忘れるな、思い出せ、覚えていろ
Caution!
※なぜかこの話だけ薔君と夢主に面識がある設定
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雷鳴轟く夜の室で、銀児は寝台に座る邵可の姿を見ていた。青い雷光が室を照らすたびに、邵可の白い顔にほつれた髪の影が濃く落ちる。
――薔君が死んだ
邵可は日がな室にこもり、秀麗は泣き伏せ、静蘭はそれを慰めている。時が止まったようだった。銀児だけが日々淡々と雑事をこなした。飯だけは用意しても減らないので、汁だけを作った。
薔君の死がもたらした影響はこの邸には大きすぎた。皆それぞれ悲しみに暮れている。
己はどうなのか、と銀児は自問する。
何も感じなかった。悲しい、とか、虚しい、とか、嬉しいとも思わない。自分はどこか欠けているのかと思う。
ただ、消沈する邵可を見て、様を見ろと思った。
薔君が死んで、悲しみに伏せる邵可の姿を見ると、銀児はどす黒い喜びに満たされた。同時に、ここまで悲しむほど薔君を愛していたのだと嫉妬した。
室の隅に銀児が立っているというのに邵可は顔も上げなかった。身動き一つしなかった。
――なんじゃ、そんなにぼうっとしおって。ほれ、しゃきっとせい
薔君なら、そう言っただろうか。
銀児はよく薔君にそうやって叱られた。
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「なんじゃ、そんなにぼうっとしおって。ほれ、しゃきっとせい!」
そう声をかけられ、銀児は緩慢に視線を上げる。きらきらとした夏の日差しを受けた庭園に佇む薔君は、そう言ってにこにこと銀児の額を小突いた。
「申し訳ありません。何かご用でしたか?」
「そうではない」
薔君は怒った顔をしてみせて、もう一度銀児の額を小突いた。
「おぬし、生気がないのう。まるで死人じゃ! ほうれ、笑うてみい、笑うてみい」
そう言って、薔君は銀児の頬をぐいぐいと引き伸ばす。ひとしきりされるがままになっていた銀児は、薔君の手が離れると一歩後ずさった。
「必要があれば、笑います」
「なんと。妾はおぬしが笑っているのを見たことがないぞ。いったい、いつ笑うのじゃ」
「……奥方様が笑えと仰るならば、笑いますが」
銀児の言葉に薔君はおどけた表情を曇らせ、困ったような悲しいような顔をした。
「静蘭ばかり重傷だった思うておったが、おぬしも重傷じゃな」
怪我も病気もした覚えはない。銀児が不思議そうな顔をすると、薔君は苦笑気味に銀児の頭を撫でた。
「おぬし、妾が嫌いか?」
銀児は目を丸くする。薔君は優しく微笑んで「よい、正直に言うてみい」と言う。
銀児はしばらくの間考えていたが、ぽつりと返した。
「いいえ、奥方様。そんなことはありません」
そして、一言付け加える。
「ですが、特別に好きでもありません」
馘首かな、と思った。それでも構わないか、とも思った。
だが、薔君はいたずらっ子のような笑みを浮かべて「そうか、そうか」と言うだけだった。
「では、邵可のことは好きか?」
「……感謝と尊敬はしております」
「そうではない。男として好いておるか、と聞いておる」
銀児はわずかに目を伏せる。どう答えるべきか、己がどう思っているのか、どちらも分からなかった。
だから、正直に答えた。
「分かりません」
ふふ、と薔君は笑う。
「そうかのう? まあ、あやつも唐変木ながらなかなかよい男じゃからなあ」
薔君は軽い調子を装って言う。邪気は無いが残酷な問いだ。
銀児はじっと薔君を見上げる。もし、そうだと言ったら、この美しい人の中は嫉妬で薄暗くなるのだろうか。そうならば、それも見てみたいと思った。
銀児は無意識に胸元を押さえた。傷の痕が、指先に引っかかる。
「分かりません」
銀児はもう一度呟く。
銀児が惹かれたのは、自身の身さえ焦がすような冷たく苛烈な兇手で、貴陽の立派な邸宅で安穏と幸福を享受している男ではなかった。
どちらも同じ人間であることは分かっていたけれど、銀児は今の邵可に毛ほどの興味もわかない。いつかその瞳に幻影のような狂気を見ることが出来る気がして、ここにいた。
薔君を疎ましいとは思わない。二人の寝台だって睫毛の一本も震わせずに始末できる。だが、邵可を変えたのが薔君だったら、それは赦せない気がした。
いや、違う。赦せないのは薔君ではない。やすやすと己を組み替えた邵可が赦せなかった。あの日見た青白い炎は、なんだったのだ。いとも簡単に押さえ込めるものだったのか。
ならば、それに共鳴し追い求めた己は、いったいどうすればいいのだ。
銀児は、少しだけ口の端を歪めて、笑った。薔君はわずかに目を見張る。
白く美しい手が、銀児の頬を撫でようと伸ばされたが、銀児は首をそらせてそれを避けた。
「おぬしは、人が嫌いかえ?」
「ひと?」
「人間が嫌いか?」
「……奥方様はどうなのですか」
薔君は銀児の問いにしばし考える素振りを見せたが、ふうと微笑んで答えた。
「嫌いじゃった。昔はな。じゃが、今は違う。邵可も秀麗も静蘭も銀児も、愛おしいと思う。本当じゃ」
薔君は銀児の瞳を覗き込む。黒い、黒い、どこまでも澄んだ黒い瞳から、銀児は目をそらした。
ゆるく息を吐き、銀児は薔君と距離をおく。
作り物じみたそれは、決して作り物ではない。それが、不気味だった。おそらくこの人は、いつでもそうなのだ。何を思うにしても、良くも悪くも、一つきりなのだ。
好きだといえば好きだし、嫌いだといえば嫌いだ。善なら善で、悪なら悪。清なら清で、濁なら濁。それだけだ。その間には何もない。
ならば、己は、“何もない”だ。
「奥方様は私のことを死人のようだと仰いましたが、私には奥方様の方がよほど人間離れしているように思います」
だから、銀児は、薔君に惹かれたけれど、好ましくは思わないし、もしかしたら嫌いかもしれなかった。
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――私には奥方様の方がよほど人間離れしているように思います
銀児がそう言ったとき、薔君はあの燦々と日を浴びた深緑の下で何を言っただろう。どんな顔をしただろう。
覚えていなかったし、思い出そうとも思わなかった。
ただ、薔君は、死の間際銀児を呼び寄せ「人間も捨てたものではないぞ」と耳打ちした。多分、これが、薔君の答えなのだろう。
銀児は今日も一通りの雑事を済ませ、飽きもせず邵可を眺めていた。
邵可は顔も上げない。最後に邵可の目を真正面から見たのは、いつだったろうか。
「邵可様」
名を、呼んでみる。
邵可は身じろぎ一つしなかった。今の邵可には、銀児の言葉より小虫の羽音の方がよほど響くだろう。
「邵可様」
「邵可様」
「邵可様」
ふ、と奇妙な浮遊感に襲われる。見れば爪先は床をかすめ、邵可の手が、銀児の胸倉を掴みあげていた。
「邵可様」
「銀児、少し静かにしてくれないか」
「邵可様」
「うるさい」
「邵可様、殺しますか」
「うるさい」
「邵可様、殺しますか――」
「うるさい」
「――私も」
ひゅう、と邵可は痙攣のように呼吸し、銀児を床に落とした。銀児は数度咽せ、ぼやける視界で邵可を見上げる。
信じられないような顔をして己の両手を見下ろす邵可。瞳は理性と激情の間で揺れ、悲しみと絶望とやり場のない怒りで濡れていた。
銀児は小さく小さく笑う。そうだ、まったく薔君の言うとおりだ。捨てたものではない。
この時のために、銀児はここにいたのだ。銀児は薔君の死に対して初めて何らかの感慨を抱いた。やはり、自分はどこも欠けていない。誰よりも、まっとうに、人間なのだと確信した。