展翅
紅家の家人であり、かつて紅貴妃付きの下女として後宮にいたこともある銀児は、時折思い出したように珠翠を訪ねた。頻度はまちまちで、連日来たと思えば、一月来ないこともある。
来たと言って何をするわけでもない。珠翠が茶と菓子でもてなすこともあれば、銀児が黙々と読み書きの練習をしていることもある。ぼうと蔀の外を眺めているだけのときさえある。
不思議と銀児は珠翠が忙しい時には現れなかった。とはいえ、皇后のいない後宮ではそう事が起きることもない。銀児は単調な後宮の時間の中の一服の清涼剤のようなものだった。無論、褒められたものではないのは承知の上だ。
室の蔀がとんとんと鳴った。珠翠の応えを待たずに、銀児はするりと室内に滑り込む。蔀は人の出入りするところではないと再三言ってあるのに、と珠翠は心中で溜息をついた。
何か一言言ってやろうと銀児の方に顔を向けると、銀児は首に美しい錦の帯子を結わえている。珠翠が「それは?」と問うと、常の無表情で首を傾げた。
「頂いたのです」
銀児は白く筋張った首元に触れ、帯子の端を少し引っ張った。珠翠は眉をひそめる。
「頂いた? いったい何方に?」
「ここの女人です。まだ子供だったように思いますが」
このくらいの、と銀児は己の胸のあたりに手をやる。そのくらいの小女は幾人か思い当たった。王も后も不在の伽藍堂な後宮でも、あちこちの家がこぞって娘をやりたがる。
「貴女、人目を忍んでいないのですか?」
咎めるように珠翠が言うと、銀児は肩を竦めた。
「後宮に入るまでは忍びますよ。でも、入ってしまえば、むしろこそこそする方が怪しい。訝しがられたら、手紙を預かったとでも言えばいい」
それはそうだが、そんなものを貰うまで馴染むことはないだろう。
言うと、銀児は唇の片端を上げてみせた。
「馴染む? 珍しい動物に餌をやったようなつもりでしょう」
銀児らしい物言いに、珠翠は諌める気も起きない。何者にも馴染まぬくせに、当然のようにそこにいる。異物であるのに、それを他者に感じさせない。持って生まれた性質か、練ったものかは分からないが、兇手としては恐ろしいばかりの適性である。銀児と敵対する未来がなくて良かった、と珠翠は常々思う。
「その小女は、何と?」
「何ということもありませんが」
ただ、と銀児は何か言いかけ、口を噤んだ。珠翠はそれを聞き逃さない。
「ただ、なんです?」
「いいえ、何も」
「何も、ということはないでしょう」
「別に面白くもない話です」
「お言いなさい」
銀児は小さく息をつき、答える。
「小猫、と」
「はい?」
シャオマオ、と、その音が何を表しているのか一瞬理解出来ず、珠翠は問い返す。
「小猫と呼ばれているらしいのです。ここの女官に」
「なんと、まあ」
珠翠が思わず噴き出すと、銀児は面白くなさそうに鼻を鳴らした。うんざりとした様子で、蔀に寄りかかり肩越しに外を見ている。
「高貴な姫君に、私は人間に見えぬようで」
「皆、退屈しているのですよ。許してやって」
家人とはいえ、万事にそつの無い秀麗が切り盛りする邵可邸の家人である。着物も質素だが粗末ではない。雑役婦にしては小綺麗だが、まさか女官には見えない。出入りの業者でもない。ふらふらと現れたり消えたりする不思議な風体の銀児は、后不在で宴席もなければ王も渡らぬ後宮で、女官達には格好のおもちゃだったのだろう。
銀児はゆっくりとまばたきをする。確かに、そういう仕草は猫のように見える。
「よく犬だの猫だのと呼ばれます」
誰に呼ばれたかは知らぬが、あまりいい意味ではなさそうだ。珠翠が苦笑すると、銀児は僅かに口の端を歪めた。笑った、のだと思う。
「それで、その帯子を首につけられたのですか? 猫の子のように?」
「……そうです」
「小猫、おいで、と?」
珠翠が笑みを含みながら言うと、銀児はまあそんなところです、と言葉を濁した。
「渡されたのが魚の腑でなくてよかった」
銀児は冗談ともつかぬ様子でそう言ってから、ふと何を考えているか分からない硝子のような目を珠翠に向けた。その目に敵意が宿っていないことは分かっていても、背筋が冷える。
「珠翠様」
銀児は視線を床に向ける。頬に白い髪がかかって、淡い影を作った。
「主のいない後宮に子供まで集めて、何の意味があるのです」
珠翠は目を伏せ、言葉を選ぶ。だが、上手い言葉が見つからなかった。
銀児はきっと、無為に後宮に集められた幼い少女に、己を重ねている。姿のない、いつか現れるかもしれない標的のために、囲われ生かされている兇手の己を。
「さあ、でも、何かは変わるわ」
珠翠はそうだけ言った。銀児は己の首に指先で触れる。
「また来て、と言われました」
「行くのですか?」
まさか、と銀児は首を振った。
「わざわざ会いに行きはしませんよ」
「でも、ここに来る途中で行き合うことはあるかもしれない、と?」
銀児は何も言わず、目を細めて珠翠を伺い見る。珠翠はやれやれと肩を落とした。
「筆頭女官として看過出来ぬ話を聞いてしまいました」
「でも、その筆頭女官の猫ではないですか」
「口を慎みなさい」
珠翠は溜息をつく。
「ここには誰も来ておりませんもの。後宮に猫がうろついていることも、女官がそれを面白がっていることも、私の預かり知らぬところです」
単調な後宮の生活を、あまり厳格に締め上げては宮女達の気も塞ぐ。そのくらいの抜けはあったっていい。珠翠は半ば自分に言い聞かせるようにそう結論付けた。ただし、と珠翠は銀児の鼻先に指を突きつける。
「ゆめゆめ、その小女におかしな真似をしないよう」
言うと、銀児は眉をひそめて珠翠を見返した。
「しませんよ。子供に」
「他の女官にもです」
「……しません」
語尾が自信なさげに小さくなる。珠翠は「絶対にですよ」と念を押した。銀児の昏く虚ろな双眸は、ある種の人間を容易に惑わせる。己の律する後宮で、妙な騒ぎを起こされるわけにはいかない。
銀児は「分かっていますよ」と小さく答えた。
******
夕陽の光が細く開けた蔀から入り、府庫の室内に橙色の線を引く。線の向こうの薄暗闇が、ぞろりと蠢いた。
邵可は低く息をつく。
「銀児」
どこから入ったものか、銀児は暗い壁際に染み付いたように立ち尽くしている。ぱちり、と銀児はまばたきした。
「ここに来てはいけないと言ってあるだろう」
言うと、銀児は拗ねたような顔をして見せた。
「女人禁制ではなくなったではありませんか」
「そうだね。でも、呼んでもいないのに家人が外朝に来るものではないよ」
だったら呼んでくれればいいのに、というじっとりとした視線を項に感じながら、邵可は書簡を棚に戻す。
秀麗と静蘭を欠いた邸はひどく静かで、銀児が手入れをしているからこれ以上荒れこそはしないが、半ば廃墟のようだった。帰れば銀児が淡々と出迎えるが、火の消えたような邸は落ち着かない。
邸に誰もいなければ銀児との関係を隠す必要もないのだが、まるで何かから隠れるかのように、息を潜めていた。何から隠れているのだろう。邸に残る妻の思い出か。己の良心か。
きし、と床板が軋む。しょうかさま、とそれより小さな音が邵可を呼んだ。
邵可は淡い影に目をやる。
「いいよ、おいで」
しかたがないな、と。
暗がりから銀児は音もなく抜け出した。黄昏時が人の形をとったように、銀児がゆるゆると輪郭を持つ。
「邵可様」
銀児の手が伸ばされ、骨張った指先が邵可の腹に触れた。着物の上を指が滑り、腕が背に回される。銀児の鼻先が、邵可の胸に強く押し付けられた。
低い体温を布越しに感じながら、邵可は書簡を棚に戻す作業を続ける。
「そんなことまでしていいとは言っていないけど」
銀児は何も答えない。呼吸をする音だけがした。熱い息が、邵可の上着を湿らせる。
やがて銀児は顔を上げると、目で口付けをねだる。冷めた色の淡い瞳に、赤々とした夕陽が反射していた。
「だめ。どきなさい」
語調を強めると、銀児は不満気な顔で、後ずさっていった。ひらり、と銀児の首元で帯子が揺れる。
邵可は片眉を上げた。
「それは?」
銀児の首元を指差すと、銀児は胡乱げな顔をしたが、己の首に手をやり指先に帯子が触れると、ああと小さく声を漏らす。
「これですか?」
そう、と、邵可が言うと、銀児はくすくすと笑った。
「気になりますか?」
銀児の指先が、帯子の端を撫でる。
酷薄気な薄い唇が、ゆうるりと弧を描くのが、妙に気に触った。
「そういうわけではないけど」
「そうですか」
邵可は帯子の端を手に取り、緩く引く。引っ張られた銀児は軽く顎を上げた。細く白い喉が露わになる。
「いったいどこで首輪を付けられてきたのか」
呆れ半分にそう呟くと、銀児は目を細め、邵可の手にそろりと触れる。
「妬いてくださるのですか」
銀児の言葉を黙殺し、その手を払いのける。銀児は少しだけ悲しそうな顔をした。
本当に、どこでこんなものを付けられてきたのだろう。ほんの少し前まで、銀児が邸から出ることはほとんど無かった。目隠しされた絡繰人形のように黙々と仕事をこなし、邵可の愛を求めるだけの生き物だったのだけれど。
秀麗も、静蘭も、劉輝も、朝廷さえ、邵可を取り巻く全てが少しずつ変化していく。妻の思い出と、面影を宿す娘と、片手で数えられる程度の大切なものと。それだけあれば邵可は満ち足りていた。それ以上は望まないから、全て変わらず己の手の内にあってほしいと願ったのだけれど。
時間の流れだけはひどく残酷で、目耳を塞いで書物に没頭しても、じりじりと全てを変化させていく。
邵可は溜息をついて、銀児の首の帯子を強く引く。銀児はたたらを踏んで邵可の腕の中に転がり込んだ。邵可はそれを抱きとめる。
銀児の目元を指先で撫でながら、邵可はその青白い顔を眺める。
「君も、変わった」
邵可が言うと、銀児は変わらぬ硝子玉のような目で、邵可を見上げた。どうしてか、ひどく傷付いたような顔をしている。
「そうだとしても、邵可様のことが好きなのは変わりません」
邵可の耳元で銀児は囁く。ほとんど吐息のような言葉に、邵可は擽ったさを感じて肩をすくめる。痩せた背に手を這わせると、銀児は身をよじった。
「そうかな」
銀児は淡い褐色の瞳を邵可に向ける。そこに自分の顔が映る気がして目を逸らした。
「心配ならば、邵可様も首輪を付けられればいいんです」
銀児の冷たい手が邵可の手を取り、己の首に添える。ひんやりとした皮膚の下で、どくどくと血潮が流れる気配がした。ね、と銀児の掠れた声が鼓膜を震わす。
「忘れないように、」
「誰か主か?」
その首筋に爪を立てると、銀児のおとがいが期待に震えた。薄い唇に舌先を這わせると、ひ、と小さく悲鳴を零す。
「いたいこと、するんですか?」
「好きだろう?」
返答を待たずにぬめる舌に歯を立てる。口内に熱いものが溢れた。鉄くささが鼻を抜ける。
うえ、と銀児は嗚咽を漏らした。唾液と混じった薄い血が、口の端からぽつぽつと溢れて首元の帯子を汚す。
傷は浅いが、出血は多い。銀児は口中に溜まる血を何度も飲み干した。表情は痛みに歪んでいるが、両の眼は恍惚と蕩けている。
邵可は低く笑った。
「そういうところは、変わってもいいんじゃない?」
そろそろ、痛苦と恐怖だけでなく心動かす方法を知ってもいいだろうに。言うと、銀児は不思議そうに首を傾げる。
邵可は銀児の頭を優しく撫でた。邵可に与えられる苦痛で、銀児は雪の日の邂逅を何度も追体験する。血に塗れた臨死の記憶は甘美に歪められ、銀児の心を茶州の雪原に縫い付けていた。
過去に囚われている。彼女も、己も。
邵可は銀児の口の端の血泡を親指で拭う。
「一人で帰られるね?」
銀児は不満気な顔を隠そうともせず邵可を見上げた。邵可は浅く溜息をついてみせる。
「今晩は帰るよ。……本当に」
そう言えば、銀児は邸を整えに帰らなくてはならない。銀児はしばらく考えるような素振りを見せたが、不承不承頷いた。
府庫を去りかけた銀児は、ふと邵可の方に顔を向ける。青白い顔に、唇だけが不健康に赤かった。
「邵可様」
開いた口内が赤くぬめっている。
「私は、その、……見境なく人に粉をかけるように見えますか?」
邵可は一瞬だけ呆気にとられ、次いで笑った。
「そうだね、今晩私が帰らなかったら、誰でも邸に引き込んでやるって顔をしている」
そうですか、と銀児は仏頂面で答え、再び黄昏の薄闇に融けて消えた。