月、或いは牙






 蔀から一直線に伸び、拡散して消える月の光を見上げる。
 左手にじわりと体温を感じて、銀児は言いようのないくすぐったいような気持ちになった。

 もう夜は怖くないと言えば嘘になるかもしれない。それでも邵可の寝台という逃げ場は、銀児の心を少しだけ軽くした。
 首だけ静かに動かして、邵可の姿を探す。自身の左側の影をとらえて銀児は冷たい敷布を右手で握った。

 寝ているのだろうか、と銀児は傍らの気配を探る。
 貴族の邸宅に相応しい寝台は古くとも広く、二人程ならば寝返りをうてるほどの余裕はある。銀児は息を潜めて邵可の方へにじり寄った。
 肩へ頭を寄せ、邵可の腕に自身の腕をぴたりと触れさせる。
 触れた部分が暖かい。わずかに聞こえる浅い息に安心させられる。空っぽの内側が満たされて、ひどく幸せだった。

 銀児は自身を淡白な質だと思っていた。今までは自分のことで手一杯で、あまり他人にかまけたことが無かった。
 そうであった筈なのに、今はただ触れているだけの箇所が熱い。とくとくと脈打ち、流れ込む幸せを脳まで送ってとろかしていく。

 もっと触れたい。それは背に腕を回すとか、胸に顔を埋めるとか、そういった話ではない。
 銀児はそっと頭だけを上げて邵可の顔を覗き込む。

 どうしよう。どうしたら相手にしてもらえるのだろうか。銀児は考える。
 家人である銀児にそれを求める権利などあるわけもなく、この疼痛をどうやって邵可に伝えればいいのかが分からない。
 
 銀児にとって邵可は触れることも躊躇するような大きな存在である。
 否、それでは語弊があるかもしれない。銀児の邵可に対する感情は長年のうちに信仰にも似たものに変化していた。
 触れることで信仰の対象を引きずり落とすことが怖いのだ。自らの拠り所を失ってしまう。

 欲求と恐怖がせめぎ合い、銀児の指先は震える。すう、と小さく息を吐いて、そろりと手を邵可の頬へ触れようとした。

 ぱし、と乾いた音が響く。銀児は取られた手を茫然と見つめる。
 邵可は上半身を起こし、握り締めた銀児の手を顔の前まで持ち上げた。

「どうしたの」

 銀児は目を泳がせる。どうしたのだろうか、自分はどうしたいというのだろうか。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、もうどうしたらいいのか分からなくなる。掴まれた手が熱い。触れているのではなく、触れられている感触が心地良い。

 銀児は自身の右手を掴む邵可の手に、そっと左手を重ねた。邵可の手を引き寄せ、自身の胸に押し当てる。面白みの無い薄い胸は、それでもその高鳴りを邵可に伝えた筈だ。

「だんなさま、」

 胸に押し当てていた手をゆるゆると引き下ろす。最早意味をなさないはだけた夜着の裾から、脚の間に手を引き込んだ。

 邵可の指の背が女陰に触れる。骨張った大きな手を脚に挟んだ。

「もう、ぐちゃぐちゃ、です」

 だから、抱いてください。と言い終わる前に邵可の手が動く。女陰の周りの柔らかな肉を弄ぶように強くこねる。もどかしい刺激にも関わらず銀児は腰が砕けたように寝台の上にへたり込んだ。
 緩んだ脚から逃れた邵可の指先が、ひくつく裂け目をゆるりと撫でる。銀児の口から情けない声が漏れた。

 脱力した銀児の体を軽々と引き寄せ、邵可は銀児の胸元に顔を寄せる。
 一瞬あった紅い瞳が、ひどく冷たい色をしていた。


 思いもよらない邵可の行動に邵可の膝の上で銀児は混乱していた。嬉しい誤算、なのかもしれない。それでも何かが納得いかなくて、不確かな不安に唇を噛んだ。
 だが所詮その不安もすっかり壊れて莫迦みたいに幸せを垂れ流す脳味噌の餌食となり、どこか暗くて湿ったところへ沈んで消えてしまった。

 邵可の右手は銀児の裂け目をなぞり、左手は腰を抱き、唇は着物の上から乳首を刺激する。
 背の高い邵可は銀児の胸に唇を寄せるために窮屈な姿勢をとっていて、邵可の姿と弄ばれる自分の体を見下ろしながら銀児は熱を孕んだ息を吐いた。

 多分、下半身はだらしなく涎をたらしてどろどろだ。どこまでも貪欲でいやらしくて正直な体は、我慢を知らない赤子のように自己主張を止めない。

 銀児は邵可の下半身に手を伸ばす。熱く、固くなった陰茎を着物ごしに感じて喜びに酔いしれる。この貧相な体を見て、触れて、多少なりとも欲情してくれたのだ。
 一刻も早くそれが欲しくて、邵可の着物の帯に手をかける。その手は再び邵可によって押しとどめられた。

「待ちなさい」

 耳元で邵可が囁く。それにさえ、発情した体は簡単に感じてしまう。あう、と意味の無い声がこぼれた。

「やだ、欲しいです。旦那様の、邵可様のを入れてください……」

 ぐちゃぐちゃの股間を勃起した陰茎に擦りつけて、裏返った声で懇願すると、邵可は銀児の体を反転させその上にのしかかった。意外に広い胸や肩に埋もれて、銀児は期待に体を震わせる。

 だが、邵可はふと唇の端を歪めるだけで銀児の求めるものを与えてはくれなかった。
 邵可の指が銀児の体をなぞる。銀児は恥をしのんで自ら脚を開いた。ぐぷ、と水音が響く。

 邵可は異様なほどに優しい手つきで銀児の体に触れる。開かれた脚の間に指を侵入させ、粘液を零す箇所の、銀児の手では到底届かない深い場所を刺激した。
 待ち望んだ物ではない刺激に抗議の声をあげようと試みるも、舌がもつれて情けない喘ぎ声にしかならなかった。


 男と肌を重ねることがこんなに気持ち良いことだとは知らなかった。邵可は自分の指の動きを、舌の感触を、体温を、匂いを、覚え込ませるかのように丹念に執拗に銀児を愛撫する。
 不意に、銀児の体が意思に反して跳ね上がる。背筋をじんじんと痺れさせて、体中を行ったり来たりする快感に銀児は悲鳴をあげた。
 あ、あ、と途切れ途切れに声を漏らし、邵可の胸にしがみつく。

「癖に、なりそ……」

 余韻にひたりながら朦朧とした意識の中で呟いた。

「なりなさい」

 耳元で囁かれるのと同時にずるりと体内に陰茎が侵入する。待ちかねたと言わんばかりに邵可の陰茎をくわえ込んで、ひくついた。
 垂れ流しだった幸福感は、もはや水瓶をひっくり返したようにどぷどぷと全身に行き渡る。粘性の強い幸福感に溺れて身動きがとれない。

 邵可は緩やかな動きで銀児の体内を往復する。くちゅん、と腹の奥に先端が当たるたびにじわじわと体が痺れた。

 銀児の目の端から涙が一筋零れる。怖い、のだ。幸せで幸せで仕方がないことが怖い。
 冷たい炎を宿した邵可の瞳を見上げる。
 快楽で躾られて、邵可の愛撫以外受け付けない体にされて、仮初の優しさで銀児の中に強制的に邵可の居場所を作られてしまった。
 もっと手酷く扱ってくれればよかったのに。最初だけでいい。物のように扱って、死んでしまうくらい乱暴にしてくれればよかった。そうしたら、諦められた。
 涙で霞んだ視界で、邵可の唇が意地悪い笑みを刻んだ。

「辛いの?」

 邵可は銀児の涙を指で拭う。

「やめようか?」

 深く突いていた陰茎を浅い箇所で往復させる。深い律動に慣らされた体が物欲しげに疼いた。銀児はいやいやと首を振る。

「ください。もっと、奥にください」

 くださいくださいと白痴のように繰り返して、邵可の首に腕を回す。首筋に何度も口付けを落とした。
 頭上からの呼びかけに銀児は顔を上げる。邵可の顔が近付いて、唇を重ねる。銀児はそれに夢中で応えた。
 暴力的に幸福を与えられ、銀児の意識はとんでしまいそうだ。
 邵可の舌を絡めとり、上顎を舐め、唇を食む。腹の中で邵可の陰茎がひくりと反応するのを感じて、幸せで失神しそうだった。

 邵可の唇が離れる。ほんの少しの時間で与えられることに慣れてしまった体が不満そうに疼いた。

「邵可様、もう一回ぃ……」

 銀児は餌を待つ雛鳥のように邵可の口付けを求める。浅いところで抜けていく陰茎に身をよじると、邵可は小さく笑った。

「ただではあげられないよ」

 陰茎が半ばで抜けていく。

「君は、私に何をくれるの?」

 もどかしい刺激に銀児は呻いた。何を? 私にはあげられるようなものは何一つ無い。
 どろどろの脳を回転させて懸命に考える。快楽と幸福と恐怖で壊れた脳は、その機能の半分以上を停止していた。

「全部あげます。……貰ってください」

 壊れた脳は一つの答えを出す。

「全部?」

 銀児はこくりと頷く。

「体も?」

 こくりと頷く。

「心も?」

 こくりと頷く。

「命も?」

 こくりと頷く。

 本当は、心も、体も、命も、あの日に奪われてしまったのだけれど。

 邵可は銀児に再び深く口付ける。陰茎が腹の奥底を押し上げた。
 急な刺激に銀児の頭は許容量を超えて、何が何だか分からない。どうしようもなく幸せで気持ち良いことだけは確かで、銀児は身を任せた。

 腹の奥の方で、ぐるぐると渦巻く快感がせり上がってくるのを感じて、銀児は声を漏らす。

 怖い。ここで達してしまったら、もう取り返しがつかない気がする。今なら、まだ引き返せるのかもしれない。
 銀児は敷布を掴み、敷布を蹴飛ばす。暴れてみるも、弛緩した体ではせいぜい布を乱す位しか出来ない。

「うあ、やだ。違う、いやじゃない。いやじゃないです……」

 支離滅裂な言葉を吐きながら銀児は着実に上り詰めていく。
 銀児はぼんやりと考える。これで良かったのだろうか。それも、目も眩むような快楽で塗りつぶされた。

 体内に吐き出されるねとねととした精液を夢想するとひどく幸福だった。