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「おや」
府庫の一室の扉が開く。銀児は顔を上げる。
「あの二人、また来ている」
邵可は室に入るなり外を眺めてそう言った。次いで銀児にも視線を移す。
「で、君も来てるの?」
こくり、と銀児は頷いた。
中庭で逢瀬を重ねる二人――秀麗と藍楸瑛こと紫劉輝――を監視がてら、銀児は頻繁にこの室に赴く。いや、この室に赴きがてら、二人を監視していると言ってもいい。
ぺたりと床に座り、何か書物を広げてそれを眺めている銀児を見下ろして、邵可は溜め息をつく。
「仕事しなさい」
銀児は唇を尖らせ、外の方を指差した。
「いつも静蘭がべったりだから、私は用無しなんです」
ああ、そう、と邵可は外を一瞥し、席につく。銀児は書物を持って、少しだけ邵可の足下の方へ移動した。
銀児は再びそれに視線を落とす。銀児は読み書きがさほど得意ではない。だから府庫にいても退屈なばかりなのだが、今日は挿し絵の多い本を見つけたので、それで邵可がいない暇を潰していた。
「だって、邵可様がいなきゃ息も出来ないのに」
銀児は呟く。邵可は多分それに聞こえない振りを決め込んだ。
銀児は溜め息にもなりきらない吐息をつきながら、華やかな挿し絵を眺める。基本的な読み書きくらいならば出来るから、分かる文字を飛び飛びに拾って読む。楽しいかと問われれば、正直なところ半分も理解出来ないのでどうとも言えない。
「邵可様、じょうしってなんですか?」
銀児が問うと、邵可は自分が読んでいた書物から顔を上げた。
「どんな字だい?」
銀児は邵可の手をとり、その手のひらに指で字をなぞる。情死、と。
すると、邵可は少しの間眉をひそめた。
「……恋人同士が一緒に死ぬことだよ」
「ああ、そうなんですか」
別に、言葉の意味が本当に知りたかったわけではない。銀児は再び本に目をやり、分からない言葉を探す。
「邵可様、桃のはなびらが染まれば柳の腰もゆれるってどういう意味ですか?」
何かの詩の引用だろうか。なんとなく小難しそうだから聞いたのだが、邵可は銀児の方をまじまじと見つめた。
「銀児、何を読んでいるんだい?」
問われた銀児は読んでいた本の表紙をひっくり返す。
「ええと、好きな、色は、青色……?」
ひょいと邵可に本を取り上げられた。
「好色青梅噺。……艶本だよ。どこから持ってきたの?」
「そこの書架に」
官吏の誰かが紛れ込ませたのだろうか。まさか、府庫の蔵書ではあるまい。 もしくは――
「……邵可様の物ですか?」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ」
間髪入れずに邵可が言うので、銀児は良かったと笑った。
「そんなもの持っていたら、秀麗や珠翠が泣きますよ」
言いながら、邵可の膝に頬を擦り寄せる。優しくて信頼できる父親であるのも、簡単ではないようだ。優しい男でも無惨絵に欲情することだってある。人間なんて、そんなものだ。
「泣きはしないだろう」
「いいえ、きっと泣きます」
ましてや、邵可が時折思い出したかのように銀児を苛むことを知れば、銀児は秀麗や珠翠に殺されかねない。いや、その場合、静蘭も怪しい。
銀児は邵可の顔を見上げる。穏やかで優しげで理知的な、文官めいた相貌である。誰がこの男を無双の兇手だったと思うだろう。
「邵可様」
「なんだい」
「どうして後宮はこんなに人が多いのですか」
銀児がぼんやりと書架を眺めながら問うと、邵可は吐息のように笑った。
「それは、君があんまり人に会いたがらないだけだろう」
それもそうだが、それにしても後宮は人が多く、華やかで、明るすぎた。
銀児は紅邸の中のことさえ考えていれば良かった。その前は自分のことだけ考えていれば良かったのだから、銀児にしてみれば大きな進歩だ。それをいきなり人だらけの後宮に放り込まれるのは、少々荷が重すぎる。
仕事で潜入するのとはわけが違う。銀児は銀児として認識されて、銀児として人に接しなければならない。与えられた役割を演じることは出来るが、自分が自分として何をどう振る舞えばいいのか銀児にはよく分からない。
どんどん、と室の扉が叩かれる。銀児は邵可に視線を残しながら、扉を開けて来客を迎え入れた。
「おや、銀児くん。ありがとう」
見慣れた邵可の部下は、扉を開けようとして開け損ねた姿勢のままにこりと笑った。銀児は軽く会釈する。
邵可の部下であるこの男は、真面目であるのか馬鹿であるのか馬鹿みたいに真面目であるのか、銀児を邵可の侍童、つまり少年であると思いこんでいるらしかった。
「はい、じゃあ君にこれあげる」
銀児は桃色の包みを握らされる。中には香ばしい香りの焼き菓子がたくさん入っていた。
「お菓子だけじゃなくてご飯もしっかり食べて、お手伝い頑張ってね」
銀児は包みを眺めて、先日も初対面の男に菓子を貰ったことを思い出した。
どうしてみんなして菓子をくれるのだろう。朝廷で流行っているのだろうか。それとも、自分はそんなに物欲しそうな顔をしているだろうか。
「ありがとうございます」
銀児はその菓子を懐に大事にしまい込んだ。男が手ずから作る菓子は、いつも驚くほど美味しい。
銀児は府庫を後にして、とりあえず中庭の方へ向かった。つきん、と目の奥が痛む。銀児は手のひらの付け根で眉間を押さえた。
遠目に二人を確認し、何やら込み入った様子の秀麗からは距離をとり、周囲を回る。
――八年前、王位争い、死、二胡
それらの言葉の断片を聞きながら、銀児は眉をひそめた。聞いてみるか、いや止めておこう、と銀児は溜め息をつく。
「立ち聞きとは趣味が良い」
背後から静蘭が銀児に声をかけた。
「おまえにだけは言われたくない」
「あなたが自分の仕事をしないからでしょう」
「私がいれば事足りるのに、わざわざお嬢様の周囲をうろつくのは、趣味か何かですか」
「あなただけでは全く不安ですから、仕方なく」
「他人を信頼出来ない奴は、信頼もされないんです」
静蘭は苛々とした様子で表情を歪めた。
「それ以上無駄口を叩くな」
ふ、と銀児は笑う。とんだお笑い種だ。
かつてこの国を睥睨していた公子が、最下層の銀児を相手に憤っている。目の端にも映らなかっただろう銀児が、公子の心を波立たせている。
「……何を笑っている」
「別に」
いつもやりこめられるのはこっちなのだから、たまには優位に立ったって構わないだろう。
銀児は静蘭の胸を押し返す。
「可哀想なお嬢様を慰める準備は出来ているのですか」
低く銀児は言った。静蘭は眉間のあたりに力を入れる。それでも静蘭は平静を失わなかった。
銀児とは違う意味で、静蘭は自分の感情を露わにしない。
「ああ、お嬢様をお慰めするのは私の役目だ。おまえには出来ない」
そうだ。銀児には出来ない。紅邸での幸福な時間も、辛い時間も、銀児は静蘭ほど共有していない。銀児は男の肩を押しのけた。
深緑色の視線が首のあたりに纏わりつく。だが、静蘭にはくれてやれない。これは、邵可のものだ。
静蘭の肩越しに見覚えのある姿を見つけ、銀児は声をひそめる。
「人がいる。どいたほうがいいのでは」
静蘭は背後に気を配ると、すうと音もなく体をどけた。
お嬢さん、髪に花弁がついていますよ、取って差し上げましょう――とか、まるでそういう風な自然さだ。憎らしいほどにさり気ない。
花曇りに消えて行く背中を横目に睨んで、銀児は鼻を鳴らした。
「ああ、いつかのお転婆なお嬢さんじゃないか」
声をかけてくる藍色の衣の男を、銀児はついと見返す。藍色の男の背後の青年に銀児は見覚えがあった。まずいなぁ、と銀児は内心舌を打つ。
「あれは静蘭じゃないか。この花園で逢い引きとは、彼もやるねぇ」
藍色の男――珠翠に聞いた、藍楸瑛というらしい――は、にこにこと笑って銀児に手を伸ばした。
びくり、と銀児は思わず身を引く。楸瑛は苦笑した。
「花弁がついているよ。ほら、取ってあげよう」
楸瑛の手が銀児の髪に触れて、白い花弁をつまんだ。近寄った顔が、すうとさらに寄せられる。楸瑛は目を細めた。
「静蘭と何をしていたのかな? 紅貴妃には何の用?」
ちらと楸瑛は剣を傾けて見せる。がしゃん、と金属音が響いた。
「よせ、楸瑛」
絳攸が楸瑛の背後から肩に手をかける。
「なんだい絳攸。女嫌いの君が珍しい」
楸瑛が言うと、絳攸は決まり悪そうに髪に手をやった。楸瑛は銀児を視線で示す。
「この子は何かと紅貴妃のまわりをうろついているんだ。ただの掃除婦にしては怪しすぎる」
掃除婦? と絳攸は眉をひそめる。
「おい楸瑛。そいつの名前は銀児といって、邵可様の家人だぞ」
「…………え?」
「だから、静蘭と話していても、紅貴妃のまわりにいても、何もおかしくない」
しばし、二人は至近距離で見つめ合う。むう、と楸瑛は唸って、ぽんぽんと銀児の頭を撫でた。
「……あー、ごめんねぇ? うん、ちょっとした手違いで」
銀児は黙って頷く。
おい、と絳攸が声を上げた。
「失礼なやつだな。何とか言ったらどうだ」
「絳攸、その子は口がきけないんだよ」
「……そうなのか? 邵可様はそんなことおっしゃられなかったぞ」
「あのねぇ、そんなことわざわざ言うわけないだろう」
ねえ、と楸瑛は銀児に同意を求めるので、銀児は首を傾げた。
何故か知らないが銀児が不安視したことはとんとん拍子に片付いてしまった。思うに、この男達は頭が良すぎるのだ。必要のないことまで気を回して答えを出してしまう。
ぺこり、と銀児が頭を下げると二人は言い合うのをやめた。楸瑛がにこりと笑う。
「ごめんね、つまらないことで足止めをしてしまった。もう行ってもいいよ」
銀児はもう一度頭を下げてから踵を返した。振り返る一瞬、静蘭の胸にすがりついて泣く秀麗の姿を見て、心動かされない自分を少しだけ厭うた。
府庫からも後宮からも見えない、もちろん楸瑛や絳攸からも、静蘭と秀麗からも見えないであろう場所に、銀児は腰を下ろした。
膝に白い花弁が落ちてくる。薄い紅色が透ける小さな花弁だ。銀児はそれをつまみ上げる。
銀児の故郷に桜は無い。無い、のだと思う。少なくとも銀児の記憶にこの白く小さな花は無い。
銀児の記憶にある故郷は、冷たく閉ざされた貧民窟だ。男は大抵炭鉱労働者で、女は売春婦だ。銀児の両親とて例外ではない。
もっとも、銀児は父の顔も母の顔も覚えていない。その頃呼ばれた名も覚えていない。邵可と秀麗にくらべたら貧弱な親子の絆だったのだろうか。末っ子の銀児の面倒は兄や姉がみていたように記憶している。もしかすると、近所の年嵩の子供であったのかもしれない。
どんな家庭だったか、銀児は本当に覚えていない。覚えていないのだから、特に両親に対して思うところはない。こんなろくでもない人生、と恨んでもいないし、再び会いたいと願ったこともない。
そもそも、銀児は自分を可哀想だと思った事が無いから恨みようが無い。恨むも何も、銀児のまわりなどみな似たような境遇であった。
みな年端もいかぬうちに炭鉱労働に駆り出され、売春を生業にする。銀児は体を売る前に違う意味で売られたから、そういう意味では幸運だとさえ思っている。
人を殺すのは嫌いだったが、周りの大人達は銀児などより大勢殺していた。
生まれによって無条件に食うに困らぬ人種を妬むことはあっても、残飯を漁り汚水を啜った自分を哀れとは思わない。
思うほど、自分に感慨を抱いてはいない。
感情の起伏が無いわけではない。ただ、激しい感情になればなるほど、自分の内面に深く関わる感情であればあるほど、銀児は自分の体と自分の意識とのずれを感じる。
結果として、銀児の心はひどく鈍麻した。自分への感情は他人事のようで、どうでもいいものになった。
銀児はそんな自分が嫌いである。屈託なく笑い、泣く、秀麗を羨ましく思ったのは一度や二度ではない。
ただ銀児の感情は唯一邵可に関係した時だけ正常に作用する。邵可に触れられると嬉しい。無視されると悲しい。からかわれれば腹が立つ。
無為な関係に甘んじ続ける己を、哀れとも思った。
だが、銀児は離れられない。邵可の傍にいるときだけは、銀児は普通の人間だった。そうでなければ銀児は犬畜生にだって劣る。犬とて自分の感情は自分のものだ。
邵可の傍らにいるときだけは、銀児は正常だ。――それが既に正常でないことなど、銀児は重々承知している。
ふっ、と銀児は強く息を吐いて、つまみ上げた花弁を吹き飛ばした。
花弁はひらひらと舞って地に落ちた。それを目で追う銀児の視界に、褪めた紅色の着物の裾が映る。
「こんなところで何をしているんだい」
銀児は淡く笑って、その姿を見上げた。銀児の視線を受けた邵可は、銀児の正面にしゃがみこむ。
銀児が邵可の袖を引っ張ると、邵可は小さな溜め息と共に銀児の隣に座った。銀児は邵可にのしかかり、その胸に頬を押し付ける。
邵可の匂いがして、熱くて、心臓が脈打つ音がした。銀児は震える息をこぼす。
「……しょうかさま」
銀児はのろのろと邵可の首に腕を回す。邵可はなだめるように、或いは突き放すように銀児の背を撫でた。
「私のことは、府庫に閉じ込めてしまえばいいんです」
「銀児」
たしなめるように邵可は言う。銀児は奥歯を噛んだ。
どうして駄目なのだろう。銀児は邵可の近くにいられればそれでいい。他の人間と好んで関わろうとは思わない。邵可の傍にいるときにだけ、生きている実感があった。
銀児は何度も邵可に口付ける。噛みつくように、深く、何度も。邵可は銀児を押し留め、額に口付けた。
「銀児、秀麗の様子を見る仕事くらい、君だって出来るだろう」
出来るが、出来ない。銀児は一層強く邵可に抱きつくが、邵可は銀児の髪を梳くだけだ。
目の端をちらちらと白い花びらが散っていった。