所詮つまらぬ再確認



 なんだろう、と、銀児は厨の格子窓から外を見た。見慣れぬ柄の衣が、邵可の背からちらついて見える。
 銀児は根菜を刻む手を止めた。何やら楽しげに談笑する二人を眺める。女が口元に手をやって上品に笑うと、邵可の背も笑った。

 あれは誰だろう、と銀児は考えを巡らせる。知らぬ人間だ。元より興味も無い。
 銀児は手元に視線を戻した。傷だらけのまな板はそろそろ表面を削がねばなるまい。包丁の切れ味も落ちている。
 銀児は味噌滓の浮く鍋に野菜を入れると、蓋をして火の様子を見た。
 暗い竃の奥でぼうと光る熾火を眺めた。

******

「ごめんね、最近賃仕事が忙しくて、食事の準備も手伝えないの」

 秀麗が言うので、銀児は顔を上げて首を振った。

「いいえ」
「銀児が料理の腕を上げたから、私も安心して賃仕事を受けられるわ」

 秀麗は雑炊を口にして、美味しいと笑う。

「麦飯と味噌と大根だけの雑炊に美味いも不味いもありませんよ」

 木の匙を口に運びながら、秀麗に聞こえぬように低く静蘭が言った。銀児は静蘭を睨む。

「せいぜい稼いで良いもの食べさせてください」
「あなたに食べさせるために働いているわけではありませんから」

 ことん、と銀児は邵可と秀麗の前に茶器を置く。
 静蘭が催促するように銀児に視線をやったが、銀児はそれを無視した。

「それにしても、ここのところ毎日麦飯ばかりで嫌になっちゃう! 麦飯どころか、ここ三日は水っぽい麦雑炊ばかり! 久しぶりに美味しいお肉の入った菜が食べたいわ!」
「お嬢様、私の俸禄が出たら、それで鶏を買いましょう」
「うう、静蘭! ありがとう!」
「良いのですよ、お嬢様。私だって麦と大根に飽き飽きしていたところです」

 静蘭の申し出に秀麗は両手を上げて喜んだ。

「なら、私のお給金でお米を買うわ! たまには贅沢しないとやっていられないもの!」

 にこにこと笑って、献立を考え始めた秀麗の空いた茶器に銀児は茶を注ぐ。せめて水分で腹を満たして貰おうと、その行為は連日の雑炊となんら意図は変わらない。
 ありがとう、と言って秀麗は茶を口に含んだ。
 
「鶏肉が手に入ったら何をつくろうかしら」
「お嬢様が作ってくださるなら、何でも美味しく頂きますよ」

 はしゃぐ秀麗に静蘭が笑みかける。
 銀児は蔀の外に視線を向けた。何も無かった。月が浮いているだけだった。

******

 銀児は厨の格子窓から外を見ていた。よく晴れた良い日だ。庭には誰もいない。最近毎日のように邸を訪れていた女の姿も無い。実に清々しい日だった。
 銀児は久しぶりにまな板の上に乗った肉を鼻歌まじりに捌く。よく脂ののった新鮮な肉だ。
 手慣れた動作で皮を剥ぎ、骨から肉を外していく。

 思えば、いけ好かない女だったではないか。あの目は、確実に邵可に邪な思いを抱いていた。
 思慕ならばまだ良い。それに、銀児とて他人の感情に口を出すほど傲慢でも愚かでもない。
 あの女は紅邸に潜り込もうとしていた。腹には赤子がいた。邵可の子だと言い張って後妻に収まるつもりだったのか、それとも身よりのない孕み女を哀れんで貰い、取り入るつもりだったのか、今では確認する術も無いが。

 銀児は庭に邵可の姿を探した。しかし見当たらないので、ひどく寂しい気持ちになる。何故か分からないが泣きそうになって、銀児は首を振って目の前の作業に没頭する。

 す、と背後で空気が揺れる。銀児が視線をそちらにやると、黒装束の男が厨の隅に佇んでいた。

「女を追っている」

 挨拶も前置きも無く、男は低く唸る。銀児は眉を上げた。

「……女?」
「腹の子は邵可様の子だと言って紅家を強請った女だ」
「……ああ、紅家を敵に回しましたか。馬鹿なことを」
「知っているか」
「ええ、行方は知りませんが」

 そうか、と男は言って、厨を見回すと顔をしかめる。
 桶の中の肉片や、豚の頭を見やって、ひどく嫌そうな顔をした。

「なんだこれは。いつから肉屋を始めたんだ」
「ちょっとした賃仕事です。鶏やら豚やら、捌いて小分けにして納品するんです」

 銀児は桶に山と積まれた腑を指で示す。男はちらとそれを見たが、すぐに視線を逸らした。

「……しばらく肉は食えんな」
「血は苦手ですか?」
「そういうわけではないが」

 そもそも、最強との呼び声高い紅家の影が血が苦手では格好がつかない。男は眉をひそめて、綺麗に剥がされ干されている兎の毛皮をつつく。

「兎も捌くのか」
「食べたことがないのですか?」
「無いことは無い、が……」

 男はちいさな皮を複雑そうに見つめた。

「なんだか可哀想だ」
「生きるって、そういうことでしょう」
「……そうか」

 男は納得いったのかいかないのか、そうか、と呟いたのだが、それ以上は何も言わなかった。
 その時、玄関の方から物音が聞こえたので、男は現れた時と同じように音もなく去っていった。

「銀児、た――」

 ただいま、と言いかけたのだろう。しかし秀麗は厨の戸口に手をかけたまま、室内の惨状に目を見張った。無理もない。狭い厨に山のように積まれた肉塊は、地獄もかくやという光景だ。

「な、な、なに、いったいどうしたの?」
「賃仕事です。食肉の解体」

 銀児が言うと、はあぁ、と秀麗は溜め息にも似た声を漏らす。

「どこかの御大尽が貴陽で盛大な宴を開いているので、肉屋の手が足りないそうです」

 肉屋にしてみればまたとない大口の注文だ。しかし肉を仕入れたところで、人手も場所も足りない。日にちをかければ肉は悪くなるばかりだ。
 へえ、と秀麗は目を丸くした。

「その宴で私にも侍女の賃仕事が舞い込んだのよ。我が家には良いことづくめね。宴様々だわ」

 秀麗は言いながら、肉の入った桶を覗き込む。

「それにしても、お肉を捌いて貰ったお金でまたお肉を買うのも不思議な話ね」
「少しくらいくすねたってばれませんよ」
「駄目よ銀児! 賃仕事は信用第一!」

 冗談です、と銀児は眉一つ動かさずに言った。まったくもう、と秀麗は眉を吊り上げる。

「済んだらきちんと後片付けしてね」

 ああほら、ここも、血と脂でべたべたじゃない。と秀麗は声をあげる。

「父様が厨でやらかしたのかと思ったわよ」

 銀児の指先がぴくりと震えた。噎せ返るような血のにおい。声も無く倒れる仲間の背中。白い雪。茶州の冬山。たなびく黒。不意にそんな光景を引きずり出されて、銀児は一瞬息を止めた。
 秀麗は急に固まった銀児を心配そうに覗き込む。

「銀児、どうしたの? 顔色悪いわよ」

 銀児は生臭い空気で精一杯深呼吸した。

「血のにおいで気分が悪くなっただけです」
「休んだ方がいいわ」
「いえ、平気です。あと少ししたら品物を回収に肉屋が来ますし」

 銀児は最後に残った皮を剥がれた兎の腹に小刀を突き立てる。

「報酬を頂いて、厨を片付けて、それからゆっくり休みます」
「……そう、無理しないでね」

 秀麗は眉尻を下げて言うと、勝手口から外へ出た。ふうと吹き込んだ新鮮な風を、銀児は浅く吸い込んだ。

******

 木格子の向こうには明るい月が浮いていた。片付けのために灯りをともしたが、必要ないかもしれないくらい明るい月夜だ。
 掃除を終えた銀児は、青白い光を放つ月を見上げて「綺麗」と呟いた。

「ね、邵可様」
「……ああ、そうだね」

 いつの間にかそこに立っていた邵可も空を仰ぎ、そう言った。暗い赤色の瞳が月光を受けて濡れたように鈍く光る。
 銀児は洗った掌のにおいを嗅いだ。まだ少しだけ生臭い。銀児は眉をひそめる。

「邵可様。邵可様を厨へ入れると、私はお嬢様に叱られてしまいます」

 少々無礼な物言いだが、過去に邵可を厨へ入れた際の惨憺たる有り様を思い出せば、このくらいで丁度良い。
 邵可が取り落とした鍋を拾い上げながら言うと、邵可はきまり悪そうな顔をした。

「悪かったよ。私は今日叱られてばかりだ」

 邵可は肩をすくめて苦笑する。銀児は顔を上げた。

「叱られたのですか? 邵可様が?」

 銀児は首を傾げる。目の前の男が叱られている、という光景が銀児にはいまいちしっくり来なかった。邵可に屈託なく物を言えるのは、秀麗くらいだろうか。
 邵可は薄く笑う。

「ほら、あの、よくうちに来ていた女の人の件でね。黎深に叱られてしまった」

 そう穏やかな笑みを浮かべる邵可に、銀児は眦を上げた。そろそろと邵可に近付き、その胸に額を当てる。
 柔らかな香のかおりがした。銀児は邵可の袖を握り締める。

「邵可様は、酷い人です」

 銀児がそう言っても、邵可は何も言わなかった。何も言わずに笑っていた。銀児はより一層邵可に自分の体を押し付ける。

「酷い。酷い人。全部知っていたくせに。あの女のことも、見抜いていたのでしょう?」
「さあ、どうだろうね」

 邵可はゆるゆると銀児の髪を撫でる。それで誤魔化されそうになる自分に、銀児は唇を噛んだ。

「酷い。狡い。全部知っていて、私があの女を嫌がるのを知っていて、わざと放っておいたのでしょう?」
「考えすぎだよ」
「厨から見える場所に女をいつも誘導していたのも、厨の格子から覗く私を笑っていたのも、知っています」

 銀児は身を引き千切られるような思いであったのに、邵可はまるでなんでもない悪戯であるかのように振る舞うのだ。銀児は悔しいやら悲しいやらで、視界が滲む。

「いずれあの女の人も、もうこのあたりには近付けないよ。黎深がたいそうご立腹で、草の根を分けても探し出すつもりらしいから」
「……それだって邵可様のせいです。さっさと追い払って、妙な期待など持たせてやらなければ良かったのに」
「もしもの話なんて、必要ないよ」
「邵可様は酷い人。あの女が可哀想」

 銀児は頬に当てられた邵可の掌の温かさに緩く目を閉じた。

「邵可様のせいで、あの女は今頃誰かの胃の中です」