地獄は一定すみかぞかし



 男は夏が嫌いだった。照りつける陽光と、逃げ水の向こうに絶望と後悔がある。
 女は夏が嫌いだった。心に住み着くだけの陽炎に全てを奪われる。

 男と女は薄暗い室内で隣り合って座っていた。その距離は主従というには近く、恋仲というには遠い。
 男は四十に手が届くかというほどに見えたが、その体はその年頃にしては引き締まっている。細身の体をしなやかな筋肉が覆う様は、何か大きくて美しい肉食獣を思わせた。
 対して女は二十そこそこの若さで、痩せた体を長椅子に凭れかけさせている。肉の薄い、筋と筋肉ばかりが目立つ少年じみた肢体は、持て余し気味に投げ出されていた。


 夏は、嫌いです

 どうして


 男の髪は結わえないまま背に垂らされ、額にかかる幾筋かの髪が男をいつもより幾分若く見せている。
 初夏を感じさせる仄白い夜空に、男は目を細めた。夏は嫌いだ。夏は男から大切な人を奪った。彼女は男に愛を教えた。世界を与えた。かけがえのない人であった。

 女の髪は白く、男の黒髪とは表裏のようである。燐光を帯びたような青白い膚は、死人より余程死人らしい。夏は嫌いだ。死人の影が邸を覆う。女は一人疎外感を感じる。


 死が、近いから

 ――ああ、


 ああ、男に夏は死の季節だ。
 女の手が、男の胸に触れる。女の手はいつでもひんやりと冷たい。きっと女も、生きているというより、死んでいるのだ。男は女のそういうところが、多分気に入っていた。
 決して混じり合うことのない生と死が曖昧に混在するそれは男によく似ていた。

 彼女が死んだあの日、男の内側から、彼女に与えられたものは愛も情も、彼女が持ち去ってしまった。或いは、男が自ら打ち捨てたのやも知れぬ。
 そのとき、男の隙間には抗いがたい死が流れ込んだ。


 邵可様は、

 うん


 男は女の髪を弄ぶ。男に白は死の色だ。清潔で、清廉で、何にも侵すことを許さない。それでいて汚れやすい。
 腐敗する肉体や、遺された者達の悲嘆や、そういった死に付随する煩雑としたものを削ぎ落とせば、死はただそれだけでしかない。完全な停滞。
 はらはらと女の髪が男の指から零れ落ちる。


 きっと、私に人を愛する資格はない


 いや、失ったと言うべきか。分からない。資格を得た気になっていただけなのか。ただ、現在において男がそれを有さないことは明確だ。
 女の目は冷ややかだ。顔立ちは割合に整っていて、目を閉じればもう思い出せないほどに印象が薄いにも関わらず、瞳だけはひどく無機的で恐ろしい。
 女は死のにおいに敏感だ。男の、よく取り繕われた白濁の薄皮の向こうからうっすらと漂う死臭を嗅ぎ付けた。そして女は男の身の内に埋もれ、失った愛や情の代わりに、それと同質のそれでいて完全に異質な感情でそこを満たしてやった。


 私は、娘も愛していないのかもしれない

 ふうん


 男にとって己の娘は彼女の娘であり、つまりそれ以上でもそれ以下でもない。
 かつては愛していた。彼女に与えられた愛を、男は惜しげもなく娘に注いだ。だが、彼女を失い、愛も失い、男はそんなものどうでもよくなった。どうでもいいとさえ感じなくなった。完全に無になった。
 男はただ邸にこもり、在りし日の愛情を懐古し、そのまま椅子と共に朽ちてさえいいと思っていた。彼女を失った男は以前以上に虚ろだった。
 やがて男は心に整理をつけて、死ぬのはやめた。死ねば終わりだ。ふつりと糸が切れたようになって、邵可の全てが停滞する。死後の世界などありはしない。仮にあったとして、彼女と男の行き先は違う。

 死ねば、懐古さえ出来ない。彼女を思い出すことすら出来ない。だから男は、死ぬのだけはやめた。


 銀児は――


 残り滓のような感情で、愛情に似たそれを装うのはそう難しくもない。昔、彼女が生きていた頃にしていたことを、なぞればいい。
 男の愛情はひどくむら気だ。王位争いの中幼い娘を放置したかと思えば、殊更に娘のためを謳ってみたりもする。しかし果たしてそれも本当に娘のためなのか。娘の夢を尊重して、学問に取り組ませてやるのは本当に娘のためなのか。娘を思うなら、憎まれ役を買ってでも、女としての教養を身につけさせ、良家に嫁がせてやるのが親のつとめではないのか。
 王にしても、男は彼女を真似て愛情を与えようとしたけど、彼女を失った男はやはり不完全で、結局男は王を中途半端に孤独にしてしまった。


 銀児は、空っぽだ
        
 ええ、邵可様とおんなじ


 男は愛を忘れてしまった。なんとなく、それに似たものを演じることしか出来ない。女は愛を知らない。なんとなく、それに似たものを求めてはいた。


 銀児は、空っぽで、

 はい


 男の手が、女の首筋に触れる。その手つきは凶器を握る手つきと変わらない。男は、それは失わなかった。それは、本当に、男のそれだ。


 銀児、

 はい


 女の手が、男の唇に触れる。湿った熱い息が指にかかる。女の手は、白く骨張っていて、青白い月明かりのもとでは、ほとんど白骨に見えた。


 愛しているよ

 うそつき