よっつ



 俺は北海道の冬を舐めていた。
 手袋もない手は冷気で腫れたようになり、コートの袖から出せなくなった。やっぱり雪なんかが積もっているんだろうし、と選んだ歩きやすいショートブーツを履いた足は一瞬で冷え切り、駅から大学までの十分足らずの道のりで痺れて感覚を失った。持っている中で一番厚手のコートは刺すように冷たい風を遮ることが出来ているのか分からない。
 俺は暖房のきいた建物の中に駆け込むと、靴を脱ぎ脚の指が揃っているかを確認する。次に顔を触り、耳が、鼻が、くっついているかを確かめた。暖かい室内の熱源が壁に張り巡らされたヒーターであると気付き、それに張り付く。行儀が悪いが、靴を脱いだ冷たい足を熱いパネルに押し付けた。冷えた足に熱が流れ込み、感覚が取り戻されていく。気温が低すぎて靴についた雪が溶けないのが救いだった。これで靴下が濡れていたらどうなっていたか、考えたくもない。
 やっと一息ついたおれは、手帳を取り出し行き先を確認する。教育学部に属する近現代史を扱う研究室と、そこの助教授の名前が書かれたメモ書きであった。

 北海道、金塊、杉本佐一。
 夏休みを終えた俺の頭にあるのはそれだけだった。こんなの無駄だ、俺の妄想だという投げやりな気持ちと裏腹に、それは今も俺の部屋にいる。ある、と言うべきだろうか。旅館の一件以来、その姿が何か意思や感情のようなものを見せたことはなかった。
 畳についた煙草の焦げ跡のように、障子紙の日焼けのように、そこにただ純然と染みついていた。ただそれだけだった。
 おれは講義を二の次にして――と言いたいところであるが、そこまでは思いきれなかった。講義には必要十分に出席しながら、細々とアルバイトに精を出した。工事現場の警備、印刷物のチェック、詳細不明のプレハブで鳴らない電話の番。世の中は降って湧いた好景気の余韻のために、この辺りでも東京ほどではないとはいえ、大学生のやるようなささやかな仕事に目の玉が飛び出るような大金が支払われた。
 同期たちはその金で舌を噛みそうな名前の酒を飲み、雑誌に載っているジャケットを買い、スキーに繰り出した。俺は貯めた金でコートとブーツを買った。ほんの少し色気を出し、流行りの洒落たダッフルコートとハイブランドのコピー品のショートブーツを買ったのが間違いだった。同じ金額を出すなら、スキー用ウェアと防寒長靴を買ったほうが良かったかもしれない。
 おれは夏季休暇の最終日には北海道に行くことを決めていた。どの手段で行くか。青函トンネル? フェリー? 飛行機――は高すぎた。どれくらい滞在するのか。どこに滞在するのか。考えるべきこと、決めるべきことはいくらでもあった。だが、一番重要な「なぜ行くのか」だけは、冬休みに入り生まれて初めてのフェリー乗り場で入船の列に並んでいる最中にもまだ決まっていなかった。ガタイのいいトラックの運転手に囲まれて波に揺られているときも、北海道の土――雪を踏んだ時も、大学の敷地に入った時も、まだ決まっていなかった。

 俺は役に立たなかった真新しいコートの下に、高校生時代に母親が近所のスーパーで買ったイモいトレーナーを着て、なぜここにいるかも分からないままぼんやりとヒーターに当たっていた。
 構内図がないかと首を巡らせたところで薄暗い館内には何もない。俺はここがどこなのか分からないまま、構内図を探し求めてうろついた。だが思いのほか逃げ込んだ建物は小さく、五分もしないうちに鍵の掛かっていない場所は探しつくしてしまった。
 ちらりと見た窓の外は完全にホワイトアウトしていて、行く当てもなく外に出るのは気が進まなかった。なので、俺は、たまたま通りがかった学生らしき人に無我夢中で声をかけた。どちらかといえば人見知りをする方だと自分で思っていたのだが、必要は人間を成長させるらしい。

「す、すみません、ここに行きたいんですけど……」

 見せた手帳を一瞥した男子学生は、窓の外を見て肩をすくめた。

「ああ、この先。第三研究棟――って言ったって分かんないですよね。案内しますよ」

 男子生徒はにこやかに笑ってついて来るように示す。俺は慌てて首を横に振った。

「いえ、方向だけ教えていただければ……!」
「方向はあっち。赤っぽい建物。でも歩くと二十分くらいかかる」

 男子学生はなんでもない風にそう言う。俺は「二十分」と唖然として繰り返した。強く吹雪く外の景色を眺めてぞっとする。男子学生は苦笑すると、ズボンのポケットから車のキーを取り出した。

「送りますよ。今日ほんと天気悪いし」
「すみません、お願いします」
「いいですよ、僕そこのゼミ生だから」

 俺は男子学生の後をついて歩く。重いドアの向こうでびゅうと冷たい風が吹いていた。出入り口のすぐ近くに停められた車は、いかにも親から譲り受けたような型落ちのセダンだった。
 助手席に座りながら、俺はやっと「ありがとうございます」と言った。屋外で言えなかったのは、口を開けることが戸惑われるほどに寒かったからだ。
 懐かしさを覚える音とともにエンジンが始動する。男子学生はまた「いいですよ」と言いながらシフトレバーを操作した。
 俺は運転席の男子学生を盗み見る。上級生だろうか、大人びた風貌をしている。今風に長く伸ばされた前髪の下で、形のいい大きな瞳が人懐こく細められている。高校のとき、クラスの女子が夢中になっていたアイドルに少し似ていた。

「外部の人ですよね?」
「あ、はい、ちょっと調べ物をしに」
「へえ、うちの先生に。勉強熱心なんですね。すごいな」
「いや、そんな……」

 入学難易度でいえば偏差値で10は違う相手にそう言われ、俺は何と答えたらいいか分からず肩をすくめる。

「こんな天気の日にあたって災難でしたね」
「寒くて驚きました」
「普段はここまでじゃないんですけど」

 ぽつぽつとぎこちなく言葉を交わすうちに、すぐに目的地に着いたようであった。ホワイトアウトした視界にはぼんやりとした赤っぽい輪郭しか捉えられない。俺たちはまた無言で建物の中に駆け込んだ。
 暖かい室内で一息つくと、男子学生は肩の雪を払いながら奥のドアを指し示した。

「あそこです。多分先生も在室だと思うから……」
「本当にありがとうございました」
「いえ、知りたいことが知れるといいですね」

 男子学生は廊下を挟んで向かい側のドアへ消えていった。入室の際に名札の下に「在室」と書かれた札を下げる。
 俺はその姿を見送ると、研究室のドアを叩いた。電話で会う約束を取り付けたときと同じ声が答えたので、おずおずと入室した。

「やあやあ、どうも、遠くから。最近は君みたいに勉強熱心な学生も珍しいからね。嬉しいよ」

 丸顔に愛想のいい微笑みを浮かべた初老の男だった。古めかしい重そうな眼鏡を片手で押さえながら、おそらく応接セットだったテーブルから書籍を片付けた。
 勧められるままに椅子に座る。柔らかすぎる椅子は、軋みもせず床から十数センチまで沈み込んだ。

「お忙しいところすみません。実は、一九〇五年頃に北海道に親戚が移住したらしいのですが、その方の行方が知りたいんです」

 俺がそう言うと、男は目を丸くする。

「そういう質問は初めて受けたかもしれない」
「すみません、俺ではまず何を探したらいいのかも分からないので。ご助言いただけたら、と思ったのですが……」
「うーん、力になれるかは分からないけど、一応話を聞かせてくれるかな?」

 俺は戦時博物館の写真を、さらにレンズ付きフィルムで撮影したものを差し出す。その中の一人を指さした。

「この人、杉元佐一っていうんです。陸軍第一師団として旅順に行ったあと、北海道に渡ったっていう話なんですけど、それっきり行方が分かっていないんです。陸軍にいたということで、もしかすると名簿か何かが残っていないかと思ったんですけど――」

 そこまで言うと、男は難しい顔をして眼鏡をはずした。眼鏡のレンズを拭きながら、上目遣いに伺うように俺を見つめてくる。

「君、本当にその人の親戚?」

 そう言われ、俺はどきりとした。隠すように写真を手に取りながら、浅く頷く。

「……ええ、多分。いや、その、実のところはよく分からなくて、ええと、母方の大おじさんの、その、戦地で会った人の――」
「祖父までなら軍籍証明書を取り寄せてみる、という手もあるけど。どうしてそんな遠い親戚を調べようと思ったの?」

 疑われている。直感的に俺はそう思った。法に触れることをしているわけではない。誰に迷惑をかけるつもりもない。だがやはり人に嘘をつくというのは、どうにも罪悪感が付きまとう。
 写真を掴む手に汗が滲む。

「す、すみません。本当は親戚ではないんです……」

 俺は掠れる声でそう言った。男は溜息をつき、煙草に火をつける。

「君ねえ、ふざけちゃいけないよ。僕だって忙しいんだ」
「嘘をついたことは本当に申し訳ありません。ただ、知りたいと思っていることは本当なんです」
「そうだろうね、君みたいな輩はたまに来る。学問を蔑ろにして与太や巷説の類を妄信し、学徒よりも己が優れていると思い込んでいる輩は」

 男は苦々しげにそう言った。俺はそれが何について言っているのかよく分からず、口を開けたり閉じたりして言い訳の言葉を探した。

「件のクーデターについての議論をするつもりは無いよ。あれはチンギスハーン義経説や、明智光秀南光坊天界説と変わらない。時代が下っているというだけでおかしな思想家の声が大きくて参ってしまう」
「クーデター?」

 俺は聞き慣れぬ単語を鸚鵡返しにした。男は胡乱げに眉をひそめる。

「君も第七師団陰謀論者ではないのかね?」
「え? いいえ、俺が探している人は第一師団に在籍していたと聞いていたんですけれども……」

 男はしばらく黙って煙草を吸っていたが、細く煙を吐き出すと灰皿に煙草を置いた。

「では、なぜ、杉元佐一のことを知りたいと思ったんだい?」

 俺はそう問われ、しばし思い悩んだ。本当のことを言うべきなのだろうか。頭のおかしい、不気味な輩だと思われないだろうか。俺は灰皿に放置された煙草の火がじりじりと巻紙を燃やしていくのを見つめながら、慎重に言葉を選んだ。

「あの、笑わないで聞いてほしいんですが……」
「それは場合によるね」
「ゆ、夢にみたんです」

 言ってから、やってしまったと思った。こんな子供じみた言い訳を誰が聞き入れるというのだろう。俺はおそるおそる言葉を続ける。

「夢に見て、興味を持って、たまたま調べた本にその写真があったんです。その写真の持ち主を訪ねて、話を聞いて、それから残っていた住所まで行きました。もうそこには何も残っていなくて、分かったのは北海道に向かったということだけです」

 それはほんの少しだけ嘘が混ざっていた。俺の臆病な良心が痛まないだけの嘘だった。怒鳴って追い出されるかとも思ったが、男はしばし考えた後ふうと煙草くさい息を吐いた。

「馬鹿々々しいと追い出したいところだが……」

 そこで少し言葉を切る。俺は肩をすくめて次の言葉をおとなしく待った。


「私も学生の頃、花沢中将の夢を見て、そこから現代史に興味を持つようになったんだ。――花沢中将を知っているかい?」
「あ……いいえ、すみません」
「聖人君子とは言えないが、学ぶべきところが多い。一度きちんとした文献で学ぶといい。彼も陰謀論に事欠かない人物だからね」

 言うと、男は立ち上がり、廊下に向けてドアを開ける。室内よりひんやりとした空気が流れ込んできた。男は対面のドアを開け、先ほどの男子学生に何かを言いつけた。それから室内の方に向き直り、俺に声をかける。

「悪いけど、僕は力にはなれないと思う。杉元佐一に関する逸話は多いけど、実在したという事実以外に信用にたる資料は存在していない。それに関して僕がこの立場から物を言うことは出来ない。ただ、調べ物をするなら彼に手伝ってもらうといい」

 くっきりとした大きな目が、まだすべてを呑み込めていない様子で困惑気に男と俺を順に見た。俺は社交的に笑みを返したつもりだったが、うまく笑えているか分からなかった。


 書庫は屋外と変わらないのではないかと思うほど寒く。俺たちはかじかむ手を温めながら古く分厚い資料を手繰った。成果は、古い住所録に杉元佐一の名前と当時の人足小屋の住所が書かれていたきりであった。どう見ても仮の住所で、そこを調べても手掛かりが得られるとは思えなかった。その後、軍関係者の名簿で杉元佐一が北海道に渡ったと思われる年から前後五年に幅を広げて調べてみたが、その名前は見つからなかった。
 男子学生は資料を棚に戻すと「休憩しましょう」と言った。彼に促されるまま書庫の隣の小さな部屋に入る。暖房が暑いほどにきいていて、部屋の真ん中に対流式石油ストーブが赤々と燃えていた。しゅんしゅんと音をたてるやかんで大きな湯呑に茶を淹れた。
 熱いそれを啜り、手渡された煎餅を齧りながら俺は一息つく。そのあと、沈黙を恐れて「杉元佐一って有名人なんですか?」と男子学生に聞いた。
 有名な温泉街の土産物の菓子を口にしていた彼は、それをお茶で飲み下すと「まあ、一部では」と答えた。

「旭川大逆策謀事件って知ってる? 知ってたら超マニアだと思うけど」

 男子学生は端正な顔を困ったようにさせながら苦笑いした。俺は首を横に振る。

「旧日本軍の将校が、一部の軍人を率いて北海道に国を作ろうとした、っていう話。専門家の中にも研究をしている人もいるみたいだけど、今のところはまだ伝説とか噂話みたいなもんだよ」

 俺はへえともふうんともつかない曖昧な返事をした。さっきの助教授のうんざりしたような態度の理由が、なんとなく分かった気がした。

「それに、その杉元佐一が関わっていたんですか?」
「うーん、そのへんは人によって言うことが違うんだよね。その将校に協力していたって説もあれば、敵対していて追われていたって話もある。でも、どちらにしても既に軍籍から抜けていた杉元佐一が関わるのはおかしな話だと僕は思うけど」
「あ、でも、杉元佐一は北海道に渡っていたことは確かなんですね」

 俺がそう呟くと、男子学生は目を丸くして「確かに」と言った。それからしばらく何か考えるような素振りを見せて、どこか心苦しそうに提案する。

「これはあくまで巷説なんだけど、杉元佐一は第七師団の谷垣源次郎っていう人と親交があったって聞いたことがある。そっちから辿ってみたらどうだろう。杉元佐一は北海道に来た時もう軍人じゃなかったから正式な記録はここにないけど、谷垣源次郎の記録ならあると思う。まさか本人は存命なわけないけど、ご家族から何か聞けないかな」
「今もそこに住んでいるかは分からないですよね」
「まあね、でも、きみだってこのまま帰るよりいいだろ?」

 男子学生はそう言うと、にこりと笑った。頼もしい笑顔だった。

「本当にありがとうございます」
「いいよ、僕もなんだか気になってきたし」

 彼はそう言うと「さて、調べ物の目処もついたところで」と湯呑を置いた。俺は後れを取らないように慌てて立ち上がり、うっかり茶卓の上の大学ノートを落としてしまった。

「わ、すみません!」

 拾い上げたノートには、彼の面立ちに似て端正な字で「三島」と記名されていた。