ひみつのふたり



 ゲームアプリの制作会社という申請で借りたレンタルオフィスのドアには、律儀にゲーム会社としての看板が出されている。そのドアを無造作に開けると、スポーツカーの座席に似た大袈裟なチェアに腰掛けたケイノが、目を細めてこちらを見た。
 ロシアの国防システムにさえ侵入出来るとケイノが豪語してやまないそれは、見た目だけならFPSに熱中する学生が初めて組んだゲーミングコンピュータに似ている。デスクの上にはそれが一台と、三台のディスプレイ、ノートパソコンが数台、無造作に投げ出されていた。
 その中に埋もれるようにケイノはいた。まるで電話番か何かのような所在のなさだ。
 アルバイト中の家出娘にしか見えぬ彼女に、降谷は内心溜息をつく。こいつが公安のサイバー攻撃特別捜査斑の鼻面を引き回したと思うと、拍子抜けで笑いも起きない。

「頼んでいたものは?」

 降谷が問うと、ケイノはスマートフォンの充電ソケット用の端子がついた小さなカードを降谷の方に放った。

「そんなもの、路地裏で中国人が売ってる」
「きみに作らせた方が早い」

 ケイノは満更でもなさそうに鼻を鳴らす。細い指が、デスク上のSDカードを示した。

「受信用」

 そうか、と呟き、降谷はそれを摘み上げた。

「食事はしているか?」

 唐突な降谷の言葉に、ケイノは眉を上げる。

「エンジニアが全員不摂生をしてるってのは偏見だ」

 ふ、と降谷は唇に笑みを刷く。優秀で、比例関数的に扱いにくいケイノを、降谷は殊の外気に入っていた。それは、されども己には御しきれるという強烈な自信が与える陶酔感であろうか。
 つれない女の方が滾るものだ。それが恋人でも、協力者でも。

「痩せたんじゃないか」

 降谷はケイノの頬に触れる。ひんやりとしていて、皮膚が薄い気がした。
 ケイノはその手を振り払おうとはせずに、鬱陶しそうな顔だけする。

「初めて会ったときからこんなだったでしょう」

 不健康なほどに痩せた手首がひらひらとひらめく。青白い顔の澄んだ白目の目立つ大きな目がぎょろりと音がしそうな動きで降谷を追う。
 降谷はケイノの頬から手を離した。

「いっしょに食事でも、と思ったのだが――」
「協力者として? 依頼人として? まさか友人?」

 どう答えるべきか、降谷は瞬時に判断して笑んで見せる。

「一人の男としてだ」

 ケイノの薄い肩が竦められる。化繊の安っぽいシャツの生地を肩甲骨が押し上げた。

「意味がわからない。あなたを女だと思ったことはない」

 そうじゃない、と言い募るのも野暮な気がして、降谷はそれを黙殺する。ほう、とケイノは細い息を吐く。

「そういうの、得意でも好きでもないから単刀直入に聞くけど、それって自覚的にやっているの?」
「何の話だ」
「そうやって、私にあなたを好かせようとしている」

 降谷は答えあぐねてケイノの顔を見つめる。ケイノは居心地悪そうに視線を逸した。

「自覚的にやっているなら意地が悪い」
「無自覚なら?」
「タチが悪い」

 降谷は笑う。今度は心からの笑いだ。

「おまえがその手の言葉遊びをするとは思わなかった」

 それに、こうまで駆け引きに敏いとも。世慣れぬパソコンオタクと舐めてかかっていた点は否めないが。
 ケイノは薄い唇を歪める。

「あなたに感化されたかな」
「光栄だ」

 ケイノの向かっているデスクに降谷は腰掛ける。邪魔なケーブルの束をどけようとすると、ケイノが二度指を鳴らしてケーブルを指差す。さわるな、と声を出さずに唇だけが動いた。降谷は両手を肩の高さまであげて、わかったと口の動きだけで答える。
 ケイノは降谷が無理な注文をしたときと同じような顔で長い前髪を掻きあげた。

「なんとなく、考えていることは分かる。そういうふうになれば、私はあなたを裏切ることが出来ないと思ってる」
「僕が心からきみの気を惹きたいと考えている可能性は考えなかったのか?」
「仮にそうだとしても、己の心も利用することにあなたは躊躇しない」
「褒め言葉として受け取っておく」
「呆れてるんだ」

 たとえその意図が気取られていても、降谷には瑣末なことだ。
 降谷はケイノの顔に己の顔を近付けた。吐息を――体温さえ感じられるほどの距離に、ケイノの青白い細面がある。
 ケイノは眉根を寄せて、降谷の青灰色の瞳を見つめた。

「そこまでしなくても逃げやしない」
「その信用が自分にあると思うのか?」
「ああ、あ――、人格的には信用足り得ない?」
「そのとおり」

 ケイノはなぜか陰鬱に聞こえる笑い声を上げた。薄い唇の端がきりと上がる。

「でも、技術的には信用しているはず」
「その一点だけは」
「ならば逃げないとわかるでしょう。逃げるならば、とうにやってる」

 大した自信だ。だが、こちらとて、そのときはどんな手を使っても捕らえる自信がある。
 口を開きかけた降谷の鼻を、ケイノは抓み上げた。痛くはないが、不快で不愉快なことには違いない。

「縛られすぎると、逃げたくなるかもね」

 ケイノはそれだけ言うと、椅子から立ち上がる。降谷の鼻を抓んでいた指を、降谷の上着で拭う。勝手に触っておいてその扱いはなんだ、と降谷は内心むっとした。