凍えた影が夢見るもの



一、

「おう、銀児、饅頭食うか?饅頭」

 まるで犬でも呼び寄せるように饅頭をかざされて、銀児はほんの少しだけむっとした。それは面に出さず、黙って首を振る。
 饅頭を持つ男――浪燕青は、少しも気分を害した風も無くからりと笑った。

「そう言うなって。おまえ、もっと食った方がいいぞ。顔色が悪い」

 言って、燕青は外廊の欄干にもたれていた銀児に歩み寄った。骨張った手に半ば無理矢理、饅頭を握らせる。銀児は手の中の饅頭を見下ろした。
 燕青は饅頭を見つめて俯く銀児の髪を掻き回す。

「よし、たんと食えよ」
「……はあ」

 上目に燕青を窺う銀児に、燕青は何を思ったのかうんうんと頷く。

 門前に行き倒れていたというこの髭面の大男は、何かと銀児に声をかけてきた。社交的なたちなのだろう。打てども響かぬ己に話しかけて何が楽しいのか、とお世辞にも社交的とは言い難い銀児は思う。
 毎日外朝でこき使われて秀麗でさえへとへとであるというのに、燕青は変わらぬ笑顔で銀児の傍らに腰掛けた。

「あんたも、邵可さんに拾われたんだよな?」
「……も?」
「ほら、静蘭もそうだろ?」

 ああ、と銀児は唸る。そういえば、燕青と静蘭は旧知の仲であったと聞く。

「ええ、そうです」

 へえ、と燕青は声をあげる。どこからともなくもう一つ饅頭を取り出し頬張ると、銀児にも饅頭を食べるように促した。

「茶州の出なんだろ? 俺もなんだよ。茶州のどこ?」

 銀児はきめ細かな饅頭の表面を眺める。本当はそんなものを見てはいないのだが。

「狗穴」

 狗穴というのは地名ではない。茶州郊外の貧民街を侮蔑した呼び方だ。貧しい茶州だが、中でも狗穴はおおよそ人間の住むところではない。
 茶州の人間にとって、狗穴とそこの住人は鬼や妖よりよほど恐ろしいのだ。

「ああ、そうか……」

 痛ましげに目を細めた燕青に、銀児は肩をすくめた。
 出自を偽るか濁すか迷ったが、そうしたところでいずれぼろが出るだろう。ならば正直に言ってしまった方が良い。

「あそこはマシになりましたか?」

 戯れにそう聞けば、燕青は眉をひそめる。

「マシには程遠いな」

 収入源も無く、その上わずかな富を一部が独占するような茶州のやり方が変わらない限り、狗穴は人々の恐怖と侮蔑の対象であり続けるのだろう。

「茶州に帰りたいと思ったことは、一度も無いのです」

 銀児は言う。燕青は辛そうに眉をひそめて銀児を見た。
 つん、と鼻の先を何かよぎる。郷愁なのだろうか。銀児にはよく分からなかった。




二、

「よう!」

 燕青は変わらず銀児に声をかけ続けていた。銀児は掃除をしていた手を止める。

「……こんにちは」

 話しかけられても無反応だった銀児に「せめて挨拶はするもんだ」と諭したのは燕青だ。口の中で呟くように挨拶をした銀児に、燕青はにこりと笑った。
 笑いながら、銀児に椀を差し出す。

「外朝からくすねた栗金団でーす」

 粗末な木の椀に似つかわしくない、黄金色に照る大きな栗が眩しい。そう近付いてもいないというのに、強く甘い香りがした。
 きゅう、と胃が締め付けられたようになる。口中に唾液が溢れた。

「四つあるから、二個ずつな」

 燕青はそう言って、無造作に椀へ指を入れた。滑らかな栗餡が燕青の指で形を変える。
 本来であれば、外朝で貴人達に飴色に輝く高価な箸でつままれていただろう栗金団が燕青の武骨な手に掬われていく。その光景にひどくそそられた。
 燕青に倣い、銀児も大きな栗を一つ手にする。ずしりと重い栗を一口かじる。ほんの一口で口いっぱいに甘味が広がった。

「お偉方ったら、良いもの食ってやがる」

 早くも二つ目に手を伸ばす燕青は、茶化すようにそう言った。
 燕青は、銀児の手がなかなか二つ目に伸びないのを見て、首を傾げる。

「どうした、遠慮すんなよ。あ、もしかして、栗は嫌いか?」
「いえ」

 銀児は慌てて首を振った。口内に残っていた栗を飲み下す。

「……昔、大きな商人の邸で下働きをしていた頃があったのですが」

 ぽつり、と銀児は言った。言ってから、しまった、と思う。だが、真剣な様子で聞き入る燕青を見れば、話を投げるわけにもいかなかった。

「……そこでつまみ食いした栗金団が、すごく美味しくて」

 大きな鉢に山と盛られた黄金色の栗金団は、幼い銀児には宝の山にも見えた。手にほんの少しつけた餡を舐めると、突き抜けるような甘味にくらくらとした。
 何より、家人の目を盗んでのその行為は刺激的であった。

「栗金団を食べていると、何か悪いことをした気分になります」

 それを聞いた燕青はからからと笑った。銀児は少し頬を赤くして燕青を睨む。

「笑わないでください」
「や、わりぃわりぃ。栗金団は背徳の味なんだな」

 陳腐な艶本の題のようである。銀児もわずかに苦笑した。

「お、笑うんだな。銀児も」

 燕青はしげしげと銀児の顔を覗き込み、意外そうな顔をした。

「……駄目ですか?」
「いや、駄目じゃねぇよ。可愛い可愛い」

 屈託無く言い切る燕青に、銀児は気まずくて鼻を鳴らした。指についた餡を舐めとる。
 ちらり、と胸の奥で何か違和感が閃いた。


 

三、

「でさー、その仮面尚書がマジ鬼畜でさぁ」
「はぁ」
「こーんな量の書簡は運ばされるし」
「へぇ」
「ちょっと失敗するとこれでもかってほど詰られるし」
「ふぅん」

 たたたたた、と規則正しく包丁がまな板を叩く音に、燕青は苦笑いした。

「聞いてる?」
「あまり」
「……あ、そお」

 ざあ、と銀児はまな板上の根菜を鍋にあける。

「夕餉はまだですよ」

 燕青はがくりと肩を落とす。竈に息を吹き込む銀児の背をつつくと、銀児は鬱陶しげに眉をひそめて燕青の方を見た。

「……なんです」

 振り向いた銀児に、燕青はにやにやと笑う。あのさ、と上機嫌に銀児に視線を合わせた。

「甘いもの、好きだろ?」
「はい」
「明日休みだからさ。甘味屋行こうぜ、甘味屋」

 銀児はむすりと仏頂面のまま、火吹き竹を置く。

「行ってらっしゃいませ、燕青様。お早いお帰りをお待ちしております」
「おまえと行くの!」

 一緒に! と燕青は頭を掻いた。

「男一人で甘味屋とか恥ずかしすぎんだろ」
「そんなことはありません」
「ある! 男心が分かんないやつだな!」

 押し切れぬと悟った銀児は、困惑気に表情を歪める。

「……困ります」
「そうか、わりぃ」

 あっさりと引き下がる燕青に、銀児は拍子抜けした。
 あーあ、ふられちまった。と燕青は苦笑すると、腰掛けていた卓から飛び降りる。

「ま、気が向いたら一緒に行こうな」

 憮然と睨みつける銀児の視線を背中に感じながら、燕青は廚を後にする。廚から一歩出た途端、にこりと笑う静蘭に燕青は包丁を突きつけられた。

「え、ちょ、何!?」
「来い! このたらしが!」
「た、たらし!?」

 ぎりぎりと耳を引っ張られ、燕青は一回りは体の小さい静蘭に引きずられていく。

「うちの家人を口説くのはやめて貰おうか」

 やっと解放された千切れそうな耳を撫でながら、燕青は眉尻を下げる。

「いーじゃん別に。あ、まさか静蘭も?」
「カスが。そんなわけあるか。あいつがいなくなるとお嬢様の負担が増えるんだ」
「カスっておまえ……」

 げそりと息を吐く燕青に静蘭は鼻を鳴らした。

「だってさ、可愛いじゃん」
「何が?」
「銀児が。話の流れ的にそうだろ――おい、なんだよその顔」

 元公子にあるまじき表情で、静蘭は燕青を見下ろし、深い深い溜め息をついた。

「おまえは相変わらず駄目女に弱いな」

 燕青は肩を落とす。
 別に弱いわけではない。ただ、自分がいなければ駄目になりそうな女にどうしようもなく惹かれるのだ。――人はそれを「弱い」と言うのだが。

「まあ……ね。じゃなきゃおまえと一緒になんか居なかったよ」
「……なんだ?」
「なんも」

 燕青は笑う。

「おまえは相変わらず女の理想が高すぎんだよ」
「生憎とな」

 顔を見合わせ、二人は静かに笑いあった。




四、

 くつくつと煮立つ鍋をぼんやりと眺めながら、銀児は表情を歪めた。
 普段あまり変わることの無い表情は、燕青が邵可邸に逗留してこちら、自分でも驚くほどに変わる。微細ではあるのだが。
 好い男だと思う。快活で、それでいて非常に細やかに心配りが出来る。自分とはまるで正反対だ。
 何より、彼の隣は暖かかった。髭面の下の明るい瞳が楽しげに細められるのを見ると、何か心がゆるりと満たされる。

 自意識過剰でなければ、燕青が何らかの興味を自分に抱いているのは確かであった。茶州からの旅人だというから、かつての同胞の残党かもしれない。それならばそれで、まだましだ。
 男に口説かれたことが無いわけではない。それでも銀児とて女であるから、好感を持つ男に可愛いと言われて誘いを受けるのに、悪い気はしない。

 ――これは裏切りなのだろうか

 銀児の脳裏に閃いたのは、ただ一人の男の顔だった。銀児は陰鬱とした気分で目を伏せる。
 違う。裏切りであるものか。何故なら、自分はただの家人であるのだから。
 裏切りであるというならば、長年邵可を慕い続けてきた自分への裏切りである。

「ああ、いい香りだね」

 突然現れた邵可に、銀児は飛び上がった。ばくばくと跳ねる心臓を抑える。やましいところは何もない。今のところ、は。

「旦那様、このようなところへ……」

 銀児の制止も聞かずに邵可は銀児に歩み寄る。

「おや、どうしてだい?」
「旦那様を厨に入れると、私が静蘭に叱られてしまいます」

 家人のいるような家の主が厨に入るようなことは無い。もっとも、この家では災害防止の意味合いが強いのだが。
 邵可は小さく笑った。銀児の目の前に濃い臙脂の衣が靡く。

「ねえ、銀児」

 びくりと震える銀児の肩に邵可の手がかけられた。

「だんなさま……あの……」

 言いかけた銀児の言葉を遮るように邵可は唇を重ねる。かさかさと乾いた唇の感触が心地よい。あやうく溺れそうになったところで、厨の勝手口がわずかに開いていることに気付いた。

「……旦那様、人が」

 弱々しく邵可の胸を押し返すと、邵可は静かに手を絡めとる。

「銀児」

 穏やかに耳元で名を囁かれて、銀児の頭はぼうとなる。もうなんでもよくなってしまう。

「……邵可様」

 ぶしゅう、とふきこぼれた鍋が音を上げた。銀児ははっとして邵可の腕をすり抜ける。
 邵可は苦笑気味に肩をすくめた。

「そんなに過敏にならなくても平気だよ」

 たしかに周囲に人の気配は無い。邵可までもがそう言うのだから、間違いないのだろう。だが、用心に越したことはない。
 用心深い邵可の突然の行動に銀児は疑念の視線を向ける。まさか、これは燕青とのことを牽制しているのだろうか。
 たが、邵可が気まぐれに銀児を求めるのはいつものことだった。

 銀児は踵を返しかけた邵可の袖を握った。ちっぽけな布切れにすがりつく。

「邵可様、離れるなと命じてください。私は邵可様のものだと言ってください」

 邵可は何も言わなかった。ただ曖昧な笑みを浮かべて、ゆるやかに銀児の手を振り解いた。




五、

 銀児は平生言葉が欲しいと思ったことは無かった。いくらでも飾り付けられる言葉での薄っぺらな繋がりなど、欲するのも馬鹿馬鹿しい。それならば、仮初であろうと肌を重ねていた方がまだ満たされる。
 銀児は邵可の一番が己では無いことを知っていた。だから、あえて言葉を求めなかった。邵可からの愛を紡ぐ言葉が無かろうと、銀児が心酔する男は邵可ただ一人でしかあり得なかった。

 それが、どうしてか、邵可にすがりついて言葉を求めたことに銀児は戸惑う。
 好きだ、と言われたいわけでも、愛している、と囁かれたいわけでもない。そんなものはとうの昔に諦めた。
 ただ、傍にいろと命じて欲しかったのだ。嘘でも、構わなかったのに。

 ほう、と銀児は溜め息をつく。陰鬱な溜め息は抜けるような夏空に消えていった。
 刺すような陽光が陰る。銀児の、明るい場所に弱い色の薄い目にも、その大きな影が燕青のものであるとはすぐに知れた。

「よう、どうした? 元気ねぇな」
「……別に、いつもの通りです」

 違いねぇ、と燕青は笑った。
 庭園の木陰で木に凭れてぼうとしていた銀児の隣に、燕青はごく自然に腰掛ける。その自然さが銀児には憎らしい。

「暑いな」
「ええ」
「暑いのは好きか?」
「寒いよりは」

 何気なく答えた銀児に、燕青は「へぇ」と相槌を打つ。

「まあなあ、暑いと氷菓子も瓜も美味いしな」
「……夕食に寒天菓子を出しましょう」
「まじで?」

 そう無邪気に喜ぶ燕青に銀児はわずかに目元を緩める。燕青はからかうような目つきで銀児の目を覗き込んだ。

「お、何? やっと俺の魅力に気付いた?」
「そうかもしれませんね」

 銀児の返答に燕青は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をする。

「なに、まじでどうしたの? 大丈夫?」

 銀児は木漏れ日がまだらを描く自身の手の甲を眺めた。本当に、いったいどうしたというのか。
 銀児は口元に自嘲めいた笑みを浮かべてみせる。それがきちんと笑みの体を為していたのかまでは気が回らなかった。

「さあ、分かりません」

 燕青は銀児の陰りがちな横顔を見る。頼りなげに揺らぐ瞳に動揺してしまう。

「どうしたら良いのかも、どうしたいのかも分かりません」

 私は――、と銀児は何かを言いかけたが、結局何も言わずに黙り込んだ。もうそれ以上、何を言ったらいいのか分からなかった。




六、

 邵可は並んで夕食の後片付けをする銀児と燕青の姿を格子越しに目で追う。
 なんということの無い光景である。宿を借りている旅人が、その礼にと手伝いを申し出たのだろう。厨の木格子から漏れ出る橙色の灯りの温かみがまぶしい。
 燕青が笑いながら銀児に話しかける。それに対して銀児は少しだけ、ほんの少しだけ小さく笑った。それを見て邵可は愕然とする。
 己にしか向けられたことのない銀児の穏やかな表情が、確かに燕青に向けられていた。ふつふつと湧き上がったのは嫉妬かもしれなかったし、不安かもしれなかった。

 若い二人が並ぶ様子は実に様になっている。まるで夫婦のようだ。自分が並んでも、そうは見えないだろう。銀児の瞳は安心したように細められていた。

 ――自分は、

 邵可は廚から離れてそっと息を吐く。
 自分は、少々銀児に甘えすぎていたのかもしれない。
 銀児には何をしても受け入れて貰えると思っていた。事実、どんな自分も銀児は淡々と受け止めていた。
 見た目に似合わず達観した、老成したような女だと思っていたのだ。だが、考えてみれば銀児はせいぜい邵可の半分程度しか生きていない、まだほんの娘であった。
 年頃の娘らしく笑う銀児の姿を、邵可は知らない。知ろうともしなかったのかもしれない。
 邵可はそれでも満足だった。時折感情の赴くままに我が儘を言ってみせれば、銀児は困ったような顔をしながらもそれを許容した。銀児も時折子供のように邵可に甘える。それで、全てが上手く回っていると感じていた。

 しかしながら、かつて自分に妻がいたという事実が、そして妻をいまだ自分が愛しているという事実が、銀児には重荷だっただろう。周囲に関係を秘せねばならぬことも、苦痛だったに違いない。
 邵可は、平気であった。ただ、銀児が居れば良かった。邵可は、――たとえ、その動機や手段が歪んでいるとしても――銀児を愛している。大切に思っている。己だけに笑って欲しいと思っている。
 それでも、銀児はそうで無かったかもしれない。若い銀児は、もっと健全で優しい愛を求めていたのかもしれない。

 分別のつかない小娘であった銀児の羽をもいだのは自分だ。銀児が、今、もしも、邵可のもとを逃れたいと言うのなら、押し止める手段は邵可には無かった。
 きしり、と廊下が軋む。どう歩いたものか、いつの間にか邵可は自室の前の廊下で思索に耽っていた。思考の沼にずぶずぶと沈み込むような気分になって、邵可は目を伏せる。

「……旦那様?」

 廊下の角を曲がった銀児が、ぼんやりと廊下に立ち尽くす邵可の姿に目を丸くした。

「旦那様、如何なさいました」

 気遣うような銀児の口振りに邵可は唇を噛んだ。

「銀児」

 掠れて漏れ出た声にただならぬものを感じたのか、銀児はびくりと肩を跳ねさせた。淡い瞳に怯えを映している。それに、奇妙に苛立った。

「ねえ、銀児……来なさい」

 自室に引き込むと、すぐに銀児のわななく唇を塞いだ。苛立ちなのか、悲しみなのか、己でもよく分からないまま銀児の体をなぞる。
 薄い肩が震えているのには、気付かないふりをした。結局のところ、邵可はこれ以外に銀児との関係の特別性を示す方法を知らなかった。




七、

 昼は侍童の仕事、夜は賊の相手。さすがに疲労の溜まった体を、燕青は夏の早い明け方の空に向けて伸ばした。硝子玉をぶちまけたように煌めく星も、遠くの花街の灯りも、白みかけた暁の空には見えようはずもない。
 燕青は視線を落とす。湿り気を帯びた土の地面を踏みしめた。
 邸の人間を起こすわけにはいかないので、邵可邸の高い塀に入った亀裂に足をかけると、一息によじ登る。

「う、お!」

 慣れつつある一連の動作の途中でよろめいたのは、塀の向こうに銀児がいて、その銀児と目があったからだった。
 辛うじて着地しながら、燕青は言い訳を考える。だが、銀児はとりたてて狼狽える様子も無かった。

「お帰りなさいませ、お疲れ様です」

 銀児は表情一つ変えずにそう言った。燕青は頭をかく。

「なに? もしかして、ばれてた?」

 銀児が頷いたので、燕青はうなだれる。一応、細心の注意を払ってはいたのだが。

「仕方のないことです。この邸の人間は皆、少々……過敏ですので」

 お嬢様以外は、と銀児は付け足した。

 燕青は溜め息をつき、銀児の傍らに歩み寄る。

「いつもこんなに早いのか?」
「何がです?」
「朝起きんの。朝ってか、まだ夜だろ」

 夏の夜は短いので空はもう明るみつつあるが、まだ皆寝静まっている頃だろう。

「いつもはもう少し遅いのですが……。今日は、もう今から寝ても起きられないので」
「寝てねえの?」
「はい」

 燕青はやや高い位置から銀児の顔を見下ろす。血色の悪い銀児の白い顔は、淡い薄暗闇のもとでは生気を失ってさえ見えた。

「銀児は、さ……」

 言い出して、燕青は言葉を切った。実のところ、何を言うかなど考えていなかった。銀児は首を傾げて先を促す。

「俺が今どういう状況か知ってる?」
「……薄々は」

 そっか、と燕青は呟く。

「俺ね、茶州の州牧やってんの。見えねえだろ?」

 さすがにそれは知らなかったと見えて、銀児は硝子玉のような目を見開いた。

「昔は結構……まあ、人に言えないようなこともしてたけどさ」

 燕青の脳裏によぎったのは、静蘭の端正な横顔だった。燕青の記憶の中の静蘭は、紫銀の髪を血で汚し、深い緑の瞳には何も映していない。

「でも、なんとかなるもんだよな。割と」

 俺も、あいつも。
 現在の境遇を顧みて、燕青はそう言った。銀児はそれを見て、口の端に笑みめいたものを浮かべてみせる。
 私は、と掠れる声で呟いた。

「私は、人に言えない事ばかりしています。昔も……今も」

 言って、銀児は着物の襟を押さえた。表情はどこか切なげに歪んでいる。
 燕青は、くん、と喉の奥に何か引っかかったような気がした。

「銀児は茶州に戻らねえの?」

 燕青の問いに銀児は訝しげな目をした。
 燕青は目を伏せる。

「そりゃ、良い思い出ばっかじゃねえけどさ、俺は生まれ育った茶州がやっぱり好きなんだ。だから、銀児にも少しずつでいいから、変わっていく茶州を好きになって欲しい」

 銀児は、黙ったまま燕青を見返す。燕青は銀児の淡い色の瞳を覗き込む。

「なぁんて、実は茶州府も結構大変でさ。並みの人間じゃすぐに茶家の餌食になっちまう。雑役婦一人でも信用のおける人間じゃなきゃ頼めねぇんだ」

 にこ、と燕青は笑う。それは半分本当で半分嘘だった。
 静蘭はああ言ったが、燕青は本気で銀児に恋していたわけではない。もちろん興味はあったし、可愛いとも思った。
 だが、それはそれだけだった。それだけで惚れるほど燕青は浮ついた男ではないし、州牧という己の立場もよく理解していた。
 今になって――薄暗がりに佇む銀児の悲痛な表情を見て――燕青は初めて、この何事にもあれ多くは語らない女の、内側を覗いてみたいと思ったのだ。

「もちろん、それなりに危険だし、おまえの都合もあるだろうから、無理にとは言わない。今すぐでなくたっていい」

 駄目で元々であると燕青はなかば覚悟を決めていた。それに反して、銀児は薄く目を細める。

「それは狗穴とどちらが危険ですか?」

 それはかなりきつい冗談だった。曲がりなりにも銀児の生まれ故郷であるのだ。
 燕青は苦笑いする。

「そりゃあ……茶州に狗穴より危険な場所はねぇだろ」

 燕青の返答に銀児は、ふ、と笑った。まばたきをした次の瞬間には考え込むような顔をしていたので、弱い光の悪戯かもしれなかったが。

「……少し、考えさせてください」


 

八、

 潮時なのかもしれない。

 燕青は室で寝ている。手伝うと申し出た燕青を、銀児はいいから体を休めろと室に押し込んだ。少しの間だけでも、一人になりたかった。
 一人で朝食の用意をしながら銀児は溜め息をつく。熾になりきらない火の、白い煙が目に染みた。けほり、と軽く噎せる。

 潮時なのかもしれない。

 銀児はもう一度心の中で呟く。
 銀児が紅邸にいるのは、もはや邵可の厚意以外の何物でもない。先王の崩御まで、というのが己に課された契約だった。邵可の隣が居心地良くて、あと一日、あと一日、と思う間に二年が過ぎようとしている。
 自分は風の狼とは違う。主義も主張もなく、対価さえあれば誰だって殺した。本来朝敵である自分を抱えていて邵可に益になることはない。

 この家は、己無しで完結しているのだ。優しい主人と、利発な娘と、気の利く家人。それと、細君の思い出と。
 自分はいつだってその輪に入れないでいた。あえて入ろうともしなかった。この家で、奥方の記憶を共有していないことの意味は大きい。
 家人一人養うのだってただではない。
 言っては悪いが、貧しいこの家に自分をどこかに嫁がせる金子があるとも思えなかった。もとより、今更普通の女のふりをして嫁ぐ気にもなれない。

 ならば、燕青の伝をたより、茶州で職を持つのも悪い話ではない。むしろ、願ったり叶ったりである。
 あとは、己の「邵可の傍にいたい」という理屈ではどうしようもない感情にどう決着をつけるかだった。
 火は、なかなか大きくならなかった。銀児は小さな火に乾燥させた檜の葉を放り込む。ぽう、と針のような葉に火が燃え移った。
 銀児は自身の肩を抱く。
 このまま邵可に迷惑をかけ続けて、それでいいのだろうか。自分の欲望を優先して、邵可の事情を顧みないことは許されるのだろうか。
 銀児は、それでも構わなかった。邵可に邪険に思われても彼の傍にいたかった。だが、そう思う自分が嫌いだった。

 背後で厨の勝手口を開ける音がして、銀児は震え上がる。邵可であったならば、今はまだ彼の顔を真正面から見る心の準備が出来ていない。

「おはよう、銀児」

 声は、秀麗のものだった。密かに胸を撫で下ろし、のろのろと振り返る。

「おはようございますお嬢様、まだ早いですので寝ていらしてください」

 つっけんどんともとられる調子で銀児は言った。秀麗はそれを気にもとめず、ほつれた髪を指先でちょっとつまむ。

「もういいの。目、さめちゃったから。私も手伝うわ」

 言って、秀麗は銀児の隣に並んだ。味噌の入った壷を手に、秀麗は笑う。

「なんだか、こうして並ぶのは久しぶりね」
「……そうですね」

 銀児は上の空に返事をした。構わずに秀麗は続ける。

「懐かしいわね。銀児、昔は料理が下手だったもの」

 銀児は小さく唸る。幼い秀麗に叱り飛ばされながら、慣れない厨で右往左往したことを思い出す。

「ああ、でも、お魚やお肉を捌くのだけは昔から上手かったわよね」

 銀児はもう一度、小さく唸った。

「もしも――」

 銀児は掠れる声でそう紡ぐ。ごくり、と唾を飲んだ。慎重に言葉を選ぶ。

「もしも、私が他の家に奉公にいなくなったらどうしますか?」

 気まずい沈黙が続く。秀麗がまじまじと自分の横顔を凝視しているのが、痛いほど分かった。

「奉公の話が来てるの?」

 その問いには、曖昧に返事をする。

「父様の微禄じゃろくな給金も出せないしね。ごめんね、今まで無理させて」

 それにも銀児は無言で以て答える。

「寂しくなるけれど銀児がそれを望むなら、誰も反対しないわ。父様も、もちろん静蘭も。だから、遠慮しないで」

 誰も反対しない――
 その言葉だけを心中で反復し、銀児は苦笑いする。
 日はとうに昇っている。夏の白い朝日に目を眇めて、銀児は「そうですか」と呟いた。




九、

 洗い物を中庭に干しながら、銀児は曇った空を見上げた。雨が降るだろうか。

「あ、銀児。昨日は、いや、今朝か? ありがとな」

 起き抜けの顔をして通りかかった燕青に銀児は軽く会釈する。銀児の顔をまじまじと見て、燕青は言葉を続けた。

「髪結ってんの、似合うぜ」

 燕青の言葉に、銀児ははっとしてうなじで髪の毛を一纏めにしている紐をほどいた。肩にぱさりと髪が落ちる。
 髪を結っていたのは邪魔だったからだ。普段髪を下ろしているのは、首やうなじの傷を隠すためだ。

「あー、なんだよ。せっかく誉めたのに。結ってた方が可愛いぜ。女の子らしくて」

 臆面無く言い切る燕青に銀児は顔をしかめる。くすぐったいような恥ずかしいような、妙な気持ちだった。

「すげぇな、ほんっと真っ白なんだ。なんか、糸みてぇ」

 なんだそれは、と銀児は肩をすくめる。髪に触れようと伸ばされた燕青の手をさり気なく払いのけた。燕青は苦笑する。

「髪、伸ばさねえの?」

 銀児は首を傾げる。

「みな、そう言います」

 肩甲骨にかかる程度の女人にしては短すぎる髪である。

「だってさ、もっと可愛い格好したらもっと可愛いと思うぜ。いや、本当」

 訝しげな銀児の視線に弁解するように銀児は両の手を振った。
 銀児は肩に落ちた白髪をつまみ上げる。多くの地方から人の集まる貴陽で、色の薄い髪くらい珍しくもない。逆に短い髪の女の方が目立つ。
 銀児の様子を見ていた燕青が口を開いた。

「銀児、無理してねぇか?」
「……何がです」

 銀児は内心ぎくりとした。だが、おくびにも出さず平然と問い返す。

「なんか、無理して自分を飾らないようにしてる感じ。着物も、それ男物だろ?」
「……静蘭のおさがりですよ。理由があるわけじゃない」
「姫さんがあんたの着物を仕立てようと言っても、断ったんだろ?」
「ただの家人には過ぎた申し出です」

 燕青は眉を寄せる。

「姫さんも、勿論邵可さんも、あんたのことをただの家人だなんて思ってねぇよ」
「……ただの家人です」

 苦々しく言い切る銀児の頭を燕青は無言で撫でた。払いのけようかと思ったが、何故だか心地良くては払いのけられない。

「あんま、気ィ張るなよ」

 銀児は会釈してその場を離れた。温かい手のひらが名残惜しくて、銀児は目を瞑る。これ以上は、離れられなくなりそうだった。

「どこ行くんだ? 手伝うか?」
「……いえ、昼まで休みます。朝食の食器はそのままで結構ですので」
「おう、そっか。じゃあ、また夕方な」
「行ってらっしゃいませ、お気をつけて」
「ああ」

 銀児は早足に自室に飛び込むと、早々に布団にくるまった。だが、眠いはずなのに眠れない。燕青の言葉が頭の中を行ったり来たりした。
 銀児は寝返りをうつ。
 着飾らないのは、いくら飾ったところで薔君に遠く及ばないことを知っているからだ。着飾って及ばないよりは、着飾らないで及ばない方がいくらか自分を慰められた。どちらにしろ惨めなことに変わりはないが。

 銀児はぼんやりと天井の染みを眺めた。やっと襲って来た睡魔に、とろりとろりと身を任せる。銀児は華やかに着飾った――後宮の女官たちのような――自分を夢想してみた。似合わなくて、滑稽だった。
 だが、あんまり燕青が自分のことを誉めるから、もしかしたら悪くないかもしれないとほんの少しだけ思った。
 銀児はうとうとと浅い眠りに落ちる。束の間、幸せな夢をみたが、目を覚ました頃には忘れていた。

 銀児は、どう、と屋根が軋むような音で目を覚ます。いまだ寝ぼけ気味の頭で状況を探った。
 雨が降っていた。それも瓶をひっくり返したような土砂降りだった。
 銀児は跳ね起き、取る物も取り合えず中庭へ向かう。洗濯物はもはや大惨事だろう。

 ざあざあと地面を穿つ雨滴を見て、銀児は急ぐのを止めた。遠目に見える物干しは、雨が跳ねて白く霞んで見える。
 銀児は一歩外へ踏み出した。どう、と籠もったように聞こえていた雨音が鼓膜を揺らす。思いの外鋭い音がした。
 数歩歩いて、銀児は立ち止まる。なんとなく、このまま雨に溶けて消えてしまいたいと思った。
 ぬかるんだ地面に膝をついた。そのまま、横たわり地面に左頬を寄せる。ひんやりとした泥が気持ち良い。
 馬鹿なことをしているのは分かっていた。ただ、何か疲れていたのだ。
 背を雨が打つ。大粒の雨は痛いほどに強く降ってきた。
 ぶつかった雨滴がけぶる手の甲を見る。泥が跳ねたそれを見て、銀児は唇を歪めた。どうしようもなくお似合いだった。泥にまみれて地に伏せる自分という状況を自嘲する。 
 銀児は笑った。口の中に泥が入る。 泥水が髪を伝って手の甲に落ちてきた。




十、

 たつ、と手元に水滴が落ちた。乾ききらない墨が紙の上でじわりと滲む。
 邵可は溜め息をついて天井を見上げた。濃い染みになった天井から、と、と、と水滴が零れ落ちてくる。雨漏りだった。桶でも置いておくか、と邵可は億劫ながらも席を立つ。
 ふと外を見た。強い雨で霞む庭の景色に一点の違和感。白くけぶる雨粒の中に銀児の姿を見つけて、邵可は我が目を疑った。
 泥の跳ねる地面に倒れ伏す銀児の姿を見止め、邵可は慌てて自室を出る。中庭に面した回廊の庇が雨に打たれて折れそうなほどに軋んでいた。

「銀児」

 銀児は既に立ち上がり、雨が降りしきる中立ち尽くしていた。体調が悪くて倒れたのではないことに邵可は安堵する。だが、服は泥にまみれ、青白い顔は雨で流れ出る泥水で汚れていて、痛々しいことこの上ない。

「銀児、どうしたんだい」

 銀児の視線が静かに上がった。邵可を見るその目に浮かぶのは明らかな怯えで、邵可は僅かに苛立ちを覚える。
 銀児はまるでこの邸に来た頃のような、何も映さない空虚な瞳に雨空を反射させた。

「風邪をひくよ」

 邵可は銀児の方へ手を伸ばす。雨樋から流れ落ちる雨水が邵可の手のひらを濡らした。

「おいで、銀児」

 銀児は何か言ったのか、もしくは寒さに震えただけなのか、唇をわななかせる。だが、雨音のせいで何も聞き取れない。

「こっちに来なさい」

 銀児はぼんやりと邵可を見返した。邵可はぞっとして濡れた手を握り締める。
 雨がけぶり、輪郭が朧気になる銀児の姿が、どこかに消えて無くなりそうに思えた。

「来るんだ」

 驚くほどに大きな声が出る。銀児は一瞬表情をひきつらせ、のろのろと一歩踏み出した。としゃ、と水溜まりを踏む音が妙に響く。
 濡れた着物をずるりずるりと引き摺るように歩く銀児に、邵可は苛々と唇を噛む。
 邵可は手の届く場所まで来た銀児の薄い肩を掴み、乱暴に引き寄せた。胸の内に収まる小さな体は、かたかたと震えている。
 邵可は濡れていつもより重く感じる銀児の体を抱えるようにして自室へ戻った。びしょびしょの着物を脱がせ、自身の上着をかけてやる。
 白い銀児の体は、血の気が失せてさらに青白かった。

「何をしていたんだい」

 邵可は問う。銀児は俯いたままだった。邵可は寝台に座る銀児の隣に腰掛け、濡れた頭を抱き寄せる。

「……ここに居たくない」

 ぽつりと零れた銀児の言葉に邵可は慄然とした。

「辛いです、邵可様」

 次は邵可が黙り込む番だった。

「邵可様に必要とされないなら、どこか遠い所に行きたい。邵可様の側に居られないなら、……死んだ方がましだ」

 きゅ、と銀児は邵可の着物を掴んだ。どろりと濁った瞳が邵可を見上げる。

「邵可様、私、茶州に行きます」

 そう、と邵可は低く呟く。言葉と裏腹に強く銀児の体を抱き締めた。
 邵可は唇を舐める。おそらく、これが最後の機会であるのだ。これを逃したら、おしまいだ。

「行かないで」

 邵可の言葉に、びくん、と銀児の肩が跳ねる。邵可は銀児の瞳を覗き込み、もう一度、呟いた。

「行かないでよ、ここに居なさい」

 銀児の淡い色の瞳が揺れる。

「どうしてですか……」

 銀児は邵可の胸を押しのける。邵可は構わず銀児を腕の中に閉じ込めた。

「何も……何も出来ない、 洗濯すらまともに出来ないのに……」

 邵可は蔀の向こうに雨に濡れる物干し台を見て、静かに雨戸を閉めた。邵可の腕から逃れようと、もがいて暴れる銀児を押し込める。

「そんなこと――」

 邵可は暴れる銀児の耳朶に噛みついた。銀児は鋭い痛みに身を竦ませる。

「そんなこと、私だって一緒だ」

 腕の中で銀児の力が弱まった。銀児が力を緩めると、だらりと銀児の腕がぶら下がる。

「家事をやらせたくて邸に置いたわけじゃない。――妻の代わりを求めてるわけじゃない。ここに居なさい、銀児」

 常に亡き妻の影に苛まれる銀児の不安を、知らなかったわけではない。見て見ぬふりをしていただけだ。
 言葉にして銀児を慰めるのは余裕が無いようで気恥ずかしかったし、妻に対する裏切りにも思えた。


「それでも行くと言うなら――」

 邵可は胸の内がざわざわとざわめくのを感じた。邵可は、ふうと薄く笑う。

「その時は、君を殺してこの庭に埋めよう」




終、

「申し訳ありません。茶州には行かれません」

 そう言った銀児の瞳はいやに静かだった。その一種晴れやかな様子に、燕青は言葉に詰まる。

「迷いが消えたのは、あなたのおかげです」

 その言葉に喜んでいいものかどうか、燕青は苦笑する。茶州へと誘ったのは、割と本気であったのだ。

「あー、そっか。残念だな」

 素直にそう言うと、銀児は少しだけ困ったような顔をする。

「私も、残念です。……少しだけ」
「なんだそりゃ」

 銀児は複雑な表情をして、肩にかかる髪に手をやった。糸のように白い髪が、鋭い陽光を反射する。燕青は目をすがめた。

「男か?」

 それは燕青の勘だった。だが、確信もあった。銀児は首を傾げた。首を傾げて、次いで諦観を帯びた顔をする。

「そうかもしれません」

 その顔のせいで、燕青の胸に靄がかかる。

「良い男か?」
「……どうでしょう」

 銀児は一瞬表情を歪めた。燕青が見たことのない表情だった。燕青は溜め息をつく。

「ろくな男じゃねぇよ。おまえにそんな顔させるなんてよ」

 燕青の言葉に銀児は苦笑した。

「そうなのかもしれません」

 銀児は確かに苦笑していたけれど、多分それは恋慕に似たものを帯びていた。
 敵わねぇなぁ、と燕青は空を仰ぐ。己を見上げる銀児の肩を掴んで引き寄せた。
 顔を寄せると、銀児は眉をひそめて燕青を押し返す。いつもはそこで諦めるのだが、燕青はより強く銀児を引き寄せる。

「男の純情を弄んだ罰だ」
「馬鹿なことはやめてください」

 燕青は銀児の瞳を覗き込んだ。淡い褐色の瞳には、自分の悲痛な顔が映っていてうんざりする。

「いいだろ。これで全部諦める」

 銀児は少しだけ迷う様子を見せた。それから、ぐいと身を乗り出す。燕青の頬を銀児の髪がくすぐる。一瞬燕青の唇に触れたのは、多分銀児の唇であった。

「これで、いいのですか?」

 燕青は小さく笑った。一夏の淡い恋にもならないそれは、あまりにあっけない終わりを迎えた。
 銀児は何か逡巡して、唇を開く。

「今は、一緒に甘味屋に行けば良かったと思っています。実を言えば、私は、あなたのことが嫌いではありませんでした」


 それだけ言って銀児は一礼すると、踵を返した。ゆらゆらと小さくなっていく背中を見て、燕青は頭を掻く。

「なんだよ。そんなこと言われたら……諦めきれなくなるじゃねぇか」

 苦いものが胸の内に広がる。それは重く苦しかったが、どうしてか燕青はそれが嫌では無かった。