いつつ



 谷垣源次郎の住所と、その孫たちが住む家はすぐに見つかった。観光地でも何でもない普通の農村地域にある一般住民の家になんと言って話を聞きに行こうと迷う俺を尻目に、男子学生はさっさと電話で繋ぎを取ってくれた。
 約束の時間通りに、住所を書き留めた紙と地図を片手にレンタカーで向かう。雪道の運転に慣れていない俺は公共交通機関で、と言ったが、男子学生は「絶対に無理だと思うよ」で一蹴した。今は彼の言うとおりだと思う。地平線まで雪原とまっすぐな道路が続く景色を眺めながら、俺は眠らないように注意しながら運転する。彼には何から何まで世話になりっぱなしで、足を向けて寝られない。

 平らな雪原にぽつりと建った家は、想定の三倍は大きかった。車を走らせても家のシルエットが大きくなるばかりで、なかなか到着しない。やっとのことで庭先のスペースに慣れないレンタカーを停めた俺は、雪を掻き分けながら玄関口に辿り着き呼び鈴を押した。返事はない。二度目を押すと、ぱたぱたと足音と共に玄関が内側から開けられる。ふわっと暖かい空気が顔に当たった。
 長い髪をひっつめた、俺と同じ年くらいの女性が顔を出す。大柄でくっきりした顔立ちで、涼しげな目元が色っぽい。俺はほんの少しだけどきりとした。

「はい、どなたですか?」
「先日電話でお約束させていただいた……」
「ああ! ちょっと待っててくださいね! かあさん、かあさーん。大学生さん、来たよ!」

 廊下の奥から年配の女性が顔を出す。

「あらあら、はいはい、こんな遠くまでご足労頂きまして……」

 母親なのだろう。面立ちがよく似ている。促されるままに客間に通され、俺はだだっ広い和室に所在なく座る。

「私の祖父のことを知りたいといっても、別にそんな大した偉い人じゃないはずなんだけどね」

 女性はからからと笑いながら古そうなアルバムを茶卓に上げた。

「なんだってうちのおじいちゃんを?」
「日露戦争後に北海道に渡った方のついせきちょうさをしているんです」

 男子学生がこう言えばいいから、と言ったままに言葉をなぞる。このあたりで彼の通う大学の名前の力は絶大で、訝しみつつも快く話をしてくれそうだった。

「へえ、そうなのねえ。ご苦労様ねえ」

 きっと女性は俺があの男子学生の後輩だと思っているのだろう。少しの心苦しさを覚えながら、俺は曖昧に微笑んで見せた。

「はい、これがおじいちゃん。かなり昔の写真よ。多分二十代じゃないかしら」

 差し出されたセピア色の写真には、俺の見た杉元佐一と同じ制服を着た若い男が唇を引き結んでこちらを見つめていた。一人で立っている写真だが、かなり体格がいいように見受けられた。

「秋田県の出身でね、もとはマタギだったんだって。無口で体が大きくて見た目はおっかないんだけど、穏やかで優しくてね。犬が好きで何頭でも拾ってくるもんだからお父さんがよく怒っていたわ」

 確かに厳めしい顔つきはいかにも恐ろしげだ。だが、真剣でまっすぐな眼差しはいかにも好青年めいている。俺にはこの真摯なまなざしの男が、この写真を撮影した時点で自分と十歳も変わらないことがどうしても信じられなかった。
 
「この写真を撮ったのは、北海道にいらっしゃった後ですか?」
「うーん、どうかしら。そこまでは分からないけど、でも近い時期だとは思うわ」

 それから俺はしばらく谷垣源次郎の話を聞いた。若くして退役し、この地で農業を始めたこと。愛妻家で子煩悩な優しい男で、近所からの信頼も厚かったこと。度胸があり、鉄砲の腕もたち、クマが出たときは一等最初に現場に駆け付けたこと。
 彼女の父親が第二次世界大戦で出征することになったときは、老いた体に鞭打ち白襷をかけ「かわりに俺が行く」と涙ながらに訴えるほど家族思いな男であったらしい。
 年代ごとに枚数の増える写真は、おそらくそのまま日本の豊かさと比例していた。谷垣源次郎は写真の中でめったに笑っていることはなかったが、妻や家族に囲まれた姿は穏やかで幸せそうであった。

「この方のお話を、お爺様から聞いたことはありませんか?」

 俺は一葉の写真を差し出す。杉元佐一の写真だった。女性は目を細めてそれを見ていたが、はっとしたように「あら、この人の写真見たことあるわ」と呟いた。
 俺は身を乗り出す。

「本当ですか? この人の名前は杉元佐一というんですけど……」
「ああ! はいはい! 聞いたことある! よくおじいちゃんが話してた!」

 言いながら、女性は傍らの分厚いアルバムを次々にめくりだした。簿冊の間から、ひらりと古い写真が落ちた。「あ、落ちましたよ」と俺はそれを拾い上げ、目を丸くする。
 若い、おそらくは二十代の谷垣源次郎の写真である。日本人離れした厚い胸を晒す上半身裸で、下半身には褌のみを身に着けている。褌で締め上げられた固そうな尻をカメラの方に突き出し、筋骨隆々の上半身をひねるようにしてこちらを見ている。安いグラビアのようなポーズだ。煽情的、と言っていいのだろうか。
 俺が放心しているのを見て、女性は俺の手元を覗きこんだ。彼女は血相を変えて俺の手から写真をもぎ取る。

「全部処分したと思ってたのに!」

 これ以外にもこういう写真があったということだろうか。谷垣源次郎とはいったいどういう男なのだろう。
 女性は大慌てで写真をしまい込むと、何事もなかったかのようにアルバムを差し出した。昔懐かしい竹の子族のような衣装を着た少女と一緒に立つ杉元佐一の姿だ。二〇三高地での厳しく真剣な面持ちとも、俺の部屋に現れる生気のない姿とも違う。顔に大きな傷こそ走っていたが、顔つきは優しく、口元には笑みさえ浮かんでいるように見えた。

「この人でしょ? 不死身のスギモト」

 聞いたことのある異名だった。俺は強く何度も頷く。

「ええ、この方についても調べているんです。何か聞いてはいませんか?」
「すごい人だったってよくおじいちゃんが話してたわ。どこまで本当か分からないけど、ヒグマも素手で倒すような人だったって」

 それを聞いて俺は苦笑いする。大学の助教授の「逸話に事欠かない人物」という評を思い出していた。

「若い頃、おじいちゃんはその人と宝探しをしていたんだってよく聞かせてくれたわ」
「へえ、そんなことが――」

 俺はふと「杉元佐一」が繰り返していた「きんかい」という言葉を思い出した。杉元佐一の写真を見つけた時と同じようなひんやりとしたものが背筋を駆け上る。不審がられないように、焦らずゆっくりと言葉を選ぶ。

「あの、その探していた宝ってどういうものか聞いていませんか? もしかして、金だったりしませんか?」

 女性は目を丸くし、それからにこにこと笑った。

「よく勉強しているのねえ! ほら、このへんって昔よく砂金がとれたらしいのね。で、アイヌの――アイヌって知ってる? 北海道に昔から住んでいた人のことなんだけど、その人たちが集めて隠していた金を探していたんだって」
「見つかったんですか?」
「見つかってたらこんな場所で農家してないわよお」

 手を大きく振りながら女性は笑った。

「見つかってたらおまえをお姫様みたいに育ててやれたのにってよくおじいちゃんは言っていたけど、全然お姫様なんて柄じゃないのに、ねえ」

 農作業のためか日に焼けた顔で恥ずかしそうにはにかみながら、懐かしむように女性は言う。 

「この女の子が、アイヌの子なんですか?」

 俺が聞くと、女性はそうそうと頷いた。

「名前は……おじいちゃんに聞いてたんだけど、忘れちゃったわ。外国人の血が入っていて、きれいな青色の目をしていたんだって」

 俺は少女の姿をまじまじと見つめる。色褪せたモノクロ写真ではその青色の目は分からないが、大きな瞳が射るようにこちらを見つめていて、目が離せなくなった。

「杉元佐一や、この女の子について何か聞いていませんか? もしくはその宝探しのこととか……」

 尋ねると、女性はそのページの写真を順に指さす。

「この人はコソ泥。お調子者でちょっと間抜けだけど、ほんの少しの隙間からどこにでも入れたって。この人がお侍さんで、このときもうおじいちゃんだけどものすごく強かったの。この女性はお医者さん。で、この大きい男の人が……」

 女性はそこでふと言葉を切る。上目遣いに辺りを窺うと声を潜めた。

「柔道の達人のチンポ先生」
「はい?」

 そのあんまりな呼び名に俺は思わず聞き返してしまったが、彼女は顔を赤くして自分の膝を叩きながら笑うだけだった。
 俺は気まずく咳ばらいをしながら、女性に聞いた。

「その人たちの住んでいた場所やその後何をしていたかはご存知ではありませんか?」

 また、何か幸運が転がり込んでくるのかと思ったが、女性は首を横に振った。

「そういえば、その人たちがどうなったかは聞いてないわね。おじいちゃんはあんまりおしゃべりな人ではなかったのよ。よく宝探しをしていたんだって話は聞いていたけど、それだけ」

 そうですか、と俺は呟いた。手掛かりが手のうちから滑り落ちていく感覚に落胆する。かすかな手応えを感じてはいたのだが。

「ありがとうございました。大変参考になりました」

 俺は頭を下げ、それからその「宝探し」をしていた人たちの写真をレンズ付きフィルムで撮影させてもらった。写真を撮り終えた時点でちょうどフィルムが残り一枚であったので、何気なく次のページに貼られた女性の写真を撮る。
 和服姿の女性で、細面に涼しげな目元の美しい人であった。だからというわけではないが、指が自然とシャッターを切っていた。かしゃん、とおもちゃのような感触とともにシャッターが落ちる。

「あの、この方は……」

 俺が尋ねると、女性は「ああ」と写真に手を添える。

「おばあちゃんよ。私が生まれる前に亡くなっちゃったんだけど。きれいな人でしょう? 私は似なかったんだけどね」

 そうからりと笑う日に焼けた目元は、写真の中の女性によく似ていた。