ふたつ
新幹線で一時間弱、在来線を乗り継いで二時間半、バスに乗り換えて四十分。待ち時間を入れればゆうに半日はかかる行程を、俺は日帰り突貫日程で無理矢理組み上げた。
土煙と黒い排気を上げて遠ざかるバスの後ろ姿を見やり、俺はため息を付く。涼しい車内から路上に放りなげられた途端に、額から汗が吹き出した。
コンビニもスーパーも見当たらない。昼食は諦めるしかあるまい。俺は額の汗を拭い、湿った手で地図のコピーを捲る。件の資料館はこのバス停のほど近い場所にあるはずであった。
周囲をぐるりと見渡せば、人通りの少ない住宅街で、こんなところに資料館の類があるとも思えない。
そんなことを考えながら、不安に駆られて歩いていると、民家と民家の間に貧乏人のケーキのように細い古びた建物が建っていた。今にも外れそうな看板に、昔懐かしい字体で○○戦時資料館と書かれている。
ーーやっているのか、これ
俺は通行人を装いながら、横目に資料館の両開きのドアを窺う。入館者を拒むようにぴっちりと閉じられたドアの硝子窓からは明かりも漏れ出て来ない。
何気ない調子で腕時計の盤面を見て、踵を返す。もう一度横目に資料館のドアを窺う。やはりドアは閉まったままで、人の気配も窺わせない。
どうにも埒が明かないので、意を決して敷地に足を踏み入れた。ドアノブに手をかけ、おそるおそる押してみる。開かない。なんだ閉まっているのかと一瞬思ったが、ドアを引くと抵抗なく開いた。ひとり気恥ずかしく思いながら開いた隙間から中を覗く。木と硝子で出来た展示棚に大小様々な写真や、古い衣服が飾られている。
悪いことをしているわけでもないのにそろりと忍び入ると、右手に駅の切符売り場のような受付らしきスペースがあった。そこには誰もいない。
「すみません」
俺がそう館内に声をかけると、声だけが少し響いて消える。
「すみませーん」
もう一度声をかけると、こほんと咳のような声が聞こえた。それから、奥の方から「はあい、はい、はい」と嗄れた老爺の声が聞こえる。声の印象より矍鑠とした足音とともに、声の印象どおりの老爺が現れた。
「どうも、どうも」
俺は湿った地図をポケットに押し込む。
「あの、入館したいんですけどーー」
「どうぞ、好きに観てって」
ポケットに突っ込んだ手で財布を探っていた俺は目を丸くする。
「あの、入館料は?」
老爺は皺ばんだ顔を横に振った。
「取ってないよ、おれの趣味みたいなもんだから」
「あ、はい……」
「学生さん? 調べものか何か?」
聞きなれないイントネーションで老爺は言う。俺はバックパックから本のコピーを取り出す。
「実は、この写真を探してるんです」
寂寥とした背景。見ているだけで乾いた冷たい風を感じるような白黒写真。老爺は老眼鏡を外し、写真を矯めつ眇めつした。
「二〇三高地だな、うん、第一師団かな」
言うと、ついて来いとも言わずに何かを探すように歩き始める。俺は慌ててそのあとを追った。
「ひでえ戦争だったんだと、おれんとこの親父の兄貴が行ったって話で、ーー命からがら帰っては来たがね、どうにも拙くなっちまって、一生嫁も取らず実家にいたよ」
目の前の萎れた老爺の、さらに父親の世代の話なのか。俺は写真を印刷し、さらにそれをコピーした不鮮明なそれをちらりと見つめる。その割には、写真に映るその男は生気に満ちて身近に感じられる。
「その叔父貴が集めたものなんだよ、この資料館の中身は」
老爺はぽつりとそれだけ言った。どういう気持ちで自分を傷付けた戦争の資料を集めようと思ったのだろう。それに心を寄せようとして、なんとなくうそ寒くなったからすぐにやめた。
老爺は足を止め、ガラスケースに飾られた一枚の写真を指差す。
「これだね、第一師団の若い兵士たちだよ。ーーこれがおれの叔父貴」
写真の端で緊張に顔を強張らせる若い男を老爺は示した。俺はその言葉を半分聞き流しながら、写真に覆いかぶさるようにしてそれを見つめる。
ひときわ大柄な体躯、精悍な顔立ち、書籍のものより鮮明な彼は、間違いなく部屋に現れた男だった。
「あ、あの、この人!この人のことを調べてるんです!」
俺が硝子越しに必死で彼を指差すと、老爺は悠々とガラスケースの鍵を開けた。古い写真であるだろうに、手袋もせず無造作にそれを摘み上げる。
「んん、こいつかい?」
老爺は写真を裏返すと、老眼鏡をかけたり外したりする。俺がその手元を覗き込むと、写真の裏面には掠れた墨文字で氏名と住所が書かれていた。まるで整然と並ぶ墓石のように、ひとかたまりずつ書き連ねられている。
「す、杉元、杉元佐一……なんだ、不死身の杉元じゃないか」
俺は老爺の言葉を聞いて身を乗り出す。
「知っているんですか?」
「よく叔父貴が話してくれたな。同じ隊にすげえ奴がいたんだって」
「すごい?」
「体もでけえし、とにかく強くて、喧嘩もそうだし、ロシア兵が杉元だけは相手にしたくないって逃げ出すような奴だったらしい。体が丈夫で、悪運も強くて、頭を撃ち抜かれても死ななかったって」
「だから不死身の杉元?」
「まあな、酔った叔父貴の話だから大袈裟に言ってるんだろうけど」
俺は写真を見下ろす。杉元佐一。不死身と呼ばれた男。だが、二〇三高地で若い命を散らせたのだ。
感慨深く溜息をつく俺に、老爺は先を続ける。
「二〇三高地でものすごい功績をあげて生き残ったっつうのに、喧嘩で上官をブン殴って田舎に帰ったって」
「えっ!?」
感傷に浸っていた俺は老爺の言葉に声を上げた。ここで死んでいたわけではないのか。しかも、上官を殴って軍隊を辞めていたとは。
戦争から無事に帰ったならば、なぜ彼は軍服姿で俺の部屋に現れるのだろう。二〇三高地で思い残すことがあったというわけではないのだろうか。
俺は半ば食って掛かるように老爺に詰め寄る。
「杉元佐一のその後ってご存知ですか?」
「さあねえ、俺が聞いたのは戦争中の話ばっかりだったから。叔父貴なら知ってたかもしれないけど、もうとっくに死んでるよ」
それを聞いて肩を落とす俺に、老爺は写真の裏を見せた。
「実家の住所が残ってるんだ、ここの人に聞けば何か分かるんじゃないのかい」
俺は慌ててその達者な筆文字を慎重にノートに写した。聞き慣れぬ住所だ。
「すみません、ありがとうございます」
「なんだ、もう帰るのか」
写真の住所だけ写すと帰り支度を始めた俺に、老爺は驚き呆れたようだった。仕方あるまい。あと二十分後のバスを逃すと、今日中にアパートには帰られないのだから。