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眩いばかりの色彩である。柱の朱。天井の翠。壁の白。調度の黒。それから、思いついたように華やかに青、紅、金、銀が散らされる。壁に金泥を使ったところで、いったい何になるのかと銀児などは思うのであるが、ここにいる女達はそれをつゆほども疑問に思っていないようであった。
銀児がこの後宮というやたら豪奢な施設を理解出来ぬように、ここに住まう人間は銀児の産まれた環境を理解出来ぬのだろう。
銀児の産まれはこの国で考えられる最も劣悪な環境であった。貧しい茶州のさらに貧しい貧民街。人と獣の境の、ぎりぎり人に近いというような環境に産まれ銀児がここまで生き延びられたのは運が良かったからにすぎない。
そこから紆余曲折あり、現在銀児は何の因果か後宮の一室に佇んでいる。この国の最下層から最上層まで、裏も表も銀児は眺めてきた。日の糧を得るのに汲々とする人間がいる一方で、そういう人間が三度の人生を遅れるほどの金を腹も膨れぬ小さな調度に出す人間もいる。同じ生き物かと疑わしいほど、何もかも異なる両者だが、その心の働きだけは似通ったものがある。
「ねえ、銀児、どう思う?」
「……何がです」
「王のことよ。私、やっていけるのかしら」
銀児はそれには答えない。問うた秀麗も答えを求めたわけではない。
銀児は黙々と蔀の枠を探る。爪先にかすかな違和を感じて、銀児は慎重にそこへ爪を立てた。
ぱきり、と軽い音がして枠が外れ、中から短刀が覗く。よくよく検分すればそれは随分と錆び付いていた。昨日今日隠されたものではない。この持ち主も、刃が向けられる人間も、おそらく此処にはいないだろう。
磨き上げられた床に膝をつけば、床と壁の隙間に貼り付く茶色い膠に目が止まる。爪を差し込むと、それはぱらぱらと粉になる。膠ではない。血液だ。そしておそらく人間の。
白粉と伽羅の香りで銀児にも血のにおいは嗅ぎつけられない。だが、所詮、同じなのだ。獣のように力と血で以て欲を満たす。それが知れただけで、銀児には十分だ。
銀児の心は十分に慰められる。虚しいけれども。
「ねえ、銀児、さっきから何をしているの?」
「後宮に入る機会など無いですから、興味がひかれます」
「ああ、そうね。急な話で銀児には迷惑かと思ったけど、そういう風に楽しんでもらえると私も気が楽だわ」
紅をひいた唇で秀麗は笑む。
「後宮の作法など知りませんし、お世話係の女官などたくさん居りますから。私のことは兇手の刃の盾くらいに思っていただければ私も気が楽です」
「ちょ、ちょっと、やめなさいよ、そんな冗談」
銀児は黙って秀麗を見返す。う、と秀麗は言葉に詰まった。
「……もしかして、銀児、怒ってる?」
「少しだけ緊張しています」
「うう、ごめんね! でも、金五百両よ! 銀児に新しい着物も買って上げられるわ」
その時、扉が開く音がしたので、秀麗はさっと深窓の姫君へと表情を変える。銀児も壁際に下がって膝をついた。
「紅貴妃様、花茶をお持ちしました」
まだ幼い娘が、大人顔負けの優美な動作で茶を掲げた。あどけなさの残る顔に化粧を施した様はどことなく倒錯的で、銀児も思わずどきりとするほどに愛らしい。
しずしずと歩みを寄せる少女を秀麗は香鈴と呼んで温かく迎えた。香鈴も微笑み、茶を秀麗に捧げる。
小さく少女の悲鳴があがった。緊張のあまり着物の裾を踏んだのだろう、香鈴は躓き、高価な茶器が宙を舞う。
「危ない!」
秀麗はとっさに、貴妃の仮面をかなぐり捨てて香鈴を抱き止める。そのために茶が秀麗の着物にかかってしまった。香鈴はそれを見てがたがたと震える。
「わ……私、紅貴妃様になんてことを!」
香鈴を秀麗がなだめている間に、銀児は床に落ちた茶器を拾い上げた。零れた茶を拭き取ろうと思うのだが、壮麗な後宮の一室に雑巾などありはしない。
困った、と銀児は手元を見下ろす。秀麗が後宮に入内して五日、銀児はまだ後宮のどこに何があるか分からない。まさか、袖口で拭うわけにもいかないだろう。
「如何なさいました」
現れた珠翠に、銀児はほっとする。珠翠は室の様子を一瞥すると、てきぱきと指示を与え始める。
「銀児、あなたは裏の倉庫へ拭く物を取りに行きなさい」
銀児は会釈し、珠翠の隣をすり抜けた。すれ違い際に目が合う。ぎくり、としたように珠翠は一瞬表情を強ばらせた。
「珠翠様、これが落ちていたのですが、どう処分いたしましょう」
銀児ははたと足を止めると、懐から先ほどの錆びた短刀を取り出す。秀麗と香鈴には見えぬように袖に隠して珠翠に示すと、珠翠は目に見えて動揺した。
「……私が預かっておきましょう」
珠翠はそれを受け取ると、素早く紙にくるんで袖にしまい込む。銀児は一礼して踵を返すが、珠翠に背を向けたところで内心舌を出した。
人の目の無いところで改めれば、それが古いものであることなど珠翠であればすぐに突き止められるだろう。ほんの、悪戯だ。人の顔を見てあんな顔をされては、面白くない。
ほんの、ささいな、意地悪である。
銀児は貴妃の室の裏手にまわり――と言っても、裏手にまわるだけでかなりの距離である。何しろ、回廊や渡り廊下が入り組んでいるのだ――倉庫から雑巾と桶を持ち出した。
銀児はあたりに誰もいないことを確認すると、雑巾と桶を中庭から回廊に放り込み、一息に自分も欄干を乗り越える。
「おやおや、随分とおてんばなお嬢さんだ」
ふいに声がして、銀児は息を止めた。跪拝してそちらを窺うと、若い青年がにこりと笑っている。
王だろうか、と銀児は身構えたが、どうやらそうではない。何より、衣が藍色だ。黒髪をきりりと結い上げた美丈夫である。おそらくは、軍人。それも手練れであろう。欄干にしどけなくもたれかかった姿にも隙がない。つかつかと男は銀児に歩み寄る。
「見ない顔だね。紅貴妃の室付き……にしては格好が粗末だ」
粗末とは随分な言いようだ。これでも、後宮の端女のお仕着せを借りて着ている。銀児が持っているどの着物よりも上等なのだが。
優しげな、だがどこか疑わしげな目で、男は銀児の顔を覗き込んだ。やっと銀児はこの男が軍人であることを確信する。左手が無意識に腰へ伸びた。剣の鞘を押さえる動作だろう。
銀児は無言で男の顔を見返した。
銀児が秀麗に付いて歩いているのは、紅貴妃が馴染みのある実家の家人を置いている、という建て前のもとの護衛である。
一応静蘭が公式な護衛としてついているし、珠翠だっている。銀児の仕事は一日の秀麗の様子を邵可に報告して、褒美をもらうことだ。
銀児にとって後宮をうろつく王以外の男は十分に警戒に値する。相手が自分を警戒しているなら尚更だ。
黙り込んだままの銀児に男は顔を近付けて微笑む。己の顔の良さを自覚しての所作だ。そしてそれを利用することに些かの躊躇いもない。
「だんまりかい? 口がきけないのかな?」
からかうように男は言った。
銀児が恥ずかしがって口をつぐんだと男は思ったのだろうか――たとえば銀児がこの男に見とれていた、とか。
銀児は男の問いに、小さく頷いた。
何者かを装うなら知恵遅れか不具者が良い。とくに唖者は余計なことを喋らずにすむ。さらに相手の警戒は緩み、思わぬ情報をも零してくれる。
男は一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐにもとの完璧な微笑を取り戻した。
「それは残念だ。君の声が聞いてみたかったね」
言って、男は銀児の頬を撫でる。銀児は驚きのあまり本当に声も出さず目を丸くした。よくもここまでの台詞が泉のように湧き出るものである。口下手で非社交的である銀児などは、この手の人種と自分が同じ生物であることが信じられない。
「新米掃除婦さんだね、頑張るんだよ。そうだ、足止めしたお詫びにこれをあげよう」
男は袖口から小さな包みを取り出し、銀児に握らせた。
「ああ、それからね、女人が欄干を越えるなんて真似をしてはいけないよ。君の白い脚がよく見えて、私は嬉しかったけどね。そういうものは大切な男にだけ見せるものだよ」
男はそう言ってぱちんと片目を閉じると、またふらりと後宮のどこかへ消えていく。銀児はそれを呆然と見送っていた。はっと気付いて包みの中身を改めてみる。
小さな可愛らしい干菓子だ。男の正体が分からない以上、無闇に食べるわけにはいかないが。
銀児は床に放り出された桶を拾い上げ、秀麗の室へ向かう。
ふと男の言葉を思い出した。銀児は床を蹴る自分の脚を見下ろしてみる。銀児には男女の機微はよく分からない。
秀麗の室の前で名乗りかけ、銀児は思いとどまった。「口のきけな端女」という設定はなかなか使える。そもそも話しかけられたところで、何を答えたらいいか分からないのだから、いっそ話せないものとして扱ってもらったほうが気楽だ。
秀麗と珠翠に事情を話して、それで通そうかと考えているところに室内から声をかけられた。
「何をしているのですか。早く入りなさい」
銀児はそろりと室に入り込んだ。室内には珠翠だけが立っていて、秀麗の姿が見えない。
その視線に気付いた珠翠が言い添えた。
「紅貴妃様は中庭でお茶をしておいでです」
「……お一人でですか?」
「そうですが……」
聞いた途端、外へ向かおうとする銀児を珠翠は呼び止める。
「中庭は府庫からよく見えます。心配する必要はありません。それより、早く床を清めなさい」
銀児はそれを聞いてしぶしぶ雑巾を手にした。他ならぬ邵可の監視下ならば何より安全だろう。ただし、銀児自身の勤めが不出来だと邵可に叱られる可能性はある。
「随分と遅かったですね。何かありましたか?」
珠翠が問う。銀児はしばし手を止めた。
「妙な男が」
「妙な男? まさかそれは藍の衣の……?」
銀児が「どうして分かったんだ」という顔をすると、珠翠は表情を険しくした。
「あの方は、まだ後宮をふらついているのね! 紅貴妃様がいらせられるというのに、なんという狼藉でしょう!」
普段は落ち着いた淑女である珠翠が声を荒げるのを聞いて、銀児はあっけにとられる。珍しいものを見た。
「……ご常連ですか?」
「そのような言い方はおやめなさい。侵入者ですよ。私は歓迎していないのですが……」
「ああ、あの色男ぶりでは」
女官の方が喜んで匿うだろう。珠翠も、はぁと溜め息をつく。
銀児は茶を含んだ雑巾を桶に放り込んだ。あとは僅かな水気が乾燥するのを待つだけだ。
「それと、先ほどの短刀ですが、とても古いものですので気にする事は無いです」
「用心するに越したことはありません。かつて警備の目をかいくぐってここに凶器を隠した人間がいることは事実です」
「警備は万全です。蟻一匹入り込めません」
銀児はじっと珠翠の顔を見た。
「……男は入り込んでいましたが」
珠翠は気まずげに目を逸らす。
「あればかりは……」
おそらく、藍家でも身分の高い男なのだろう。そうでなければ珠翠がとっくに男の尻でもひっぱたいて追い出しているはずだ。
何にしろ、後宮は閉ざされた空間のようで意外と人の出入りが多い。不埒な警備兵に小銭でも握らせれば忍び込むことは容易だ。一度忍び込んだら、堂々と歩いていれば良い。
大勢の女官の顔を全て覚えている者は――筆頭女官たる珠翠を除けば――そういない。女官だけでなく掃除婦や雑役婦もいる。そうなるともう珠翠でさえお手上げである。
珠翠は何事か考えていた様子だが、小さく息をついて首を振った。
「銀児、考えすぎです。紅貴妃様が狙われる理由などありません」
「私は臆病ですので」
銀児が言うと珠翠は肩をすくめる。それに、と銀児は続けた。声をひそめて、囁く。
「あの外道――失礼、霄大師が持ち込む話が美味い話である筈がない」
思い当たる節があるのだろう。珠翠は急に不安げに眉をひそめた。
「銀児、私は紅貴妃様に無用な心配をかけたくありません。たとえ後宮で何があろうと、紅貴妃様が後宮を辞するまでは隠し通すつもりです」
きっぱりと珠翠は言い切る。もとより、限られた期間の貴妃。不可能ではない。それで王が立ち直れば万々歳。立ち直れずとも霄太師が何がしかのあくどい手を考えつくだろう。
ただ、銀児は分からなかった。珠翠が、そうまで秀麗を擁護する理由が。
百歩譲って、邵可への好意を認めるとしよう。しかし、それが秀麗への愛情に移り変わる過程が、銀児には分からない。
銀児にとって秀麗は邵可の娘で、主の家族だ。主が娘を守れ、と言ったならば守る。そのために命を落とすかもしれないが、それはそれだ。銀児の秀麗への献身は、ただ邵可の意思でしかない。
珠翠は違う。珠翠は秀麗に、何がしかの情を持って接している。
「珠翠様は、どうしてお嬢様を贔屓なさるのですか?」
銀児は、思わず問うてみた。珠翠はばつの悪そうな顔をする。
「贔屓など――」
「言い方が悪かったです。どうして、お嬢様を大切になさるのですか?」
たとえば、秀麗がいなければ邵可は後妻を娶るかもしれない。その際、珠翠ならば教養も美貌も申し分ない。それは無いにしても、珠翠は邵可を訪れやすくなるだろう。
珠翠は曖昧に笑う。
「私は邵可様が大切です。だから、邵可様の大切なものも大切です」
銀児は眉間に皺を寄せる。
――それが、分からないというのに
「私も邵可様が大切です。でも、それだけです」
銀児はおそるおそる尋ねる。
「……おかしいですか? 私は」
珠翠は曖昧な表情のままで、何も答えなかった。
銀児は少しだけ安堵する。もしも彼女が「それはおかしい」と自分を糾弾したら一体自分はどうしたろう、と銀児は考えた。
きっと、どうもしないだろう。「ああ、そうか。自分はおかしいのか」と確認して、それで仕舞いだ。そう結論づけて、銀児は珠翠に視線を向ける。
珠翠は翡翠色の瞳を伏せる。亜麻色の睫毛が白い頬に影を落とした。
「ただ、奥様と共に居た邵可様はとても幸せそうだったから、その幸せを少しでも守って差し上げたい」
――紅薔君
銀児は唇を噛む。
何度も聞いたその名を、銀児は形容しがたい気持ちで受け止める。
銀児の知らない、邵可の妻。邵可が心から愛した女。しかし、もう亡き人でもある。悼むべきか、妬むべきか、よく分からない。紅邸で彼の女人の記憶を共有しない意味は大きい。
「お優しく、厳しく、美しい、素晴らしい方でした。私は――」
銀児は懐かしむような珠翠から顔を背けた。
聞きたくないし、聞く必要もない。それでも、気になって仕方がない。ひくり、と銀児の喉は震える。銀児は珠翠に背を向けた。
「どこに行くのですか?」
「……府庫へ」
銀児は豪奢な扉に掌を当て、押し開ける。それ以上、その話をしていたくはない。珠翠は銀児を呼び止めなかった。
後宮に程近い、朝廷の寂れた一角。銀児はその古い建物に潜り込む。古い紙と墨の匂いが心地よい。
「しょ、かさま」
埃っぽさに、けほん、と銀児は咽んだ。そのままふらふらと邵可の姿を探す。覆い被さりそうに連なる書架の間を縫いながら、銀児はようやくその姿を見つけた。
「旦那様」
府庫の隅には明かりとりから朱い西日が強く射し込んでいる。それが邵可の姿を濃く映し出した。
銀児はもう一度邵可の名前を呼ぼうとするが、邵可自身に遮られる。
「君はここに来ちゃあ、駄目だろう」
「すみません……でも、」
でも? でも、なんだろう。銀児は言葉に詰まる。
「……会いたかったんです」
吐き出された言い訳は、言い訳とも呼べない稚拙なものだった。まったく、幼子とてもう少しましな言い訳を考えつくだろう。
邵可は溜め息をついて、振り返ろうともしなかった。
「秀麗がね、陛下に会ったよ」
ああ、と銀児は呻く。このまま遭遇することなく、頂けるものだけ頂ければ一番楽だったのだが。
「……どうでしたか? 上手いことやれそうですか?」
「さあね、どうだろう」
銀児はあれこれと言おうとするのだが、邵可は顔を上げようとすらしない。俯いたままの邵可に歩み寄り、そのうなじを見下ろした。
「旦那様」
銀児は呟く。
「旦那様」
邵可は微動だにしない。くっ、と銀児は喉を鳴らした。
「……邵可様」
銀児は邵可のうなじに唇を寄せる。皮膚を隆起させる頸骨を食む。
「……銀児、やめなさい」
鬱陶しげな邵可の声を聞いて、銀児はそれに歯をたてた。邵可の機嫌を伺うように、徐々に徐々に力を強める。
「銀児」
ぐるん、と景色が反転した。背に卓の天板があたり、息苦しい。
邵可の上体が銀児に覆い被さった。邵可の唇が銀児の鎖骨に寄る。湿った息が胸元にかかる。邵可は銀児の鎖骨に唇をあてがうと、一切の躊躇も遠慮もなく、鋭い歯を銀児に食い込ませた。
ぶつり、と邵可の犬歯が銀児の皮膚を突き破る。銀児は小さく悲鳴を上げた。
――ああ、やっと私を見てくれた。
それは歓喜の悲鳴だったのだろうか。刻まれた痛みが愛おしい。銀児の胸元に穴を穿ちた鋭い牙が抜き取られ、たらたらと熱い血が流れた。
「やめなさいと言っただろう。痛い目をみないと分からないのかい?」
銀児はこくりと頷く。
分からない。分かりたくない。分からなくて良い。
それは不可侵だ。銀児の心の真ん中の、一番濃密な芯の部分を、どうにかしようというのはたとえ邵可だろうと許されない。
邵可に去ねと命じられれば今すぐここを去ろう。死ねと言われればこの場で喉を裂いても良い。
だが、それだけは駄目だ。
銀児は息苦しさに喘いだ。目の端にたまった涙が夕日を強く反射して、邵可の表情はよく見えなかった。