのびかけた――のだが、秀麗と静蘭の手前そうも出来ず、甘んじてそれを受け止めた。室内の空気が凍てつく。
 それに構わず銀児はへにゃりと笑って邵可の胸に頬を擦り寄せた。

「しょーかさま、すき!」

 ふにゃふにゃと笑う銀児の頭を、邵可は冷や汗をたらしながら撫でた。

「……そうなんだ。ありがとう」

 口元がひきつっている。

「えっ? ええぇぇ!!」

 秀麗の甲高い悲鳴は遠く黄西区まで揺るがした。

「ちょ、ちょっ、ちょっと静蘭! めちゃくちゃ効いてるじゃない!」

 秀麗は半分涙目で静蘭の胸を叩く。

「しかも、よりによって何で父様なのよっ!」

 娘として自分の父親が他の女人、しかも自分とさして年の変わらぬ家人に言い寄られている光景を見るのは、なかなかどうして複雑である。
 更に、普段は仏頂面の上にぼそぼそと喋る銀児が、物凄い笑顔で甘ったるい声を出しているのは、失礼だが不気味である。

「いったいどうしたんだい」

 邵可は言いながらぐいと銀児を押しのける。銀児は引き剥がされまいと邵可にぎゅうと抱きつき、うふふと妙な笑い声をあげた。

「なんか、ふわふわする」

 目の焦点があっていない。何が面白いのか一人で笑っている。
 静蘭がおずおずと口を挟んだ。

「あ、あの、旦那様、これには理由が……」

 邵可は溜め息をつく。

「秀麗、静蘭、ちょっとそこに座りなさい」

 穏やかな語調に二人の表情がひきつった。

******

「で、こうなったと」

 秀麗と静蘭から事情を聞いて邵可はより一層深いため息をついた。

「得体の知れない薬を飲むなんて危ないだろう。どうせ銀児が考え無しに飲んだのだろうけど」
「……はい」

 お見通しであるようだ。

「でも、君も売り言葉に買い言葉で唆したんだろう、静蘭」
「……申し訳ございません」

 本当に全てお見通しである。

 呆れたような顔つきの邵可としょぼくれる二人をよそに、銀児は鼻歌まじりに邵可の傍らに寄り添っていた。秀麗はそれに心配と困惑の入り混じった視線を向ける。

「もとに戻るわよね、銀児」
「薬効がきれれば、多分ね」

 銀児は薬の包み紙を手にした。桃色と白の包み紙に見えたのは、桃色の包み紙と白の説明書きだったらしい。邵可はそれに目を走らせた。

「惚れ薬、ねえ……。一度に丸薬の四半分を意中の人の食べ物に混ぜ……」
「四半分!?」

 秀麗が悲鳴をあげる。

「一つ飲んでたわよね……」

 秀麗と静蘭は顔を見合わせた。

「本当に何をやっているんだい、君は」

 邵可は銀児の額をびしんと指で弾く。にも関わらず銀児はどこかへらへらと楽しげである。

「と、とにかく!」

 空気に耐えられなかったのか、静蘭が立ち上がり場を仕切った。

「どのような薬か分からない以上、効果が切れるのを待つしかありませんね!」
「そうだね、見たところ精神を高揚させる作用のある薬のようだし、少しすれば抜けるかな?」

 邵可の言葉に二人は安堵の息をつく。銀児がとんとんと邵可の胸を叩いた。

「しょーかさま! ちゅーしてください!」
「そっ……え?」
「ちゅー、だめ?」
「……だめだねえ」

 邵可の表情が強張る。静蘭が銀児の襟首を掴み、ぐいと引きずりおろした。

「おまえ、いい加減にしろ! 無礼だぞ!」
「銀児! 考え直して! 父様よ? 正気に帰った時に後悔するわよ!!」

 必死な表情で銀児を説得する秀麗に、邵可は眉尻を下げた。

「秀麗……そこまで言われると私も少し悲しいよ」

 続いて静蘭も反論する。

「そうですよ、お嬢様! 旦那様の貞操の危機です!」
「いや、貞操って、君……」

 四十の寡男に果たして貞操の二文字は適切なのか。
 三人の言い争いを眺めて銀児は何が楽しいのかきゃらきゃらと笑っていた。

「ええい、笑わないでください! 気持ち悪い!」

 誰もが思っていたが、誰も言えなかった言葉を静蘭が突きつける。
 銀児の笑い声がぴたりとやんだ。

「まったく、やっと正気に戻りましたか……」
「んー、じゃあ、せいらんでいいや」
「は?」

 がば、と首に腕を回され静蘭はのけぞった。目の前に緩みきった表情の銀児の顔がある。

「ちゅーしよ」
「い゛ぃっ! 駄目だ! 嫌だ! ふざけるな!」
「ははは、あはははははは」
「は、な、せ!」

 非力な銀児ならば押さえつけられる、と言ったはずが、迫る銀児の力はなかなかに強い。
 一瞬銀児の体が離れたことに油断すると、蛇のような素早さで両腕を絡めとられた。
 銀児は邪気の無い笑顔で静蘭に顔を寄せる。

 細い指先が襟元を滑り、白い髪が頬をくすぐる。女の肌の不思議と甘い香りが鼻孔をかすめ、静蘭はほんの少しだけ「このまま口付けられてもいいかもしれない」と思った。ほんの少しだけ、だ。

「はい、それまで」

 銀児の背後から邵可が銀児の口を掌で塞ぐ。ぐいと邵可に引き寄せられた銀児は、邵可を目にするとやはり邵可にすり寄った。

「やっぱり、しょーかさまがいい」
「ああ、はいはい」

 邵可はうんざりしたように投げやりに返事をする。一方直前でお預けを喰らった――もとい、窮地を脱した静蘭は呆然とその様を見ていたが、どこかがっかりしている自分に無性に腹をたてていた。

「旦那様、銀児をそのまま押さえていてください」

 言うやいなや銀児の鳩尾に容赦ない正拳突きを見舞う。
 がくりと昏倒した銀児を邵可が慌てて支えた。

「正気に返るまで寝ていなさい」
「せ、静蘭……」

 怖いわよ。据わった目で宣言する静蘭にそう伝える勇気は、秀麗には無かった。

「秀麗、銀児を室に寝かせるから、寝台を整えて来てくれるかい?」
「分かったわ、父様」

 ぱたぱたと駆けていく秀麗の後ろ姿を見て、静蘭はぐったりと脱力した。

「静蘭、君、銀児に口付けられてもいいとちょっと思っただろう?」

 突然邵可にそう言われ、静蘭は否定出来ずに表情を歪めた。

「旦那様こそ、銀児にせまられてまんざらでもない顔をしていましたよ」

 邵可は苦笑する。

「男って悲しい生き物だよね」
「まったくです」

 眠る銀児の顔を眺めて、二人は苦々しく溜め息をついた。

******

 昼の喧騒はどこへやら、しんと静まり返った夜の空気を邵可は浅く吸い込んだ。
 こつ、こつ、と何者かが蔀戸を叩く。その相手に覚えのある邵可は、眉を顰めながらも蔀戸を開けた。

「黎深、明日の朝、正面から入ったらいいだろう。それが出来ないなら、誰か他の人に頼みなさい」

 それを聞いた黎深は扇をぱらりと開くと、ぶすくれた顔を隠した。

「いいえ、今日こそは兄上に申し上げたいことがあります」
「そんなことより、薬の原料は分かったのかい?」

 そんなこと、と言われた黎深は軽く落ち込むが、その程度ではへこたれない。襤褸邸にそぐわない上等な着物をたくしあげ、蔀を乗り越えた。

「白州と黒州の境にある山で採集されるワタハキダケを乾燥して固めたものでしたよ」

 ワタハキダケ。邵可は小さく繰り返す。食べると異常な興奮状態に陥り、はらわたを吐くほどに笑うためにワタハキダケと呼ばれる。有り体に言えば毒茸である。
 混ぜ物をして効果を薄め、興奮状態で快楽を得る薬として白州黒州の破落戸連中がよく使っていると聞く。

「後遺症は無いんだろう?」
「ありません」

 黎深はどこか忌々しげに答えた。

「兄上、私には理解出来ません。何故あのような者を傍に置いて、このように心を砕かれるのですか?」

 膝の上の扇が握りしめられた。

「なぜ、あの女なのです」

 そう問われた邵可は僅かに苦笑いする。
 邵可の笑顔の奥、腹の底の、黎深ですら立ち入ることを禁じられた場所に、あの女はするりと居ついている。

「私にも分からない。どうして銀児なんだろう」

 その時、きいと控えめに室の戸が開いた。
 静かに室内に滑り込んで来たのは、銀児であった。手には盆が掲げられている。

「お茶をお持ちしました」

 宵の薄暗闇に白い湯気がただよう。

「夜にお茶っていうのもねぇ……」

 邵可は「なんだかね」と笑う。銀児は困ったように首を傾げた。

「……お水にいたしますか?」
「うん、まあ、お茶以外無いんだけど」

 ついと邵可は銀児を手招いた。銀児は一瞬黎深の方へ視線を向け、はばかるような素振りを見せたが大人しく従う。

「体の調子はどう?」
「もう平気です」
「嘘だ、ふらついているよ」

 寝てなきゃ駄目じゃないか、と優しげに声をかけられる銀児を、黎深は苦々しげに睨みつけた。

「おい、それをよこせ」

 銀児が持っていた茶道具の載った盆をひったくるように乱暴に奪うと、黎深は手ずから茶を淹れる。
 邵可の前と自分の前に茶碗を据え、銀児に盆を突っ返した。

「おまえの仕事は終わりだ。さっさと消えろ」

 邪険な扱いにも思うところが無いかのように、銀児は盆を受け取り後ずさる。

「黎深、君が銀児を嫌うのも分からなくはないけど、あんまり銀児をいじめるんじゃない」

 銀児を虐めていいのは自分だけだ。と、邵可がそう思っているかどうかは分からないが、そう言われたような気がして黎深はそっぽを向く。
 邵可はそんな黎深の様子に溜め息をつくと、自分の茶器と黎深の茶器を取り替えた。

「それからね、黎深。言っておくけど私には薬が効かないよ」

 そう言うと邵可は、もとは黎深の前にあった茶を飲み干した。

「君が茶を淹れた時に私の茶碗に薬を混ぜたの、気付かれないとでも思ったの?」

 黙ったきりの黎深と呆れた顔つきの邵可に挟まれ、銀児はすっかり室を出る時機を逃していた。
 黎深は卓を両手で叩くと銀児をびしりと指差した。

「羨ましいぞ貴様! あ、あんなに堂々と兄上にべたべたして! 私だって兄上にべたべたしたい! あわよくばべたべたされたい!」

 ふぅふぅと息も荒く言い放った黎深に、銀児は目を丸くし邵可は額を押さえる。

「べたべた……?」
「しらを切る気か! 影から報告は受けているぞ!」

 銀児は邵可に助けを求める視線を送る。邵可は黎深を無視して銀児に尋ねた。

「覚えてないの?」
「やたらと愉快な気分になって……うっすらと覚えているような、いないような……」
「じゃあ、静蘭を襲ったことも覚えていない?」
「おそう?」
「口付けをねだっていたけど」
「そ――」

 真っ青になって今にも倒れそうな銀児に、邵可は苦笑いを零す。

「ほら、黎深。覚えてないなら意味が無いだろう。それに、仮に私に効いたとしても、あれは惚れ薬ではなくてただの興奮剤だから、君にべたべたしたりしないよ」
「……それは私のことが別に好きではないということですか?」
「弟としては愛しているよ」

 黎深はがっくりとうなだれる。かと思うと残った茶碗を親の仇とばかりにひっつかみ、一息に飲み干した。

「れ、黎深?」

 この茶碗にはワタハキダケの粉末が混ぜてある。それを黎深は飲んでしまった。
 その効果のほどを邵可は身を以て知っている。

「兄上が飲まないのなら、私が飲みます!」
「なんて馬鹿なことを……」

 いかに毒の効きにくい黎深とはいえ、遠く白州、黒州の茸に耐性は無いのだろう。鳶色の瞳の焦点がずれる。

「あ、あにうえ!」

 いつかの誰かによく似た壊れ方で、黎深は邵可に飛びついてきた。
 ふらふらの黎深を避けて、怪我でもされたら堪らない。と情けをかけたのが運の尽きである。黎深は邵可にがっちりと抱きついた。

「あにうえ!お茶を煎れてください! それから琵琶も聞きたいです!」
「とりあえず離しなさい!」
「いやです! あにうえ! だいすきです!」

 邵可の背後から女の腕が回される。

「ご、ごめん銀児。黎深を眠らせるのを――」

 手伝ってくれないか。と言う前にその腕がぎゅうと邵可を背後から抱き締めた。

「銀児?」

 邵可の体を挟み、二人は睨み合う。

「あにうえ!」

 喚く黎深を銀児はじとりと睨む。邵可を抱き締める腕に力が入った。どうやらいらないところで対抗心を燃やしてしまっているようだ。まだ薬がきれていないのではないか。
 この状況をなんと呼ぼうか。四面楚歌。前門の虎後門の狼。とにかく両手に花でないことは確かである。
 静蘭の「貞操の危機」という言葉が今さら頭の中を駆け巡り、悪寒に襲われる。

「二人とも離れなさい!」

 こうして夜も賑やかに更ける。