みっつ




 書き付けた住所は古いものであったが、幾度かの区画整理と地名の変更を経たあとの地名は思いの外すぐに知ることが出来た。首都圏からほど近いその場所は、かつてもの懐かしい風景の美しい田舎村であったことを窺わせた。
 高度経済成長期に首都圏から電車一本で行くことの出来る山村は、疲れ果てた企業戦士を癒やすリゾート地となったのだという。今でもその名残か、旅館風の大型ホテルの残骸が山肌に貼り付いている。いやしくも大げさで派手好みな今時の若者である俺には、当時の高級リゾートホテルは無骨に見えた。だが、それらのほとんどは廃墟であるらしい。
 かつてのリゾート地には、いまや外壁に大きなヒビの入ったホテルが一軒、それと数軒の小さな旅館や民宿が残るのみだ。

 俺は、最寄り駅から旅館街までのマイクロバスに乗り込んだ。公営のバスではなく観光客向けの無料シャトルバスで、いかにも普段は農業をやっていそうな日に焼けた男が運転手であった。
 車内には俺と、訳あり風な男女が一組だけだ。オフシーズンとはいえ、客入りがいいとはいえないのだろう。
 幽霊騒動でばたばたしていた俺は大学で仲のいい友人を作る間もなく夏休みを迎えていた。杉元佐一の調査のついでとばかりにかつてのリゾート地で一泊することを決めたのだ。
 愛想のいい女将に荷物を預けた俺は、地図を頼りに杉元佐一の生家を探す。俺の調べが確かならば、この旅館街の外れ、山裾の方にその家があるはずだった。
 昭和のはじめで時の止まったような、よく言えば趣のある、悪く言えば時代遅れな歓楽街は、昼日中であることもあってかひどくひっそりとしていた。看板は居酒屋やクラブや遊技場のものばかりであるのに、今もやっている気配があるのは八百屋や総菜屋ばかりであった。
 ものの数百メートルにも満たない中心街を抜けると、すぐに見晴らしのいい場所に出た。またしばらく歩けば、人通りも車通りも少なくなり、道路の舗装さえままならない有様である。
 俺は「本当にこの道であっているのか」と不安になり何度も地図を確認したが、そもそもこの辺りには南北に延びる大きな道以外は路地しかない。間違いようもなかった。
 埃っぽい道路に落ちる自分自身の影を見ながら、俺は心の中で自問を繰り返していた。
 どうしてこんなことをしているのだろう。部屋に現れる男が幽霊なのか、幻覚なのかを知りたかっただけだ。どういう偶然かその男の姿の映った写真を見つけた。そうすると、この男が何者なのか知りたくなってしまった。
 男の名前を知り、生前の武勇も知った。それで終いのはずだった。それでいいだろう。どうして俺は、こんなところまで来てしまったのだろう。杉元佐一の生家を見たからといって、なんだというのだろう。
 俺は足を止める。絡み合う葛のツルに埋もれるように、古びた民家があった。正確には「おそらく民家であったもの」だ。簡単な石の垣はひび割れ崩れかけているが、人の手で普請されたものに違いなかった。家屋があったであろう場所には石の基礎だけが残っている。少し離れた場所に朽ちかけひしゃげた納屋のようなものが、ほとんど葛に取り込まれるようにしてやっとのことで建っていた。
 手元の地図と、目の前の民家の残骸を何度も見比べる。ここに違いがなかった。だが、欲しいものは得られそうもなかった。何が欲しいかも分からない。強いて言えば、今までのように何らかの偶然か幸運で「何か」を得られはしないかと期待したのだ。
 俺は溜息をひとつつく。何を一生懸命になってしまったのだろうか。急に赤面しそうなほど恥ずかしくなり、俺は苦労して手に入れた地図をくしゃくしゃにしてポケットにねじ込んだ。
 こんな廃墟を見に来たおかしな観光客と思われたくなくて、俺は早足で旅館まで戻った。

「お早いお戻りですのね。このへんはもう遊ぶところもないから、退屈なばかりでしょう?」

 俺を出迎えてくれた女将は、にこにこと笑いながら俺の脱いだ靴を揃えた。

「ええ、いえ、あの、はい」

 しどろもどろに全く意味のない返事をする俺に、ふっくらとして色白の女将はうんうんと頷く。

「こちらにはどういうご用事で? こんなところ、若い方の楽しむような場所じゃありませんのに」
「――人を探していて」

 ぼんやりとしたままそう答えた俺は、はっとして口を噤んだ。世話好きそうな、だが接客業としての分をわきまえた女将は「あらまあ」と目を丸くする。

「何か協力出来ることがありましたら声を掛けて下さいね」
「あ、あの……町外れに民家の跡があって、そこに住んでいた人の話を聞きたいんですけど」

 女将が怪訝な顔をしたので、俺は咄嗟に嘘をついた。

「俺の曾爺さんがそこの出身らしくて、何かご存じないですか?」
「ああ、そうでしたのね。あそこは、昔――といっても、私が産まれるずっと前なんですけれど――火事になってしまったんですよ。このへんでは知らない人はいないんですけど、ものすごい働きをした軍人さんのお家だって話で。ええと、名前はなんと言ったかしら……」
「杉元佐一ですか?」
「そう、そういう名前でした。村の英雄だって騒ぎになったけど、結局こっちには帰って来なかったみたいで。有名になっちゃったから、こんな田舎には帰ってこなかったのかしら」
「その人は村に帰ってこずにどこに行ったかご存知ですか?」
「うーん、私の母なら詳しかったのですけどね、もうだいぶ前に亡くなってしまいましたから。たしか、北海道に行ったっていう話を聞いたこともありますけれど、そこで何をしたのかまでは分かりませんよ」

 俺はそれを聞くと、自室に戻り、艶々としたテーブルに地図を広げた。くしゃくしゃになったそれを指先で丁寧に押し広げる。
 ここまで来たのは無駄ではなかった。だが、それがなんだというのだろう。俺の部屋に出る幽霊は、日露戦争で活躍した軍人で、旅順攻囲戦を生き抜いて、でも実家には帰らず北海道に行った。理由は分からない。俺に分かったのはそれだけだった。

 その後俺は、誰もいない貸し切りの露天風呂を楽しみ、食事では山間の旅館なのになぜか出てくる刺身にも舌鼓を打った。気を利かせた女将さんが「こんな何もないところにいらっしゃったんだからこれくらい楽しみがないと」と日本酒を一合ごちそうしてくれて、俺はほろ酔いのいい気分で床についた。
 硝子障子の向こうからは鳥と虫の鳴く声だけが聞こえた。
 ふ、と目が覚める。酒が抜けたせいであろうか、妙に冷えた。布団を引っ張ろうとするが、体が動かない。ぞっとしてもがこうとするが、冷たく痺れた手足はぴくりとも動かない。鼓動が早くなる。息が荒くなる。俺は目を閉じ、無理矢理寝てしまおうとした。未成年のくせに酒なんて飲むからこんなことになるのだ。寝てしまおう。
 しかし目蓋の裏の暗闇も恐ろしい気がして、うっすらと目を開ける。そこに生気のない男の顔があって、俺は掠れた悲鳴をあげた。
 俺に覆い被さるように、杉元佐一がそこにいた。虚ろな黒目の向こうに、天井の格子模様が透けて見える。恐慌の波が過ぎ去れば、彼は俺の部屋で見るのと変わらず、俺に何か害意がある様子ではなかった。そもそもこちらに気付かないように、畳に四つん這いになっているだけである。
 せわしなく移ろう瞳は、決して俺を見つめているのではなかった。俺の頭の向こう、枕も敷き布団も、畳さえ見透かすような目をして、杉元佐一は必死に何かを探していた。暗闇で落とした小銭を探すように、大きな手が耳元で蠢く気配がする。
 色のない唇は、何事かを繰り返している。俺の部屋に出てくるときと一緒だった。唯一違うのは、杉元佐一の顔が、もし彼が生きていれば吐息を感じられるほど近いことだけだ。そのせいで、いつもは何を言っているのか分からないその言葉が聞こえた。

 ――かい、

 ――きんかい、

 ――きんかい、……きんかい

 きんかい、と杉元佐一は小さな掠れ声で繰り返す。きんかいとは何のことだろうか。彼はそれが心残りで俺の部屋に現れるのだろうか。そんなことを考えているうちに気が遠くなった。