ユメノムクロ



Caution!
※未来捏造
※夢主死ぬ
※「懐古する話」の続きのようなもの


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 纏わりつくような暗闇で、邵可は少し身じろぎした。どこか遠くで狼の吠える声がする。

「君が私を呼ぶのは珍しい」

 寝台に横たわる銀児にそう言うと、銀児はひゅうと喉を鳴らした。
 月の光に融けてしまいそうなほど青白い頬にそっと触れると、銀児は馴れた獣のようにすり寄る。
 もともと肉の薄い体は、可哀想なほどに痩せてしまった。襟から覗く鎖骨が痛々しい。

「寂しくて」

 銀児は言った。
 離れに住まわせて、もう十年以上経つ。銀児が邵可を呼ぶことなど一度も無かった。紅家当主たる邵可が、そうそう使用人のもとを訪れるわけにはいかない。
 いや、本当は、日々やつれていく銀児を見ているのが怖かったのかもしれないが。

「らしくない。弱気になるのは体に良くないよ」

 邵可がたしなめるようにそう言うと、銀児は暗闇の中で小さく喉を震わせた。かそけき葉擦れのような、笑い声だった。

「今更です」
「……やめなさい。縁起でもない」

 邵可はそうとだけ答えるのがやっとであった。その脆い体に負担をかけたのは、他でもない邵可だった。

 自ら見舞いには行けぬというのに、医師を密かに離れにやり薬を与えさせ、どこの国のそれが滋養に良いと聞けばそれを取り寄せる。銀児を失いたくなかった。それは贖罪であり、出来うる限りの愛情だった。

「そんな顔をしないでください」

 白い枯れ枝のような手がそろりと邵可の方へ伸び、何かを探すように動いた。重なる病で白濁した目は、もうほとんど見えていないのだろう。
 その哀れな様子に、邵可の胸に熱いものがこみ上げた。銀児をここまで追い詰めたのは自分だ。寝台から動けず、目も見えず、ろくに喋ることも出来ぬほどに衰弱しきった銀児を薬で生き長らえさせた。野生の獣のように靭やかで美しい肢体は、見る影もなかった。
 こんなことなら、早く楽にさせてやれば良かった。自分が銀児を失いたくないただその一心で、病みついた体を引き摺る銀児の気持ちは、見て見ぬ振りをしていた。

 邵可は銀児の手を握る。ひんやりとしたその手は、夜闇のすぐそこにある死を予感させるには十分であった。

「君は……君だけは私を待ってくれるかと思っていたけれど……。……みな、私を置いて行く」

 邵可は銀児の手を強く強く握った。銀児の手は邵可の手を緩く握り返す。

「ごめんなさい、邵可様」

 謝る銀児の上体を起こし、邵可は銀児の痩せた体を抱き締める。抱き寄せた体は、驚くほどに軽かった。

「ごめん。ごめんね。謝らなくちゃいけないのは、私なんだ。……本当にごめん」

 銀児の肩口に頬を寄せ、邵可は呻く。銀児は震えるように息を吸い込み、邵可の背をゆるゆると撫でた。

「謝らないでください。邵可様」

 ぜえ、と銀児の肺が鳴る。

「こんな体になって、最近は一人だと昔のことを思い出してばかりで――」

 うん、と邵可は頷く。鈍く光る白い髪を撫でてやる。

「幸せ、でした。どうしようもないくらい幸せでした。ありがとうございます、邵可様」

 礼を言うのはこちらだと言うのに。邵可はより強く銀児を抱き締める。
 銀児は弱々しい声音で、熱に浮かされたように喋り続けた。

「邵可様に頂いた黒壇の簪は宗慶に。……私に残してやれるものは、それしかありませんので」
「……私には何も残してはくれないのかい?」
 銀児は笑みの形に唇を歪ませる。

「邵可様には簪以外の全てを」

 邵可は子供をあやすように銀児の背中を撫でる。とん、とん、と叩くと、銀児は気持ち良さそうに目を細めて邵可の胸に頬を寄せた。

「……邵可様」
「なんだい」

 銀児は目を閉じたまま言う。

「本当はね……もっと生きたかった」
「……うん」
「こんなぼろぼろの体で、みんなに迷惑しかかけないのに……。ろくに、歩けないし……邵可様の顔だって、見えないのに……」
「うん」
「それでも、いいから……私は、邵可様と一緒に、居たかった」

 邵可は、その言葉に、ほんの少しだけ、救われたのだ。

 銀児はそれを分かっていたのかもしれない。一言一言話すたびに命を削りながら、銀児は一生懸命に言葉を紡ぐ。

「しにたくない……しょうかさまの、いないところに、いきたくない……」
「うん」
「しあわせでした……わたし、は……」
「うん」

 銀児は、笑っていた。

「しょ……か、さま……」
「うん」
「……だ、いすき」
「…………うん」

 銀児は言い終わると、邵可の胸に寄りかかった。数度、浅く呼吸をして、そして、か細い吐息の音も消えた。
 途端に軽くなったように感じる体を、強く抱き締める。体温の残滓を貪るように、胸に抱いた。

 銀児の頬に涙が零れ、流れる。邵可はそれを親指で拭った。
 やがて、徐々に徐々に体温を失っていく銀児がひんやりと冷たくなる頃に、邵可は銀児の体を寝台に横たわらせる。銀児はまるで眠っているようだった。
 子供のような無邪気な笑みを浮かべて、静かに眠っていた。

 不思議と、喪失感は無かった。それとは反対に、何か満たされたような気分だった。

「私も、大好きだよ」

 せめて返事があるうちに、何度でも言ってやれば良かった。邵可は銀児の冷たい体に布団をかけ、乱れた髪を整えてやる。

「じゃあ、また、明日ね」

 邵可は離れを後にした。その夜は酒を飲み、珍しく酔って、気を失うように眠った。
 邵可の養い子の産みの親であり使用人の女の訃報が邵可のもとにまで届いたのは、翌朝、日も高く昇ったころであった。