夜、或いは水面



 銀児は自身の本当の名前を覚えていない。

 産まれは貧しい茶州の更に貧しい貧民街だった。母とたくさんの兄弟姉妹がいたが、父はいなかった。そもそも兄弟達の父は皆違う。だが、周りもみんなそうだったから、そんなものだと思っていた。
 人買いに売られたときも、兄弟達は口々に「きっとご飯がたくさん食べられるんだ」と言ったことはなんとなく覚えている。市場では普通に召使いが売られていたから、自分が売られることにさして疑問は覚えなかった。

 売られた先で、人を殺すことを覚えた。権勢を振るいかざす王家と彩七家に対抗するという主人の意向は、どうでも良かった。ただ、そうしないと飯が食えないからそうした。

 第二公子を殺せと命じられた。今日を生き延びることだけに必死だったから、公子だからとて特別な感慨の湧きようも無かった。

 白刃を鈍く光らせる男を見て、息が詰まった。人の命を葦のように易々と刈り取る、圧倒的な力。静かな炎のような凶暴さに、いっそ惚れ惚れとした。

 冷たい火を宿した目をして、男は死にたいのかと問うた。わからなかった。何のために生きてきたのか、何のために生きていくのか、わからなかった。ただ、死ぬのは恐ろしかった。

 先王の血の粛正を免れた主人は、王位争いのどさくさに紛れて政権を奪おうとしたらしい。主人は処刑された。そう牢の中で聞いた。自分も処分されるのだろうと思った。

 王に忠誠を誓うということを条件に、秘密裏に牢を出された。二年間は太師のもと王位争いの爪痕深い貴陽を這い回っていた。与えられた仕事だけは、こなした。

 再びその男に引き合わされた。細められた瞳の向こうの緋色に、背筋が震えた。ただその男の側に在りたい。そう、願った。

 薄墨で描いたかのような世界に一人生きてきた。鮮烈な紅を見せつけられて、世界に色彩があることを知った。
 その紅に惹かれた。目も眩むような鮮やかな紅に、骨の髄まで染まりたいのだ。




 夜は嫌いだ。
 銀児は自室の窓から、暗い空にぽかりと浮かぶ三日月を見上げた。
 暗闇の、その奥に何が潜んでいるとも知れない。夜は暗い。暗いから、怖い。
 暗闇に乗じて何人も殺してきた。きっと次は己の番だ。
 暗闇に化け物が潜んでいて、その一瞬を狙ってこちらを窺っているような気がする。そう思うと、手が震えた。
 一度そんなことが頭をよぎってしまうともう駄目で、銀児は寝台の上で膝を抱えてぼうとしていた。
 銀児は関節が白くなるほど握り締められた自身の手を見つめる。

 酒を大量に飲んで、半ば意識を失うようにして眠ろうかとも思ったが生憎酒を持っていない。
 酒といっても、貴族の飲むような酒ではない。芋や雑穀を発酵させて作るような密造酒だ。冗談のように不味いが、酔うことはできる。

 もしくは、誰かの寝所に忍び込むか。考え、そして苦々しく笑い捨てる。
 邵可の寝所に忍んで、拒絶されたらこの邸に残ることの出来る自信がない。
 静蘭はどうだろうか。銀児は静蘭が嫌いである。何故かと言われれば、馬が合わないからとしか言いようがない。思うに、静蘭も自分が嫌いなのだろう。
 秀麗ももう十である。添い寝の必要な年頃ではない。

 銀児は溜め息をついた。戸締まりと火の始末を確認するために邸内を回って、それからどうしようか。
 だらだらと立ち上がり、廊下へ足を踏み出す。足下で軋む床板に、悲鳴を上げそうになった。

 一歩踏み出すたびに、手の灯りが揺れて廊下の影が不気味に歪む。銀児は息をひそめて邸内を回る。
 厨房の裏戸が閉まっていることを確認したら、あとは自室に戻るだけだ。

 銀児は意味もなく厨房の中を歩き回り、ふと足を止めて水瓶を覗き込んだ。
 月光を反射する水面に、女の顔が映る。鋭い双眸、薄い唇、尖った顎。銀児はその青白い顔に掌を叩きつけた。ぱしゃん、と水面が揺れた。

 昼間に邵可を訪れた美しい宮女を思い出す。年の頃は二十を一つ二つ越えたぐらいの、匂い立つ百合の花のような美女であった。名を珠翠と言うらしい。
 二人は銀児の知らない昔の話をし、銀児の知らない人間の話をした。それが、ひどく気に入らなかった。
 珠翠のふとした時に見せる、邵可を男として意識するような仕草も気に入らない。唯一の救いは、邵可に珠翠を女として意識している素振りが無かったことだ。

 銀児はもう一度水面を叩き、早足で自室へ向かう。濡れた指先から水滴が落ち、ぽつりぽつりと床に染みを作るが気にしていられない。

 長い睫毛に縁取られた翡翠のような瞳も、ふっくらと女性らしい唇も、柔らかな曲線を描く白磁のような頬も、羨ましかった。
 早足のせいで風を受けた火が、揺らめいてぼうと音をたてた。それでも足音がしないのは、長年の癖だ。

「銀児」

 名を呼ばれた。誰のものとも知れぬ、記号にも似たそれが、邵可に呼ばれると不思議にすとんと胸に落ちてくる。
 寝室から顔を出す邵可に銀児は頭を下げた。

「申し訳ございません。起こしてしまいました」

 邵可は苦笑を零す。足音などしていなかったことも、眠ってなどいなかったことも知っている。だが、この邸で銀児はただの家人であるから知らない振りをしなければならない。それは邵可とて同じである。

「どうかしたの」

 問われ、言い淀む銀児に邵可は眉尻を下げた。橙の光と夜の陰りが内在するその表情が、好きだ。

「おいで」

 邵可は一言だけそう言って戸の向こうに消える。開いたままの扉とその向こうの薄闇を見て、銀児は逡巡するも足を踏み出した。



 微かな月明かりに照らされて、卓上の杯がゆらと光る。今にも軋んで崩れそうな椅子に腰掛けて、邵可は銀児に視線を向けた。

 邵可は無言で手を上げた。大きく骨張った手が銀児の頬のあたりを掠める。親指が銀児の目の下をなぞった。

「眠れない?」

 銀児は目を伏せる。いえ、と呟くが邵可はそれを無視して銀児の頬を撫でた。
 その指に唇を這わせて、舌でねぶって、唾液を絡めて強く吸い上げたら――
 その優しさも激しさも、内に渦巻く虚無すら銀児は欲していた。全部取り込んで飲み干して、そう出来たらどんなにか幸せだろう。
 頬を撫でる手にそっと触れる。温かい。冷えた指先に体温が染み込んでいく。

「私は……」

 言いかけて口をつぐむ。なんと言えばいいのかが分からない。どんな態度をとるべきかも分からなかった。
 代わりに邵可の唇を自らの唇で塞いだ。

 唇を甘噛みし、わずかに開いた唇に舌を割り込ませる。銀児は人知れず口の端を歪めた。
 ――これでいい
 物心つく頃から、必要なものは力づくで手に入れてきた。銀児には知識も教養もない。あるのはひ弱な女の身体一つである。
 他人の手の内から、或いは死体の懐から、奪っては生きのびてきた。それが善いか悪いかを判ずる素養すら銀児は持たない。

 進んで男の相手をすれば、少なくとも乱暴されることは無かった。そして金が手に入る。金が手に入れば、物を食うことが出来る。銀児にとって粘膜を擦り合わせるその行為などそれ以上の意味を持たない。
 だが、何故か邵可に触れたいと思った。冷たい指先に伝わる生々しい温もりに、焦燥感にも似た何かが胸中を駆け巡る。
 欲しい。
 銀児は邵可の広い胸に顔を寄せ、膝に擦りよる。

「夜が、怖いんです」

 邵可の背に腕を回す。触れた箇所が熱い。ぽつりと零した言葉は夜陰に紛れて融けた。
 色の無い銀児の記憶の中で、邵可だけは鮮やかな色彩を放っている。雪の白と靡く髪の黒と鮮血の赤だ。綺麗だ、そう思う。

「きれい」

 指先で邵可の唇をなぞる。それを濡らしていたのは、果たしてどちらの唾液であっただろうか。

******

 綺麗だと銀児は言った。邵可にはなんのことだかよく分からなかった。
 三十路を過ぎた寡男にかける言葉ではないだろうに。仮に邵可が若く美しかったとして、一回り以上も年下の娘を膝に乗せるような男を綺麗とは言わない。

 邵可は理性と欲望の狭間で揺れていた。振り払えばよいのだ。「馬鹿なことをするんじゃない」と説いて、言葉を弄して安心させて、自室に送り返してやればよい。いつもの邵可であればそれが出来る筈であるのに、何故か出来なかった。
 銀児の顔に亡き妻の面影を重ねようとする。不本意ではあっても自分を納得させたかった。だが、一つも重ならない。

 銀児は媚びるように邵可に腕を絡ませる。
 肌蹴た胸元に一筋の古傷が浮いていた。白い胸元に目をこらさねば分からぬ程にうっすらと。
 邵可は草染めの着物の袷に指をかけ、臍の下あたりまで手を引き下ろす。考えの無い行動であった。薄い肩がふるりと震えた。

「旦那様?」
「傷が残ってしまったね」

 邵可が昔切りつけた傷に触れる。薄れたそれにつうと目を細めた。金烏玉兎の足は早い。国は定まりつつある。風の狼は解散した。娘は成長し、そして――妻は死んだ。
 刻々と過ぎ行く時の中で、自分は一体何をしてきたのだろうか。
 そう思うと無闇と銀児に腹が立った。こうして自分が掻き乱されるのは銀児が居るからだ。酷い八つ当たりである。そんなことは分かっていた。原因が銀児だとしても銀児が悪いわけではない。
 だがこの憤りを何処に向ければいい。
 邵可は苛々と銀児の手首を掴む。二人分の体重に悲鳴をあげる椅子から立ち上がり銀児の躯を寝台へと放った。
 銀児は悲鳴もあげず、ただ小さく呻いた。それがまた邵可を苛つかせる。

 潤んだ瞳が邵可を見上げた。十六そこそこの小娘のものとは思えない視線から逃れるように、目を閉じた。
 全てを見透かすような昏い瞳が、淡々と無を写す硝子のような瞳が邵可は嫌いだった。それなのに惹かれてしまう。自ら火に飛び込む羽虫のようだ。

 その瞳は邵可の堅固な殻をいとも簡単に引き剥がす。父としての主人としての府庫長官としての知識人としての、それらの仮面を剥がされた邵可は一体なんだというのだ。

 ただの男だ。

 ただの男が女の肉を求めて何が悪い。心行くまでなぶって侵して蹂躙して、そして――

 ――そしてどうなると言うんだ。

 ふ、と邵可は急に萎えてしまった。冷めてしまえば銀児など痩せっぽちの小娘で、弱々しい体躯はむしろ庇護して慈しむべきものだ。
 邵可は溜め息をついて銀児の傍らに体を横たえる。春とは言えまだ夜は肌寒い。冷えた体が邵可の体温を奪っていく。

「旦那様、あの……」

 銀児の伏せられた睫毛が戸惑いがちに震える。その様子がいじましく思えて、不思議と可愛らしく見えた。
 邵可の腰に腕を回し丸くなる銀児の髪を梳く。銀児は途端に子供のように邵可の腹に頬を寄せる。
 甘える仔犬か仔猫のように擦りよる銀児の丸められた背を撫でる。邵可の夜着にしがみつく手が震えていた。

 腹のところで丸くなる銀児を見下ろして、娘を身ごもった妻の姿を思い出す。自分の半身が腹に宿るのは、こういう気分なのかもしれない。
 銀児に無性に苛立つのは、銀児が自分に似ているからだ。銀児は、妻と出会わなかった邵可の姿だ。

「寝なさい」
「一人は……」

 いやです。と細い腕が一層強く邵可を抱き締める。

「分かったから、寝なさい」

 たとえ離してくれと言われても、邵可には解放するつもりはない。泣いて喚いて拒否して、ぐずぐずに腐れて溶け落ちるまで手元に置いておきたかった。

「おやすみ」