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 珠翠は落ち行く夕陽に翡翠の瞳を細めて、羅紗の窓掛を閉めた。

「あら、開けていても良かったのに。せっかく綺麗な夕焼けよ」
「いけません、紅貴妃様。夕刻になれば紗を下ろさねばならないのです」

 薄暗がりに乗じてどのような不埒な輩が貴妃の室を覗くとも知れないのだ。秀麗はそれを聞いて、やれやれという風に肩をすくめた。

「なんだか窮屈ねぇ。やっぱり私にはお姫様なんて向いてないわ」

 珠翠は苦笑する。

「そんなことはございません。素晴らしい貴人ぶりですよ」
「よしてよ、もうくたくただわ。明日にでも暴れ出してやりたい気分よ」
「では、少し早いですが夕餉に致しましょう」

 珠翠は人を呼んで夕餉を運ぶよう伝えた。その人と入れ替わるように、茶器を携えた宮女が叩扉する。

「紅貴妃様、お食事の前にお茶をお持ちしました」

 すると、秀麗の先程まで足を投げ出し、団扇を所在なくぷらぷらさせていた少女らしさは音もなくなりをひそめた。きちんと脚を揃え、蝶の刺繍を施した団扇で口元を隠す。

「ありがとう。そこへ置いていって頂けますか」

 珠翠は、ほうと溜め息を零した。それは、紛れもなく薔薇姫の所作によく似ている。作法だけではない。珠翠の前で見せる少女のような無邪気さまで、秀麗は亡き母親の姿を強く珠翠に思い出させた
 きゅ、と珠翠は目を瞑る。何も見えない視界が朱に染まるのは、夕焼けのせいだろうか、己の血潮のせいだろうか。
 美しい人だった。誰より美しく、強く、劇しく生きた女人であった。
 珠翠は秀麗に薔薇姫の面影を重ねてみる。ふいに銀児の顔が脳裏をよぎって、珠翠は眉をひそめた。

 彼女を珠翠は苦手に思っている。元来人好きのする娘ではないだろうし、彼女の生い立ちを鑑みれば内向的な性格であることは致し方ない。それを差し引いてさえ、珠翠は銀児のことがはっきりと苦手だった。
 銀児は珠翠の大切な人の幸せを見守るという幸福を、真っ向から否定するのだ。
 その、冷ややかな褐色の瞳は何者も映してはいない。いや、まるで、映すべきものは何もないとでも語るかのように、その目は虚ろで曖昧だった。

 大切な人の大切なものを守りたいという珠翠の念願を、銀児は嘲笑うかのように邵可の邸におさまった。霄太師や邵可にどういう意図があったのかまでは、珠翠は聞いていない。
 慕う男は、珠翠の知る限り最も秀でた男だった。その男の思い人は、珠翠の知る限り最も秀でた女だった。
 諦める以外にどんな道があろう。

 ――それを、銀児は知らない。

 邵可がいかに薔薇姫を愛していて、その薔薇姫がいかに素晴らしい女人であったかを、銀児は知らない。
 無知は悪徳だ。だが悪では無い。幸福ですらある。
 とにかくあの銀児という娘は、何を考えているのか分からなかった。
 風体の通り何も考えていないのか、それとも茫洋としているのは表面だけで、実は複雑な造りをしているのか。それすらはかりかねる。

 初めて銀児とあいまみえたとき、銀児はまだ今の秀麗と変わらぬほどの少女であった。痩せぎすで手足ばかりひょろりと目立つ、少年のような姿であったと珠翠は記憶している。

「霄太師に預けられた子でね、名前は銀児という」

 邵可はそう言って、傍らの少女を示した。珠翠が少女をじっと見つめると、少女――銀児は邵可の影で小さく目礼した。
 白いな、と珠翠は思った。安直な感想だ。その少女は髪も肌も作り物のように白い。

「……霄太師、ですか?」

 不吉な名である。彼の人が持ち込む話が碌な話であった試しはない。珠翠が呟くと、邵可は僅かに表情を曇らせた。

「同業者だよ。いや、元同業者かな。君や私の」

 兇手、ということか。珠翠は銀児をまじまじと観察する。
 一見すると、銀児は何の変哲もない娘に見えた。たとえば、田舎から売られてきた貧しい娘、と言われれば珠翠は信じたかもしれない。だが、その硝子のような双眸だけは、紛れもなく人殺しのものだった。邵可の背後で縮こまる銀児は、手負いの獣のような目で珠翠を睨んだ。

 久しぶりに会った銀児は、以前より幼さの抜けた顔になっており、幾分か雰囲気が和らいでいた。珠翠の記憶の中の銀児は、とてもではないが後宮に出仕など出来るような娘ではなかった。だから珠翠は銀児が秀麗についてくるとは考えもしなかったし、銀児の姿を見た瞬間、思わず驚きを顔に出してしまった。
 失礼なことをした、と珠翠は溜め息をつく。

「どうしたの、珠翠」

 秀麗は首を傾げて珠翠を見上げた。

「ええ、銀児のことで……」
「銀児がどうしたの? あ! まさか、珠翠に何か失礼なことでもした?」
「いえ、そんな」

 珠翠は慌てて首を横に振る。

「銀児は確かにちょっと……いえ、かなり無愛想で取っ付きにくいところがあるけど、気が利く良い子だから」

 ね、と秀麗は小首を傾げる。珠翠は眉尻を下げて笑った。

「銀児もねぇ、もっと愛想よくすればいいのに」

 秀麗は溜め息をつくと、おどけるように肩をすくめる。

「婚期まで逃しちゃって。銀児は若く見えるけどもう二十を過ぎてるのに、浮いた話一つ無いんだもの。そりゃあ、私も人のことは言えないけど」

 たしかに銀児は幼く見えた。とりたてて童顔というわけではないが、ひどく子供じみた印象を受けるのだ。起伏の少ない体は、成熟した女らしさをにおわせすらしない。
 だが、やはり、瞳だけはまるで老いたように諦観を含んでいる。

「一生この家に仕えるって言ってくれるのは嬉しいけど、銀児には自分の幸せも掴んで欲しいの。ほら、あの子、あんなだから、色々誤解されちゃうでしょ? 理解のある旦那さんがいれば、もっと肩の力も抜けると思うのよ」

 珠翠はふと、銀児がどこか遠くに嫁ぐ様を夢想して、少しだけ胸の晴れたような気持ちになってしまった。まるで、銀児を邪険に思っているようではないか。
 いや、思っているのだろう。薔薇姫亡き今、邵可の正体を知り支えることが出来る人間は少ない。邵可は肉親に頼らない上に、霄太師は外道であるから、必然、残るは珠翠だけだ。
 そのはずなのに、いきなり現れた銀児が涼しい顔で邵可の傍らにいるのは、なんだかとても理不尽な気がするのだ。

「なんだかね、銀児は可愛げはないけど、あぶなっかしくって放っとけないのよ」

 秀麗が慈しむように言って、からりと笑う様子に、珠翠の記憶の中の薔薇姫が重なった。もしも彼女が生きていたら、銀児にどのように接していただろう。
 銀児の頬を横に引っ張り笑わせようとする薔薇姫の姿がふと思い浮かんで、珠翠はおかしいよう切ないような不思議な気持ちで小さく吹き出した。

「なぁに? どうしたの珠翠?」

 秀麗は目を丸くして珠翠を見上げる。いいえ、何も。と珠翠は微笑む。
 丁度その時、夕餉を運んできた数人の宮女が扉を叩いたので、珠翠はそれを迎え入れた。

「珠翠様」

 一人の宮女が珠翠に耳打ちする。

「霄太師がお呼びでございます」
「……霄太師が?」

 珠翠は眉をひそめた。何の用かは見当もつかないが、愉快な話ではないことは確かだ。
 珠翠は「霄太師のお呼びがありましたのでしばし失礼いたします」と秀麗に告げた。すると秀麗は珠翠を呼び寄せ、声をひそめる。

「あの方達に下がって貰えるかしら? こんな大勢に囲まれていては食べにくいの」
「かしこまりました」

 珠翠は給仕を一人残して宮女達を帰すと、自分は霄太師のもとへ急いだ。

 日暮れた回廊を歩き、珠翠は霄太師の待つ四阿に急ぐ。朱色の光が飴色に磨き上げられた後宮の床を艶々と光らせる。
 中庭の白い桜に、濃い影が落ちる。桜の白い花弁を透かす淡い橙の光が柔らかく地面を照らしていた。

「霄太師」

 珠翠は膝をつく。白髭をしごく老爺が密やかに笑った。人好きする笑みと裏腹に、白い眉の下の瞳は老獪さをたたえている。

「来たか。まあ、かけなさい」
「いいえ、ここで失礼いたします」
「随分嫌われたもんじゃのう」

 まあ良い、と霄太師は言って、珠翠の方へ体を向けた。

「紅貴妃が陛下にお目通り叶ったのは知っておるな」
「ええ、聞き及んでおります。しかし主上は藍を名乗ったようです」
「仮に、陛下に王と名乗る気がないにしても、周りはどう見るかのう」

 ふ、ふ、と霄太師は笑う。珠翠は首筋のあたりにいやな汗をかいた。

「……何をおっしゃりたいのですか?」

 珠翠の問いに、霄太師はもったいぶることもせずに言う。

「朝廷はわいておる。紅貴妃に迎合する者もおろう。だが、貴妃の座から引きずり落とそうとする者も、亡き者にしようとする者も同じだけおろうな」

 珠翠は目を伏せた。それだけは避けねばならない。若い娘の命を、権力争いのために散らされては堪らない。

「珠翠、腕は落ちておらなんだな」

 霄太師は言う。珠翠ははっとして顔をあげた。

「自ら願い出て邵可から息女を預かった手前、無傷で帰さねば儂の面子に関わろう」

 この男が、秀麗を守ろうと言うのか。珠翠は猜疑に満ちた目で霄太師を見つめた。

「朝廷の不穏な動きは儂が抑えよう。珠翠、おまえには後宮で紅貴妃に直接手を下そうとする輩を任せたいのじゃ。出来るな?」

 珠翠はぐるぐると思考を巡らせた。霄太師を味方に付けられる程、有利なことはない。だが、根っから信用することも出来ないのだ。
 事実、霄太師は国のために若い娘を贄にすることを躊躇わないだろう。伊達に長いことこの男の手駒はしていない。秀麗も、邵可も、珠翠も、そしておそらく霄太師自身まで、この老獪な政治家にとっては国家という遊技板に配置された駒にすぎないのだろう。
 だから、信用ならない。多数の兵士や女王をとられようと、王さえ無事ならその試合は“勝ち”であるのだ。

 とはいえ、他に良い手はない。宮女とはいえ朝廷の一員であり、元風の狼である珠翠に断る術もない。
 珠翠は頭を垂れる。霄太師にどんな思惑があろうと、自分は従うしかない。その中で出来うる限り、秀麗を守らねばならない。

「用はそれだけじゃ。下がりなさい」

 珠翠は言われるまま紅貴妃の室に戻ろうとして、ふ、と霄太師の方を振り向いてみた。強い逆光で影しか見えない。
 珠翠は再び足を進めたが、はたと歩みを止めた。

 ――今のは、本当に霄太師だったか?

 長身ですらりとした、まるで若い男の影のようではなかったか。まさかそんなはずはない、と珠翠は首を振る。先程まで話していた相手ではないか。きっと光の加減だ。
 そう自分に言い聞かせで珠翠は後宮に足を踏み入れた。濃い陰影が落ちる廊下の向こうからぬっと現れた人影に、珠翠はぎょっとして身構えた。

「……銀児?」

 白い髪が揺れる。瞳は夕陽を受けて濃い朱を映していた。珠翠は胸を撫で下ろしたが、銀児の様子がおかしい気がした。熱に浮かされたようにふらふらとして、瞳も虚空を移ろっている。

「どうかしましたか?」

 珠翠が問うと銀児は不思議そうな顔をした。

「いいえ、何も」

 そう言う銀児の襟元に赤い染みを見つけて、珠翠は色をなした。

「……まさか、紅貴妃様に何か?」

 珠翠の視線を辿り、自身の胸元に視線を落として、銀児はああと得心したように頷いた。

「これは私の傷です」
「あなたの?」
「はい」

 銀児は襟口を開けて見せた。たしかに銀児の鎖骨の上あたりの小さな傷に血が滲んでいた。 珠翠は秀麗な「あぶなっかしくって放っとけない」という言葉を思い出して、内心で同意する。

「ついて来なさい。手当てをしましょう」

 遠慮されるか、と思ったが、案外銀児は素直に珠翠の後ろをついてきた。ひたひた、と背後から足音がする。
 後宮の自室に銀児を招き入れると、珠翠は室の扉を閉めた。銀児はひどく居心地の悪そうな顔をして珠翠を見つめ返す。

「そこに座っていなさい。今、薬箱を持って来ますから」

 珠翠が椅子を示すと、銀児はおずおずとそれに座った。紅貴妃の室までとは言わないまでも、それなりに華麗な室にぽつりと座る銀児の姿を、珠翠は薬箱を出しながら横目に眺める。
 所在なさげにうつむきながらも、好奇心に満ちた視線で調度品を盗み見る姿は、やはりどこか子供っぽく見えた。

「肩を出しなさい」

 珠翠が言うと、銀児は襟を緩めた。珠翠は銀児の血を綿で拭い、傷口の周りに触れた。触れた瞬間に銀児はわずかに身じろいだ。
 見た目通りに痩せた体は、決して弱々しくはなかった。触れると骨は固く肉はみっしりとしている。襟を押さえるために晒された手首は、珠翠のものより肉は薄いが関節が太い。ふと北斗のことを思い出す。彼も、そういう体をしていた。傷ついた北斗を珠翠は何度となく手当したものだ。
 当然、女である銀児の体は北斗のものよりずっと華奢だが、銀児も人を殺めることのできる体をしているという事実をじわじわと思い知らされる。

 見た目の割に深いようである傷は、どこか細くない血管を傷付けてしまったのか、拭いても拭いてもじわじわと血が滲んでくる。しかし、縫うほどの傷ではない。
 珠翠が酒を含ませた綿で傷口を洗うと、しみたのだろう、銀児は肩を震わせた。珠翠は銀児の 白い肌を見つめる。白粉を叩くよりも真白い肌は、膚の下に青い静脈が透けて見えて、不健康に青白い。
 珠翠の傷の手当てを眺めて伏せられる目の、瞼にさえ青く細い血管が見えていて、何故だか解らないが珠翠は、それを気味悪く思うのと同時にひどく艶かしく感じた。

 珠翠は銀児の胸元から目を離して、清潔な布に血止めの膏薬を塗り、銀児に手渡す。

「圧迫して、血止めをなさい」

 言うと、銀児は手慣れた様子でそれを傷に押し付けた。室内に沈黙がおりる。自分の息をする音がやたら大きく感じた。
 つ、と銀児は珠翠に視線を向ける。

「どうしました?」

 珠翠はその視線に問いかける。銀児は目を伏せた。

「いえ、……ただ、嫌われていると、思っていたから」

 ぽつん、と銀児は呟く。図星をつかれたようで珠翠は再び押し黙った。

「だから、申し訳ないです。ここまでしてもらって」

 常にひんやりとした瞳が、どうしてか揺れていた。伏せた白い睫毛の隙間から覗く瞳は、今は達観も諦観も帯びてはいない。ただ、怯えた動物のような瞳をしている。
 ああ、と珠翠は思い至る。どうして苦手に思っていた銀児を自室に招き入れたのか。傷の手当てをしてやろうと思ったのか。
 その瞳にかつてのねめつけるような、敵意とも言い難い、薄暗い視線を感じなかったからだ。
 ふう、と珠翠はため息をつく。銀児はびくりと身をひいた。これではまるで自分がこの娘をいじめているようではないか。

「別に、嫌ってはいません。……ただ、苦手ではありました」

 それが、正直なところだ。嫌い、などという積極的な感情ではない。

「羨ましかったのだと思います。邵可様のお側にいられるあなたが」

 銀児は珠翠の言葉に目を細め、苦笑めいた表情を作ろうとした。だが、それは、わずかに悲しそうな表情を形作るにとどまっている。
 ひゅう、と銀児の喉が鳴る。

「私は、あなたの方が羨ましかったし……気に食わなかった」

 気に食わなかった、と珠翠は心の内で反復した。なんのてらいも無い様子でそう言われて、珠翠はもはや衝撃を受けることもない。そうか、と思った。

「多分、それは珠翠様が私よりずっと邵可様のことを知っていたからです。邵可様が珠翠様の方がずっと――大切に思っているのは、分かっていた」

 でも、もう、いいんです。と、銀児は怒るでもなく、悲しむでもなく、淡々とそう言った。

「そんなことは――」
「下手な慰めはやめてください。惨めになります」

 珠翠は黙り込み、銀児の白い顔を見つめる。あの視線さえ向けられていなければ、銀児は無害どころか物静かにさえ見えた。

「私は、邵可様に構って欲しくて必死なんです。少しでいいから、お心に留めてほしい。なのに、珠翠様は離れていたって、邵可様は珠翠様のことを大切に思っていらっしゃいます」

 ひく、と痙攣っぽく銀児は息を吸った。

「私と珠翠様で、いったい何が違うというのでしょう」

 死んでやる、とか、とにかくそういう陳腐な台詞を吐いて、自身の首筋に刃物を押し当てる銀児の姿がふいに思い浮かんだ。
 銀児が、そんなことをするだろうか。銀児の淡々とした様子は、そういう婉曲な手段よりも、もっと短絡的で効果的な手を使いそうに思えた。

「……すみません」

 低く、銀児は呻く。そうして、銀児はふらふらと立ち上がった。

「ありがとうございます」

 会釈するように首を傾け、室を出て行こうとする銀児を珠翠はとっさに呼び止めた。

「暇があったら、また来なさい。……お茶くらいは出しましょう」

 哀れみ、なのだろうか。だとしたら随分と傲慢だ。しかし、そうだとしても、珠翠は――秀麗の言葉を借りるなら――放っておけないと、思ったのだ。
 銀児は少しの間目を丸くしたが、曖昧に表情を歪めると会釈して室を出て行った。