はじめ
部屋に何かがいるのだと、うっすらとした違和感を抱きはじめたのは新緑も爽やかな6月の初めのことであった。空前の好景気に世は狂乱とも言うべき乱痴気騒ぎぶりであったが、もしかするとそれは来たるべき衰退を膚で感じた者達の最後の足掻きだったのかもしれない。
地方の大学に通う貧乏学生であった俺はトレンディドラマに見られるような華やかな生活とは無縁で、六畳一間の学生向けアパートの砂壁の内側で、ようやく独り暮らしに慣れてきた頃であった。
何かがいるのだ。間違いなく。畳敷きの六畳間の隅に何かが。
深夜、机に向かって本を読んでいたとき、視界の端に何かを見た。はっとしてそちらに目を向けるが、何もいない。当たり前だ。独り暮らしなのだ。友人も来ていない。施錠もしている。誰かがいるはずもない。
俺はもう一度本に目を落とす。やはり、何かがそこにいる。人影に見えた。
首筋に鳥肌が立ち、冷や汗が伝う。はくはくと奇妙に心臓が脈打つ。目だけをそろそろとそちらに向ける。やはり何もいない。
俺は布団に飛び込むと、頭まで毛布で覆った。そのうち眠ってしまっていたようで、気が付くと朝であった。
それが毎日続くようになり、俺はすっかり参ってしまった。引っ越そうにも、金がない。誰かに相談しようにも、入学したての大学ではこんな馬鹿げた話をする相手はいない。それに「部屋に幽霊が出る奴」だなどという理由で有名になるのは避けたかった。県外の大学進学を渋った親に相談するのは、それ見たことかと連れ戻されそうな気もして思いきれない。
俺は、その何者かの気配に似たものとしばらく共同生活を送っていた。別に、騒音をたてるわけでも、悪夢をもたらすわけでもない。ただ何かがいるような気もするだけだ。そのうち俺も慣れてきて、そういうものだと思い始めてきた。
その矢先のことだ。大学からの帰り道、近所のスーパーで二割引きの惣菜を手に入れた俺は、ポリ袋をぱしゃぱしゃいわせながら自室の玄関を開けた。
答える者のいない部屋に挨拶をする習慣は消えた。初めのうちは無言で部屋に帰ることに居心地の悪さも感じたが、独り暮らしも三ヶ月になると慣れるものだ。一畳もないような玄関兼脱衣所兼キッチンにポリ袋を置く。ふと部屋の奥に目をやると、そこに男が立っていた。
俺は悲鳴を上げることも忘れて立ち尽くす。不審者かと咄嗟に玄関への距離を測った。
男はこちらに気付いていないのか、俯いたまま部屋の隅に立っていた。その姿は妙に平面的で、壊れかけのテレビ画面のようにざらざらとして見える。輪郭が砂壁に滲んでいる。生きている人間じゃない。俺は直感的にそう思った。背筋が粟立つ。手のひらに汗が滲んだ。
男は虚ろな目を床に向け、色の無い唇で何かを言っているように見えた。だが、何を言っているのかは分からない。
あいつだ。俺は痺れたようになった脳でそう思う。部屋の隅の気配。目で追おうとすると見えない何か。おそらく、彼がそうだった。
俺は何を思ったのか、男に近寄る。息をひそめて、二歩だけ足を進めた。
歴史の教科書で見るような古めかしい軍服に、帽子を被っている。生気のない顔には大きな傷がいくつか走っている。大柄でがっしりとした体格は、俺の持つ「幽霊」のイメージとは掛け離れていた。
「……おい、あんた」
震える声でそう問いかける。反応はなかった。薄灰色に透けて見える黒目が、何かを探すように忙しなく畳の上を移ろう。
「なあ、おい」
俺は語調を強めた。何の反応もしない男に威勢もよくなる。幽霊なのだろうか。それとも俺の幻覚なのだろうか。
男は何かを拾い上げるように屈み込み、そのままふっと消えた。
俺は誰もいない部屋で、呆然と立ち尽くしていた。