I want to break free




 引越して以来パンドラの箱と化していたダンボールの中から、学生時代に使っていた音楽プレイヤーを見つけた。さすがに壊れているかと思っていたが、記憶のとおりに電源がついた。バッテリーは弱っているのかみるみるうちに残量が減っていくが、それでも音楽は聞ける。
 そういえばこの曲好きだった、などとむず痒い気持ちになりながら、イヤホンを耳にぼうと天井を眺めていた。
 音楽は好きで、以前はよく聞いていた。いつから聞かなくなったのだったか考えて、母が亡くなってからだと思い出す。娘がおまわりさんの”お世話”になって、母も草葉の陰で泣いているだろう。
 ケイノはイヤホンのコードを指にくるくると巻き付けて手慰む。パーティションの向こうでドアが開閉する影が天井に映った。
 ケイノはショートカットキーでディスプレイをロック画面に戻す。やましいことをしているのか? ――そのとおりである。

 視界の端に降谷が立つ。音楽の向こうで何事かを言っているのが聞こえた。ケイノは指先でイヤホンをこつこつと叩く。降谷は何か言いたげに眉を上げたが、わざとらしく首を横に振るだけだった。
 そのとき、控えめなアラートとともにプレイヤーがシャットダウンする。ケイノはわずかな気まずさを感じながらイヤホンを外した。

「バッテリーが切れた」

 ケイノが言うと、降谷はケイノの手元を見下ろす。

「随分な骨董品だな」
「エンジニアだって新しいもの好きばかりじゃない」

 ふ、とケイノは降谷の顔を見上げる。冷ややかにさえ見える澄んだ青灰色の瞳と目があった。
 ケイノはこれほど頭の切れる人間を他に知らない。頭が切れ、洞察力に優れ、果断で、一手どころか二手も三手も先を読む。
 好ましいか好ましくないかで言えば、その知性は好ましい。打ち負かしてやりたい。傷付けたいのでも、失脚させたいのでもない。そういうやり口は本意ではない。ただ、その自信と生気に満ちた顔が引き攣るところが見たいのだ。
 降谷はデスクに腰掛け、ケイノを見下ろす。

「きみから僕を見るのは初めてじゃないか?」
「そう? 実はあなたと私の共通点について考えてた」

 降谷は顔をしかめる。

「二足歩行のところ」
「……もう少しあるんじゃない?」

 それが共通点ならばほとんどの人間がそうだろう。そこまでして己との共通点を考えたくないのだろうか。この男は何かにつけてケイノに自分を好かせようとするが、ケイノに言わせればこういうところで詰めが甘い。それすら計算だとしたら、両手を挙げて降参するしかないが。

「あなたは洞察力に長け、人の心に添い手玉に取ることに自信があるみたいだけれど――」
「待ってくれ、僕をそういうふうに思っていたのか?」

 ケイノは口を噤み、降谷のシャツの皺を眺めた。それからのろのろと首を縦に振る。

「そういうときもあるかな」
「……そうか、まあいい、続けて」

 不服そうな顔が面白くて、ケイノは低く笑った。

「私も人の意図するところを察することは、実はそんなに苦手じゃない」 

 思いやり深いんだよ、と茶化して付け足す。
 他人のシステムを暴くには、製作者の意図を読み解く必要がある。逆もまた然りだ。他者から侵入されないシステムを構築するためには、自分ならばどうやって侵入するかを考える。人の意図を推察することに長けていたから、この仕事が向いていた。

「そのはずなのに、どうしてあなたみたいに人当たりよく出来ないんだろう」
「――は?」

 降谷は呆気にとられて目を丸くする。常に睫毛の先にまで神経を行き届かせているこの男の、不意なこの表情は割合に好きだった。
 降谷は何を言うかしばらく悩み、溜め息とともに口を開く。

「人当たりよくなりたいと思っているのか?」
「思ったことはないけど」
「……混乱してきた」

 降谷は頭を抱えた。この男の明晰な頭脳も混乱することがあるらしい。

「似たような資質を持ちながら随分と掛け離れていると思っただけ」

 ケイノはデスクチェアのアームレストに寄りかかる。
 降谷は口の端をわずかに上げた。

「きみも警察官になる未来があった?」
「絶対に無理。フィジカル0点だから」
「そうだった」
「そもそも体格基準ではねられかねない」

 降谷は何気なくケイノの枯れ枝のような腕を取る。不安になるほど細い手首が、さしたる抵抗もせずだらりと垂れた。
 何か言いかけた降谷の唇にケイノはぴたりと指先を翳す。

「言わなくていい」
「……何を」

 ケイノは立てたままの人差し指を、宙でくるくると回した。

「あなたは私に毎日の食事を疎かにしていないか尋ね、私はそれにNOと答える。そしてあなたは私を食事に誘い、私はそれにやっぱりNOと答える」

 降谷は片眉を上げ、皮肉っぽい表情をする。

「完璧だ。伊達に僕らの仲じゃない」
「どうも」

 ケイノは天井を見上げる。ふと灰原の言葉を思い出した。

「ただ、今日はあなたの思い通りにはならない。ちなみに私は誰かと食事をするのが苦手だけど、特に好き嫌いもアレルギーもない。強いて言うなら量の多い食べ物は食べきれない。食べるのは遅いし、食事中に気の利いた話も出来ない。それでいいなら金曜日の昼は空いてる」

 ケイノの言葉に、降谷は一瞬瞠目した。それからすぐに器用に笑んで見せる。

「どういう風の吹き回しだ」
「助言を受けた。たまには素直に承けてみるのもいいかもしれない」
「誰からの助言かは知らないが、感謝しておくよ」

 降谷はジャケットの胸ポケットから手帳を取り出し、スケジュールを確認する。ちらと見えた紙面が真っ黒く見えるほど予定が詰まっていた。ケイノは肩をすくめる。

「聞かなくても分かった。空いてない」
「……いや、多分どうにかなる」

 難しい顔をしてスケジュール帳とにらめっこする降谷を見上げながら、ケイノはふうと息を吐く。
 降谷のスケジュール帳につけられているボールペンを取り上げると、ポケットに入れっぱなしのレシートの裏にアルファベットと数字を走り書きした。それをぺろりと差し出す。

「いつでもいいよ。逃げやしない」

 受け取ったそれがメッセージアプリのIDだと知った降谷は、珍しく困惑を隠さなかった。
 ケイノはくすくすと忍び笑う。

「ねえ、これってあなたが言ってた”そういう雰囲気”?」
「不本意だが、そのようだ」

 不貞腐れたようなその顔が演技だとしても、飛び上がりそうなほど嬉しかった。どんな些細なことであれ、この男を出し抜くことほど気分のいいものはない。露骨ににやつくケイノから、降谷は顔を背ける。

「気分がいい」
「その一言で台無しだ」

 ケイノは鼻を鳴らして、降谷の上品なネイビーのネクタイを引っ張った。意外と重くて、びくともしない。ケイノの腕力が頼りないだけかもしれないが。

「キスでもしてやりたい気分」
「どうぞ」
「いやだよ、不衛生だもの」

 ケイノは手を離す。
 引っ張られ歪んだネクタイを直す降谷を横目に見て、ケイノは目を細めて微笑んだ。