懐古する話



Caution!
※未来捏造
※キャラと夢主の子供がいる
※夢主が既に死んでいる


******



 国試及第の報せが届いたのは、奇しくも母の命日であった。

 国試準備で主家――養父のもとに長らく滞在していたため、久方ぶりに帰った我が家は埃っぽい。簡単に煤を払った一室に、胡宗慶は急ごしらえながら祭壇を組んだ。
 そこに位牌を据え、水と及第の通知を供える。

「母上」

 宗慶は亡き母の顔を思い浮かべた。

「母上、無事国試に及第いたしました」

 宗慶はそう言い、己の髪に手をやった。手にひんやりと触れる木製の簪は、装身具の類を持たなかった母が唯一大切にしていたものだった。それは女物ではあるのだが、男である宗慶が身につけても違和感のない程質素なものである。

「母上、長らくご無沙汰しておりました――」

 言葉は、続かなかった。宗慶の家は紅家本邸の片隅にある。母と宗慶二人で住んでいた小さな離れだ。母が亡くなって以来、宗慶以外にここを訪れる人間はいない。
 そのはずが、表の木戸が軋んで開く音がした。

「ああ、宗慶かい」

 空気を震わす声音に、宗慶は思わず身を固くする。

「……邵可様、いかがいたしました。こんな場所に」

 宗慶の養父である紅邵可は、穏やかに目元を和ませた。紅家を支える当主である彼は、髪に白いものは混じるものの若々しい。だが、時折ひどく老成した風な様子も見せた。宗慶はほんの赤子の頃から邵可の養子ではあるのだが、いまだに掴めぬところのある男だった。

「今日は銀児の命日だから」

 言って、邵可は宗慶が組みたてた祭壇に花を供えた。いかにも野で摘んできたような、小さな白い花だった。手の熱でしおれ気味のその花は、長く病床にあった母の姿を強く宗慶に思い出させる。

「こういう白い花を見ると、どうしてか銀児のことばかり思い浮かんでしまってね」

 聞いてもいないのに邵可はそう呟く。

「母上は赤い花がお好きでした。大きな、赤い花が」

 幼い宗慶が紅家の庭から失敬した真っ赤な大輪の牡丹を、母は一番喜んだ。今思えば、その花を見る母の目は、邵可を見る時の目に似ていた。
 邵可は淡く笑った。

「そうだったかな? そう、そうだったかもしれないね」

 そうして、邵可は黙り込む。室内にしばし沈黙が下りた。

「宗慶、国試及第おめでとう。……私は君に言わなければならないことがあるんだ」

 ――君の出自に関することだ。邵可は言った。宗慶は目にかかった黒髪を指先ではらい、乾いた唇を舐めた。

「それは、私の父親のことですか?」
「そうだよ」

 宗慶は小さく笑う。

「あなたですか、邵可様」
「……そうだよ」

 想像していたよりもあっさりと邵可は頷いた。邵可は苦笑して手近な椅子に腰掛ける。

「なんだ、知っていたんだね。銀児が君に言ったのかい?」
「いえ、母上は何も」

 母は文字通りそのことを墓場まで持っていった。だが、一介の使用人の私生児であった自分を主家であり大貴族の長である邵可が引き取ったことの意味を。そして母が邵可に向ける視線と邵可が母に向ける視線の意味を。知らないでいられるほど宗慶は愚かになりきれなかった。

「そう。銀児はあまりお喋りではないからね。それに、約束は守る子だった」

 その言い方に――母をよく知る者の口振りに――宗慶は少しだけ不快になる。宗慶は、幼い頃から邵可が母の“特別”であることを知っていた。
 血を分けた自分と同じか、それ以上に、幼い宗慶には計り知れぬ絆で繋がっていたのだ。
 宗慶の記憶の中の母は、寝間着姿で寝台に横たわっていることが多い。宗慶を産んでから病気がちになったという母は、晩年は寝台から起き上がることもままならない有り様であった。

 母は、あまり笑わない人であったと記憶している。不機嫌なわけではなく、あまり感情を露わにしない人であった。それでも自分に向けられる淡い笑顔が、宗慶は一番好きだった。母に笑いかけられる自分は、特別な男なのだと誇らしかった。
 そうであるから、母が己以外に唯一笑顔を見せる邵可を、実のところ宗慶は厭うていた。大恩ある養父にも関わらず。
 宗慶は、目の前の男を睨んだ。その厭うた男の血が、己の体には流れているのだ。

「可愛い息子が立派に官吏となって、銀児も草葉の陰で喜んでいるだろうね」

 宗慶は勉学が好きだったわけでも官吏になりたかったわけでもなかった。ただ紅家本邸で学んだことを、家に帰って母に伝えることが好きだったのだ。
 その日習った文字や詩文の話を、母は飽きることもなく聞いてくれた。体調の悪い日でも、寝台の母は宗慶の話に相槌を打った。
 母に伝えるために宗慶が師の言うことを一言も聞き漏らさまいと努めていると、いつの間にか宗慶の成績は伸びていた。
 だから、自分が官吏になったのは母のおかげであると宗慶は信じている。

「そうだと嬉しいのですが」

 宗慶は半ば無感動にそう言った。しおれた白い花を見下ろす。
 母は、色の白い人であった。肌だけでなく髪も雪のように白かった。病のせいか肌に血の気はなく、唇は白く、硝子玉のような淡い色の瞳も、母を儚い人形のような印象たらしめていた。その痩せた背を見て、幼い宗慶は母を守るべき人だと思った。
 それでも、子供であった自分に出来たことなどたかが知れている。結局、母は何を思いながら死んでいったのだろうか。考えるたびに宗慶の胸は痛んだ。

「……邵可様」
「なんだい」
「どうして母上を娶ってくださらなかったのですか。妾でも良かった。どうして母上を一人にしたのです」

 宗慶は邵可が嫌いだけれど、そう思わずにはいられなかった。邵可が傍にいたら、母は一日でも長生き出来たかもしれない。邵可が傍にいたら、母が寂しげに溜め息をつく回数を減らせたかもしれない。

 邵可は、目を細めて宗慶を招き寄せた。骨っぽい大きな手が一瞬宗慶の頬に触れる。

「君は、銀児によく似ている」

 淡褐色の瞳も、鋭い双眸も、細い鼻梁も、薄い唇も。
 言って、邵可は、とんと宗慶の胸を指で突いた。

「でも、髪の色とその性質だけは、確かに紅家のものだ」

 宗慶は眉をひそめる。邵可は口元だけで笑った。

「聡明なのに、こと身内が関わると我を忘れてしまう」
「母上は私の唯一の肉親です。それを必死になって何が悪いのです」

 唯一の、と言ったところで邵可は複雑そうに苦笑する。

「……銀児がそう望んだから、というのは私の逃げだろうか」

 邵可は呟く。それが先ほどの問いの答えだと宗慶は気付いた。

「母上が、そう望んだのですか」
「あの頃は、当主のことで色々もめていたからね。いまさら私に長男が産まれたことが知れては諍いの原因になってしまう」

 長男が使用人に産ませた男児と、次男の聡明だが血の繋がらない養い子と、由緒正しいとはいえ三男の子息と。家が荒れるのは必至だろう。

「銀児は家を荒らすのも、君を争いに巻き込むのも嫌だったのだろうね」

 紅家嫡子の母、とは言わないまでも紅家当主の妾となれば、こんな小さな離れで使用人として死ぬことも無かったというのに。

「母上は、欲の無い方だったのですね」

 じくりと胸が痛む。母の儚げな微笑が思い出された。

「欲が無い?」

 邵可は声をあげた。嘲笑のような響きを持った言葉に、宗慶は眉をひそめる。宗慶の聞いたことがない邵可の声音だった。

「ああ、ごめんよ。……驚いてしまって」
「どういうことです?」
「私は銀児ほど欲深い女を知らない」

 邵可は笑みを深める。

「それでも、あの子はついぞ金も地位も権力も求めることはなかったから、そういう意味では……おそろしく無欲だったのかもしれないね」

 やはり宗慶は、この男が気に入らなかったり
 宗慶は拳を握り締める。もやもやとしていた不快感が急に形を持つ。

「欲深い? 母上が?」

 そんなわけが無かった。女ならば誰もが飛びつく紅家当主の妻という地位をみすみす捨てるような人が、己の母親が、そんな俗な人間であるわけが無かった。
 ただ宗慶の幸せだけを思い、己を顧みずに死んでしまった可哀想な母。誰より敬愛する母を侮辱するような言葉に、宗慶は奥歯を噛み締める。

「母上は何一つ求めなかった。可哀想なほど何も持っていなかったというのに」
「君という可愛い息子がいただろう」

 邵可の言葉に宗慶は詰まった。

「白状しよう。銀児が君を妊娠した時、私は堕胎させることも遠くへ里子に出すことも考えた」
「……下衆が」
「返す言葉も無いけれどね。それだけ立て込んでいた」

 邵可は首を巡らせ、蔀の外を見る。よく整えられた庭園が遠くに見えた。

「銀児はね、それならば自分は紅家を出て行くと言った。私は随分慌てたよ。銀児は、きっとどこで何をしてでも君を育てただろうから」

 一瞬懐かしそうな顔をして、邵可は言った。それから、ちいさく苦笑する。ちょうどその時のことを思い出していた。

 自分無しでは生きられないように、と邵可は銀児を囲ったのだけれど、結局のところ銀児無しで居られないのは邵可の方であったのだ。

「情けない話だけど、私が銀児を手放したくないのが一番だった」

 そう言う邵可の顔は、いつもよりずっと老けて見えた。紅家当主でもなんでもない、ただ愛しい女を懐古する老いた男の顔だった。

「そんな――そんな理由で母上をこんな場所に拘束したのか」

 宗慶の語尾は震えていた。奇妙な怒りが冷ややかに腹の底から這い上がる。
 そんな、手放したくない、などという幼稚な理由で、この男は母をこんな小さな離れに縛り付けたのだ。
 病がちになり離れから出られない晩年の母は、それは哀れなものだった。宗慶は何度ももっと空気の良い過ごしやすい土地に行こうと勧めたのに、母はそれを頑なに拒否した。

「ここに居なければいけない理由があるのですか?」

 そう問う宗慶に、母はゆるゆると頷いた。

「私がここに居るよう望む人がいて、私もここに居ることを望んでいるから」

 もともと口数の少ない母は、その頃はさらに喋らなくなっていたけれど、乾いた唇を震わせてそう言った。

「仕方が無かった。君を養子にするだけでかなり危険な橋を渡った。銀児を特別扱いすれば、疑念を持つ輩も出ただろう」
「なら、どこか遠くへ療養へやれば良かった」
「私はね、我が儘なんだ。言っただろう、銀児を手放したくなかった。生憎、離れていても心は繋がっている、というのは信じられないたちでね」
「……そんなのは、母上が可哀想だ」
「そんなわけが無い」

 邵可は言い切った。穏やかな表情と裏腹な強い口調に、宗慶はたじろぐ。そんなわけが無い、と邵可はもう一度言った。

「銀児は私のことが大好きだったから」

 噛み締められた宗慶の唇は、切れて血が滲んでいた。それに半分この男のものが混ざっていると思うと吐き気がする。

「私はあなたを許さない。父と呼ぶ気も無い。……私は、あなたが嫌いです」
「嫌い、ね。言われ慣れているつもりだったけれど、さすがに堪える」

 邵可は言った。

「君とは義父子の関係とはいえ、上手くやっているつもりだったのだけれど。君は見た目は銀児に似ているけど、中身は実によく私に似ている」

 その、銀児への異常な愛情も――。
 だが邵可はそれは口にしなかった。

「私は紫州に発ちます。今までお世話になりました。――母上の位牌とお骨は、あなたに預けるつもりはありません」

 宗慶はそう言うと、さっさと踵を返した。同じ空気を吸うのも苛立たしい。
 木戸に手をかけて、宗慶はちらと邵可を顧みた。

「私があなたに似ていると母上が喜ばれたから、あなたの仕草を真似ただけです」

 怒りに満ちた様子で、しかし静かに閉められた木戸を見やり、一人取り残された邵可は溜め息をついた。

「そういうところが、私に似ていると言うんだ。――ねえ、銀児」

 返事は、無かった。
 邵可は目にかかる白いものが混じる前髪を掻き上げて、かさりと小さく笑った。