雨、或いは衰え




 てんてん、と季節違いの雨が屋根を打つ音を銀児は熱を帯びた意識の隅でぼんやりと聞いていた。
 意図的に声をかみ殺そうとすると、くふぅ、と妙な息が鼻から抜ける。それを聞いた邵可は骨っぽい指先で銀児の唇をすうとなぞった。

 秀麗も静蘭も邸にはいない。二人とも茶州へ赴いた。そのためか邵可も府庫から帰らぬ日が増えて、銀児はそれがひどく寂しかった。
 銀児は唇を開いてみる。ついつい声を我慢してしまうのは、もはや長年の習慣と化していた。覚えている限り、相手が邵可でなくとも、祝福されるような情交など交わしたことはない。いつも声をひそめていた。

「何か考えているの?」

 そう問う邵可の声には不機嫌が滲む。銀児は目を閉じた。着物の下を這い回る邵可の手の感触を感じる。

「昔のことを」
「昔のこと?」

 銀児は頷く。

「初めて邵可様の寝台にもぐりこんだ日のこと」

 ふぅん、と邵可は不機嫌そうな雰囲気を緩めた。

「今、私が銀児を抱いているんだけど。それじゃあ不満?」

 銀児はそれに言葉で返さなかった。ただ、その胸に頬を寄せてみた。
 ずるい男だ。自分は時折遠くを眺めて銀児を抱くのに、銀児には懐古することすら許してくれない。

 邸で一人ぼんやりとしているせいか、最近はよく昔のことを思い出す。まだ二十を少し過ぎたばかりだというのに、随分と年寄りくさいことだ。銀児は内心ため息をつく。
 邵可も年をとった。初めて相見えた十四年前は勿論、七年前に比べても邵可は穏やかになったように思う。
 昔の邵可はひたすらに厭世的であった。厭世的、というのは語弊があろうか。一見人好きする風に見せておいて、なんだか自身の内にこもっている男であった。
 銀児が邵可に預けられたのは薔君が亡くなって二年後であった。二年という月日は、妻を亡くした悲しみに邵可をいつまでも浸らせていてはくれなかったが、その多大な欠落を補うにはあまりに短すぎたのだろう。
 あの頃の邵可の、気の抜けたようでどこかぎらぎらしている様子が、銀児は好きであった。
 最近の邵可は昼行灯の演技が板につきすぎている。いずれ邵可との関係が、互いの兇手時代を知る男と女から、ただの主人と使用人になりそうで怖い。

 それでもやはり刹那に垣間見せる鋭さに衰えはなく、その気迫に銀児は恍惚としてしまう。

 さらさらと流れる黒髪、柔和な目元、表情、仕草、喋り方。体格すら着物の上から一見しただけでは、詐欺とも思えるほどに華奢に見える。
 女性的とはいわないが、男性的という印象は邵可から受けられない。そうであるのに、すうと開いた目が戸惑うほどに鋭いことを銀児は知っている。

「邵可様……」
「うん?」

 銀児は言いよどむ。

「邵可様は」

 邵可は無言で先を促した。

「邵可様は、昔よりずっと人らしくなられました」

 きゅう、と邵可は眉を顰めた。件の目が、銀児を見下ろす。銀児は言わなければ良かったと後悔した。自分は言葉の選び方が下手である。

「変な意味ではなくて……その……」

 銀児は弁解を口にしようとする前に手で口を塞がれ、結局なにも言うことが出来なかった。

「ちょっとお喋りが過ぎるね」

 言いながら邵可は銀児の頭を撫でた。銀児は口を塞がれたまま、上目に邵可を窺った。
 怒っているのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

「君は」

 邵可はぼんやりと宙を眺めながら、ぽつりと呟く。

「君は、よく喋るようになった」

 話の流れは銀児を責めるようであるが、邵可の口振りはどこか懐かしげであった。

「最初は本当に可愛気の無い子だったからね」

 今は可愛いということで良いのだろうか。邵可は小さく息を漏らした。

「ああ、そうだね……あの頃の君は……この世の全てに興味の無いような顔をしていたよ」

 銀児は黙っていた。そうだったのだろうか、と思った。

「今は……私が憎いのかな?」

 銀児はほんの一瞬動揺して固まる。
 憎い。
 心の中で呟いてみる。それは奇妙に銀児の心を波立たせた。

 憎いのか。この男が憎いのか。長年恋い焦がれてきたこの男が。
 自分がこれほどまでに慕っているというのに、身も心も粉にして奉仕しているというのに、邵可の中での銀児の立ち位置は、七年間変わらなかった。
 自分の過去を知った兇手。狸爺に押し付けられた娘。それだけだ。

 秀麗や黎深といった肉親ならば、まだ許せた。自分よりも邵可に大切にされていても、諦めがついた。
 だが、静蘭は許せなかった。ただ薔君の思い出を共有しているというだけで自分よりもずっと大切にされている。そんなのは狡いではないか。
 あの時殺していれば良かった。銀児は何度となくそう考えた。

 それでも、銀児が一番狡いと思うのは、やはり邵可であるのだ。
 それはもはや理屈抜きで、他の人ににこにこと優しげな言葉をかける邵可が狡いと思う。

 ひとり、ふたり、と銀児は邵可の大切な人を数えてみた。銀児は決して邵可の多くは知らない。
 しかしその人数が両手の指の数を越えた頃、銀児は自分の両の眼からほろほろと涙が零れているのに気付いた。

 ああ。と、銀児は得心した。
 自分は邵可の一番になれないことが悲しいようだ。悲しくて寂しくてどうしようも無いのだ。
 悲しい、寂しい、と邵可に訴えたならば、邵可はどうするのだろうか。そんなことを考えたが、どうせろくな事にならないので、そんな考えはさっさと振り払った。

 銀児は邵可が大好きで、そのせいで悲しくて寂しくて、だから邵可が憎いのだ。

 人間でいるのは面倒なものだ。

 銀児はそんなことを思う。人という生き物の精神構造は複雑すぎる。銀児はいつも自分の感情を持て余していた。
 愛しい恋しいと世迷い言を吐いた口で、呪詛を唱えることが出来る。愛しむように絡めた両の腕で、くびり殺すことだって出来る。

 多分、だから「好きだ」「愛してる」と言いたくて、言ってほしくてたまらないのだろう。
 そうでもしないとやっていられないのだ。

 この男の妻も、こういう感情を抱いたのであろうか。
 ふとそんなことを考える。
 
 邵可の奥深くに触れれば触れるほど、薔君に敵わないことを知る。
 自分では代替にすらなれやしないのだ。せいぜい、はけ口がいいところだ。
 邵可がある種の苛立ちと歪んだ愛情を以て銀児に接しているのには、薄々感づいていた。

 邵可の思い出の中の薔君はあまりに完璧すぎる。生身の人間では到底太刀打ち出来ない。
 せめて自分が目の覚めるような美貌であったならば、と思う。せめて自分の出自がしっかりとしたものであったならば、と思う。或いは、清廉な心を持っていたらこんな薄暗い感情を抱えることは無かったのではないか、と思う。

 銀児は茶碗を置いた。
 仮にそうであったとしたら、自分は邵可に出会えなかっただろう。だから、多分、これでいい。

 銀児は邵可が続きをするつもりがないのを見て取り、邵可の傍らに潜り込んだ。
 邵可の胸に額を押し付ける。温かかった。よい香りがした。とくとくと脈打つ心音に耳を澄ます。

 生まれ変わったら、驚くような美人になりたい。髪も黒く艶々としたのが良い。
 良いところのお嬢さんに産まれて、何不自由なく暮らして、そして――
 また、貴方の傍にいよう。
 今度はなんの気兼ねなく邵可の隣に立とう。

「邵可様」

 銀児の呼び声に邵可はわずかに表情を動かす。

「生まれ変わりって信じますか?」

 邵可は一瞬、眉間のあたりに力をいれたが、すぐにふうと笑った。

「いいや、信じていないよ」

 銀児も笑った。

「私もです」

 言って、銀児は邵可の背に腕を回した。