君、或いは毒花




 邵可は年の離れたその人にどうしようもなく惹かれていた。それは恋かと問われれば、否と首を振るだろう。それは愛かと問われれば、首を傾げるだろう。邵可が愛しているのは、亡き妻と娘、それから数えられる程の周囲の人々だけだ。
 しかし、邵可は確実に銀児に心を蝕まれていた。先の恋のように、抑え切れぬ激しい恋情ではない。抑えた指の隙間から、じわりじわりと染み出る毒液の如き感情をいまだかつて邵可は知らなかった。


 春の麗らかな日差しの下で、銀児は掃除の手を止めた。
 一通りの家事は仕込まれているらしいが、得意ではないらしい。幼い秀麗にあれこれ指図されながら、毎日黙々と働いている。兇手なのだということを忘れそうになる。

 花の香が混じる春の風に銀児の髪が靡いた。荒れたままの邵可邸に花は無く、花の香も隣家の見事な白梅の香であることは明白である。
 茶と申し訳程度の緑だけの庭に銀児が一人佇むのに、邵可は何か言いようのないそわそわとした不安を覚えた。
 生にすら執着していないような、諦めにもにた雰囲気を漂わせ、実のところ誰より貪欲な銀児はきっと自分によく似ている。似ているからこそ、愛おしくて、憎い。
 枯れた容貌に苛烈な感情の高ぶりを内包する銀児が、邵可の薔君への執着がうっすらと渦巻く庭園に佇む様は、はまりすぎていて気持ちの良いものではない。己の執着の醜さを突き付けられているようだ。
 妻のその高潔さと強さに一目惚れした自分が、血腥い人殺しを気に入るなど青天の霹靂もいいところである。いくら好人物を気取っても、所詮自分も血腥い人殺しか、と内心自嘲しあまりに笑えない皮肉に唇を歪めた。

 その背に歩み寄り、銀児の視線を追う。春らしい薄い青の空に、白い羽を羽ばたかせ紋白蝶がヒラヒラと飛んでいた。

「春だね」

 声をかけると銀児はゆるりと振り向いた。

「そうですね」

 酷く無感動に聞こえる声に邵可は眉をひそめる。何度も言っているけど、と銀児の肩に触れる。

「もう少し、愛想のいい話し方を覚えなければね」

 銀児は僅かに目を伏せた。淡い褐色の瞳を縁取る睫毛が微かに震える。
 あ、と銀児は小さな声を漏らした。空を舞っていた紋白蝶は、はらはらと白い鱗粉を撒き散らし、雀の嘴の先で必死に羽をばたつかせている。
 抵抗虚しく蝶の羽は、裂かれ毟られて地に落ちた。雀は数度頭を揺すり、蝶の胴体を飲み込む。

「いいね?」

 俯きがちに、銀児ははいと答えた。
 その犬のように従順な態度に背筋がぞわぞわと粟立つ。

 獣は――黒い狼は死んだ筈だ。

 邵可は銀児のうなじを見つめる。
 娘の秀麗も王位争いで成長期に十分な栄養を取れなかったせいか細く華奢であるが、銀児も輪をかけて痩せている。
 見つめるうなじは頸骨が数えられそうなほどに肉が薄い。貸し与えた静蘭の古着の中で、白い身体が泳ぐ。ただ筋っぽい靭やかな手脚だけは、力強さを感じさせた。
 白い髪がかかる白い頬、鎖骨が淡く陰影をつくる白い胸元。
 邵可は銀児との邂逅を思い出す。

******

 秋だというのに茶州の山中にはうっすらと雪が積もっていた。倒れ伏す第二公子と、血の赤。
 邵可は自身の大誤算に内心舌打ちをした。誤算の一つ目は、公子の発見が大幅に遅れたこと。二つ目は、発見が遅れたために公子に追っ手がかかったことだ。
 おそらくは、先の殺刃賊の混乱に乗じて公子を亡きものに、或いは手中におさめようとしたのだろう。
 邵可は藪に隠れる男の背後に忍び寄り、左手で男の口を塞ぎ右手の刀で側頸部を掻き切る。
 男はかすかな呻き声を最後に事切れた。邵可は骸を隠し、あたりを窺う。妻と娘を連れていたのは失策であった。どこの手の者か問い詰めたいところであるが、今は妻子の安全を確保するのが先決である。
 視界の端を紫銀がよぎる。邵可は息を潜めてそちらへ足を向けた。

 血と泥にまみれ、公子の面影は最早見つけられない程に窶れた公子の脈をとる。生きていることを確認して、邵可は安堵の溜め息をついた。
 息を吐ききらないうちに、雪に覆われた藪の中から物音を聞いた。邵可は顔を動かさずにそちらを見る。

 息をするのも憚られるような静寂が一瞬揺らぐ。
 邵可は刀を構え、一息に地を蹴った。一拍遅れて藪から小さな人影が飛び出す。

 ――子供か?

 邵可はとっさに雪を踏みしめ、人影の頸を狙っていた刃の軌道を無理矢理ずらす。ぱ、と血飛沫が雪を汚した。
 その小さな体が雪の上を転がる。子供、しかも少女である。下手をすれば十にも満たない小さな子供が、凶器を片手に邵可を睨み上げた。
 幼い唇から、ひゅうと吐息が漏れる。肩から胸にかけて薄く切られた傷口から、血が流れては雪を溶かしていた。

 刀を下ろした邵可の背後にふいに男が踊りかかる。邵可は眉一つ動かすことなく、振り向きざまに男を切り捨てた。
 邵可は眉をひそめる。血腥い戦場に似合わぬ少女の役割が、囮であると気付いたからだ。
 褐色の瞳が邵可を見つめる。色を失った唇が、一言「黒狼」と呟いた。

 邵可は目を細めて、刃をおさめる。先代黒狼の望みを思い出して、深い憤りを覚えた。何に対しての憤りかはよく分からない。そんな世の中を変えられなかった自分に対してであったら、あまりに傲慢だろうか。
 邵可はこんな小さな子供に何が出来る、と自身に言い訳をして踵を返した。

「殺さないの?」

 あどけない唇が、物騒な台詞を吐き出した。邵可は唇を噛み締める。

「死にたいの?」

 自分でも驚くほどに冷たい声が出た。少女は怯えたようにあとずさるが、小さな手には大きすぎる小刀を下ろさずに邵可をじっと見つめていた。欠片も似てはいないのに、その顔に秀麗の顔が重なった。

「次は、ないよ」

 だから、こんなことはやめなさい。そう言外に含ませるも、幼い少女に理解できないであろうことは分かっていた。
 おそらく、拠り所のない子供であるのだ。こんなことでもしなければ、日々の糧にもありつけないのだろう。それが分かっている邵可には、こんなことはやめろと強く言うことが出来なかった。

「行け」

 一言そう吐き捨てると、少女は肩を震わせた。
 少女はちらりと公子に視線をやると、傷を庇うようにしながら立ち上がった。よろめきながらも遠ざかって行く背を見送る。
 やがてその姿も見えなくなった。邵可は返り血を浴びていないことをしつこく確認して、少女の傷口から溢れ出した血の跡を雪を被せて隠す。
 背後から妻と娘の乗る馬車の音が聞こえた。





「旦那様」

 銀児が黙り込んだ邵可の顔を訝しげに覗き込んだ。

 今まで銀児が何処で何をしていたのか、何故霄太師のもとへ居たのか、邵可は知らない。少女は年頃となって邵可のもとに再び現れた。
 銀児は歪な欲情を孕んだ瞳で邵可を見る。その理由すら、邵可には分からない。銀児にとって、自分は仇であるはずだ。だが、その視線が嫌ではなかった。

 邵可は銀児の瞳を見返して微笑みかける。銀児は一瞬目を見開き、次いで目を伏せた。

「なんでもないよ。秀麗を迎えに行ってくれるかい?」

 王位争いから二年経った。十になった秀麗は、花街で算盤を弾いている。
 実際、幼い娘がそこまでせねばならない程に逼迫しているわけではない。しかし秀麗がそうしたいのならば、邵可には止めるつもりがさらさら無かった。
 胡蝶とは懇意の仲であるから、妓楼の中にいれば安全である。行き帰りは銀児を付き添わせていた。
 邵可にさえ花街での賃仕事を黙っている秀麗は、銀児にだけは全てを話していた。二人が特別に仲が良いわけではない。むしろ逆である。
 銀児は静蘭とは違い、家付きの使用人に徹していた。秀麗にとって銀児は家人以外の何者でもない。気をつかう必要は無いし、銀児が誰かに秘密をばらすなどということは思いつきもしないだろう。
 そういう意味では、銀児は優秀な間者である。だが人としては何かが欠落している。

 銀児は小さく首肯し、一歩下がる。

「なるべく早く、ね」

 掠れる声でそう言って、邵可は乾いた唇を舐めた。




******

 日も傾きはじめた晴れた午後に、胡蝶は欠伸まじりに往来を見下ろした。
 妓楼の朱の格子越しに見る昼の花街は、夜のどこか癇癪めいた喧騒を忘れたように静かである。

 王位争いの頃は、嫦娥楼と言えども営業が難しかった。何しろ貴陽が丸々戦場だったといっても過言ではないほどの荒れようであったのだ。
 稼ぎ頭の女達は有り金をかき集めて他州へ逃げ、またある女達は貴族に身請けされて貴陽を去った。

 若く美しい胡蝶である。身請け先くらいあったが、そうしなかったのは偏に嫦娥楼の主に恩義があったからだ。義理堅い胡蝶は、困り果てた主人を見捨てることを潔しとしなかった。

 あれから二年。王も定まり貴陽も復興しつつある。徐々に人を取り戻す嫦娥楼で、胡蝶は若輩ながらも女達の頂点として君臨していた。

 胡蝶は小女に用意させた茉莉花茶を香り、口に含む。華やかな香が口の中に広がった。
 夜に比べればまばらな人通りに見覚えのある姿を捉え、胡蝶は顎をついとあげる。半端な長さの白髪と丈のあわない着物の、あれは紅家の家人の一人である。
 驚いたことに紅家の子女が家に内緒で妓楼の賃仕事をしているのだ。――尤も、内緒だと思っているのは本人ばかりであるのだが。

 幸せなことである。貧乏とはいえ帰る家と愛してくれる人間を持っている。王位争いでそれら全てを失った少女が、この街には掃いて捨てるほどに居た。
 中には暗くなる前に家へ帰る秀麗をやっかむ者も居たが、胡蝶のように秀麗の邪気無い笑顔に癒されている者も多い。

 弱い風になびく白い髪を遠目に眺める。妙な家人である。妙といえば、もう一人の静蘭という家人も妙である。家人という割には所作が垢抜け、顔立ちにも気品が漂う。
 しかし、あの銀児という家人はその中でさえ異質である。存在感のひどく希薄な娘だ。指先にも睫毛にも心の臓にさえ意志の宿っていないかのような。
 だが数多の人間を見てきた胡蝶には分かる。その白い面の向こうに隠されているのは、獰猛なまでの餓えだ。きっと自分が何を求めているのかすら、分かっていないに違いない。

 胡蝶は上着をゆるりと纏い、表へ向かう。秀麗と寝食を共にしながら冗談とも思える程に対極に位置する銀児に単純に興味があったのだ。
 結わない髪が春風をはらむ。首筋にまとわりつく髪を払い、階段を踏みしめた。

 胡蝶はめったに足を踏み入れない路地に通じる裏口で銀児は秀麗を待っていた。銀児は少しも動じた様子も見せずに頭をたれる。

「ご苦労だこと。箱入り娘のお出迎えかい」

 胡蝶は軽やかな笑い声と共に声をかけた。銀児は肯定も否定もせずに俯く。

「あんた、どういう経緯で紅家に?」

 単刀直入にそう問う。銀児は薄く唇を開いて「紹介で」と答えた。特徴も抑揚もない声だ。ふぅん、と胡蝶は鼻を鳴らす。

「割に合わないんじゃないかい」

 給金すらままならないような家に仕えて何になると言うのだろうか。しかも家人が少ないから、必然的に一人分の仕事は多い。

「あの綺麗な顔の家人に惚れてるとか」
「いえ」

 陶磁器じみた無表情が歪められた。案外図星かと思い、からかい半分に「そう。じゃあ御主人様の方かい?」と笑う。
 冷たい印象を受ける眦がひくりと震えた。「いえ」先と同じようにそう答える。
 感情を伺わせない声音だった。
 胡蝶の唇は笑みを形作る。

「いやになったら、私にお言い。口利きくらいはしてあげるよ」

 とん、と銀児の薄い胸元を白くしなやかな指先で突き、胡蝶はその褐色の瞳を窺い見た。
 はったり半分の胡蝶の言葉に銀児は何も言わなかった。無礼なと怒るわけでも青褪めるわけでもなく、硝子のような瞳で胡蝶を見るだけだ。
 そこに秀麗がどこかこそこそとした動作で顔を覗かせる。父親に隠れての賃仕事は、やはり後ろめたいのだろう。

「あれ、胡蝶姐さん」

 くるりと丸い目に見上げられ、胡蝶はそれに笑み返した。

「ほら、夕食の時間なんだろう」

 早く帰りな、と促すと秀麗は思い出したように路地裏に飛び出した。銀児は胡蝶に会釈し秀麗の後を追う。

 結局、真意の程はよく分からないままであった。胡蝶は後ろ姿を見やり、その麗しい顔を僅かに歪めた。