ひとつ



 部屋に男の姿を見て以来、彼は時折その姿を現した。恨みがましげに睨み付けてくるわけでも、夢の中で首を絞めてくるわけでもない。血まみれの異様な風体でもなく、むしろ極端に生気と現実味に欠けることを除けば精悍な風貌である。
 そこにぼうと立ち続け、時折何かを探すように畳の上に視線を移ろわせる。唇が何か言いたげに開いたり閉じたりするが、何を言っているのかは分からない。
 俺は引っ越しをしなかった。金もないし、おそらく色々な感覚が麻痺していた。誰もいない部屋に黙って帰るよりは、幽霊でも幻覚でもいいから何かがいる部屋に帰った方がマシな気がしていた。

「ただいま」

 幽霊に挨拶をしているなんて、馬鹿げている。六畳間には誰もいない。俺はなんだ今日はいないのかとほんの少しだけがっかりしながら、卓袱台の前に腰を据えた。半額の弁当を卓袱台に置く。
 弁当の横に、古ぼけた本を広げた。古い紙の匂いが弁当のにおいを上書きする。近代の軍制に関する本で、大学図書館の閉架に押し込まれていたものだ。長らく貸出の行われていなかった本らしく、司書を散々右往左往させてしまった。
 図や写真を多く掲載した本だ。俺には軍服の知識なんてない。せいぜい、映画で見たか、道徳の教科書の挿絵で目にしたか、そのくらいのものだ。だから、この本を調べて、俺の見ている男の着ているものが実際に存在はしていなかったとしたら、男は俺の幻覚だ。速やかに親に泣きつき、しかるべき病院にかかる必要がある。
 だが、それが、俺の知らない、実在するものだとしたら? ――――そのときは、そのときだ。

 俺は弁当をつつきながら、ぱらぱらとページを繰った。内容には興味が無い。豊富な写真資料だけを拾っていく。手描きの図や浮世絵のような絵図に白黒の掠れた写真が混じってきた頃、俺ははたと手を止める。帽子の形、襟の形、襟章、釦、あの男が着ているものと似ていた。「明治三七年戦時服」とキャプションの付いた写真を食い入るように見つめる。
 俺は慌ててその周辺のページを読み込んだ。その中の一枚の写真に釘付けになる。
 「日露戦争下士官(撮影:二〇三高地)」寂寥とした風景を背後に、多くの男達がこちらを見ている。まだ若い、俺と変わらないような年齢の青年達に見えた。その中で一際大柄で、まっすぐにこちらを見つめる男がいる。

 ――こいつだ

 俺はそう思った。軍帽の下の顔に傷は無いが、俺の部屋に現れる男によく似ている。俺の見た姿より幾分か若く見える彼は、緊張のせいか慣れない写真のせいか強張って見える表情をこちらに向けている。
 胸の鼓動が強くなる。恐怖では無い。彼が幻覚では無く、かつて生きていた人間であるということに妙に興奮を覚えた。それから、ふと切なさを覚える。歴史の成績が悪かった自分でも、二〇三高地が激戦区で大勢の日本兵が死んだことは知っている。きっと彼はここで非業の死を遂げ、何か思い残すことがあったのだろう、今、俺の部屋に現れたのだ。
 写真の脇には小さなフォントで「○〇戦時資料館収蔵」と記してある。聞いたことのない名前であった。巻末を見ると、資料館の名前とともに住所と電話番号が記載されていた。
 俺は熱心に取ったためしのない講義用ノートにその情報を走り書きすると、ポケットに乱暴にねじ込む。財布の中身を確認すると、心許ないが地図と時刻表くらいは買えるだろう。
 俺は食べかけの弁当を投げ出して、本屋へと向かうべくスニーカーに足を入れる。玄関の鍵を閉めようとすると、ドアの隙間から六畳間に立ち尽くす彼の姿が一瞬だけ見えた。