飼い犬に手を噛まれる獣



 食事に行く予定は延びに延び、あれから3週間近く経っていた。メッセージアプリには3週間日程を決めるのに苦慮した痕跡が残っている。
 最新のメッセージは、先週末に届いた「来週了解」という四字熟語のような一言だ。普段の印象どおり、彼女のメッセージはおおかた素っ気ないものだった。
 ただしプライベートでは急ぎのメッセージでない限り朝起きたときと夜寝る前にまとめて返信するという不可思議なルーチンのおかげで、ケイノが意外にも早寝早起きの規則正しい生活をしていることが知れた。死にかけの死神のような青白い顔で言う「これでも健康は気遣っている」という彼女の主張を疑っていたが、嘘ではないのかもしれない。
 今日着ていくシャツを選びながら、降谷はぼうとそんなことを考える。キッチンの方からトーストの焼ける香ばしい香りがする。朝食は軽めに済ませるつもりだ。
 安室透の練習も兼ねて淹れたコーヒーを飲みながら、今朝のニュースを確認する。テーブルの端に置いていたスマートフォンが鳴動した。風見からの着信である。こんな朝早くに何の用だろう、と怪訝に思いながら通話ボタンをタップする。

「ああ、降谷さん――」

 ただただ呆れ果て疲れきったようなその声音を聞いて、降谷は「またあいつか」とピンとくる。食事の約束をしたり、メッセージアプリのやりとりを受け入れたり、近頃おとなしいと思っていたが、油断も隙もあったものではない。

「いい知らせではなさそうだな」
「……今、警察庁のウェブサイトを見られますか?」
「ああ、今見るが――なんだ?」

 電話の向こうで風見が一瞬言葉を失い「見た方が早いです」と溜め息のように答えた。
 降谷は開きっぱなしのラップトップのスリープ状態を解除し、警察庁のウェブサイトを表示させる。ブックマークしていたリンクを表示させたはずであるのに、ディスプレイには紫と金色を基調にした派手なページが表示された。

 ――マダム・ゼロのチャクラの館

 見慣れた警察庁長官の顔が、大写しでトップページに載っている。写真こそ広報用のバストアップを利用しているが、紫のベールを被り金色のアクセサリーをつけた姿に画像が修正されている。次官が羽の生えた裸の赤ん坊にされ、長官の周囲を花を撒きラッパを吹き鳴らしながら舞い飛んでいた。
 降谷は目を疑い呆気にとられ、しばし放心する。

「…………やってくれたな」

 低く呻くと、風見も溜め息をつく気配がした。

「今回ばかりはいたずらではすみませんよ」
「不正アクセスに電子計算機損壊等業務妨害か。最悪公務執行妨害もつく可能性がある。5年は食らうな」
「うちのサイバーフォースが彼女を捉えられればですが」

 降谷は「古代のチャクラがあなたを導く!」「幸福の源は丹田にあり!」という謎のフレーズが踊るページを次々確認していく。
 生活安全局長が札束の風呂に浸かり、刑事局長は七色の光を発しながら宙に浮いていた。馬鹿馬鹿しいほどに手が込んでいる。
 実害がないとはいえ、ここまでされると警察庁の威信に関わる。捜査は大掛かりなものになるだろう。

「公安どころか、国に喧嘩を売ったようなものだな」

 降谷が言うと、ほんの一呼吸のあとに風見は「彼女が喧嘩を売っているのは降谷さんにでしょう」と答えた。
 降谷は舌打ちをしそうになったが、つとめて冷静に先を続ける。

「ここまでやらかされると、あいつに捕まられては僕まで巻き添えだ」

 もともと違法な協力者だ。言い訳も対処も幾通りか考えていたが、これほどド派手に公安そのものを真正面からぶん殴ってくるとは想定していなかった。――いや、想定はしていた。だが、制御できているつもりでいたのだ。
 降谷は額を押さえて項垂れると、力無くスマートフォンにこぼす。

「紛れもない悪事だが、下らなすぎて腹も立たん」
「よかった、私だけかと思っていました」
「僕はケイノのオフィスを押さえる。何か動きがあったらまた教えてくれ」
「はい、その――気を落とされませんように」
「……分かっている」

 出来た部下の一言に苦笑しながら、その実腸が煮えくり返る気分だった。彼女にではない。自分自身にだ。
 降谷は淹れたてのコーヒーも、トースト中の朝食も置き去りにして上着を羽織る。
 通勤ラッシュより早い時間だったのが幸いして、目論んでいたより早くオフィスに着く。ケイノはいなくとも、コンピュータを押収しなければならない。証拠品のためか、証拠隠滅のためか、それはまだ決めかねていた。
 預っていた鍵でオフィスのドアを開ける。中はもぬけの殻だった。デスクも、スポーツカーのように大きなチェアも、複数のパソコンも、何一つない。

 ――逃げたか

 部屋の中心に四つ折りにされたコピー用紙が落ちている。なんとなく嫌な予感がしながら、ハンカチ越しにそれをつまみ上げる。

「m9(^Д^)」

 中にテキストでそれだけ書かれているのを見て、降谷はコピー用紙をぐしゃぐしゃに丸めると白い壁に投げつけた。
 勢い良く振りかぶったにも関わらず、紙くずは軽い音を立てて壁にぶつかった。


******


 乗っ取られたウェブサイトはどういう理由か警察庁側ですぐに消すことも元に戻すことも出来なかった。担当者は青い顔をして「サーバーが」「FTPが」と釈明したが、その手の話に疎い上層部に相当絞られ、傍で見ていて哀れなほどであった。
 連日ニュースやワイドショーで面白おかしく報じられた「マダム・ゼロのチャクラの館」は、おそらく日本人のほとんどが目にしたのではないだろうか。
 皮肉にも警察庁の堅苦しいウェブサイトであった頃には考えられない規模の人間が閲覧したせいでサイトのサーバーがダウンし、辛うじて面目が立ったという有様である。

 警察庁はこれを国家を目標としたサイバーテロとし、捜査本部を構えたが、さしたる収穫を得ることは出来なかった。
 こんないたずらのような事件に一向に成果が上がらないため、上からは相当にせっつかれ、国民は警察庁のサイバーテロ対策は不安ばかりだと騒ぎ始める。情報技術解析課長の憔悴ぶりは庁内でも話題になるほどであった。
 ウェブサイトのファイル上に「ぬいぐるみアーミーのふかふかブーツ軍曹」と署名があったために捜査本部が「大規模なサイバーテロ組織からの攻撃である可能性」を記者クラブに仄めかしたところ効果は抜群で、ワイドショーは連日ぬいぐるみアーミーなる謎のハッカー集団についてあることないことを騒ぎ立てた。
 ある番組ではサイバーテロ集団に詳しい有識者が大真面目にぬいぐるみアーミーについて論じ、ある番組では匿名希望の関係者がぬいぐるみアーミーについて証言した。余談ではあるがその自称関係者は「もこもこてぶくろ二等兵」と呼ばれていたらしい。
 降谷の推測するところでは、おそらく彼女は捜査関係者が大真面目な顔をして「ふかふかブーツ軍曹」と発言するところが見たいだけだ。

 だが、声明もなく、続報もなく、捜査に進展もなく、飽きっぽい人々はすぐにぬいぐるみアーミーも、ふざけたウェブサイトも忘れてしまった。ワイドショーの話題は有名女優の離婚と、ケチな強盗事件に取って代わる。捜査本部はそれよりも少しの期間粘った。しかし初動捜査でこれ以上の成果が見込めないと判断され、捜査本部は解散された。
 捜査本部の戒名が片付けられるのを眺めながら、降谷は廊下を闊歩する。隣を歩いていた風見がちらとそちらに目をやったのが見えた。

「大勢エンジニアを引っ張ったようですが、彼女は名前も挙がりませんでしたね」

 コンビニコーヒーの紙コップを片手で持ちながら、風見が声をひそめて言う。

「安堵すべきか、流石と言うべきか、うちのサイバー犯罪対策の脆弱さを嘆くべきか」

 降谷は溜息混じりに答えた。彼女が捕まらなくてよかったと思う気持ちと、己の所属する組織の不甲斐なさを嘆ずる気持ちとが綯交ぜになる。

「いつ向かわれるんですか?」

 不意に風見は言う。降谷は信頼した部下の顔をちらと見た。

「――どこに?」

 そう返すと、風見はひどく怪訝そうな顔をする。

「え、彼女を迎えにですが」

 降谷は言葉を詰まらせた。己よりもずっと不正を厭い職務に忠実な風見が、彼女と積極的に組もうとするとは思っていなかった。
 たしかにケイノは降谷よりも風見の方に懐いていて、風見も何かとケイノのことを気にかけていたが。

「犯罪者だぞ」
「……それはそうですが」

 弱みを握って捻じ伏せた彼女に手を噛まれた。今回ばかりは痛み分けということで、この大騒動は不問に処すつもりだった。
 今後ケイノに”協力”を依頼するにしても、風見を巻き込むつもりはない。表向き風見には、彼女からは手を引いたことにしたかった。
 風見は言いにくそうに言葉を続ける。

「しかし、降谷さんが相手をしてやらないと、彼女は絶対にエスカレートしますよ」

 降谷は鼻を鳴らす。もともと無茶苦茶をやっていたところを捕獲したのだ。手放し、行き着く先はおおよそ想像がつく。

「そうだろうな」
「勝手にしろと突き放すには、恐ろしい技術力と奇妙な倫理観の持ち主だと思うのですが」
「そのとおりだ」
「彼女にとって降谷さんは一番遊び甲斐のある相手なので」
「そ―――」

 降谷は額に手をやり天井を仰ぐ。

「遊びでどれだけ大騒動になったと思ってるんだどうなってんだあの奇抜な頭の中身は勘弁してくれ……」

 呻く降谷に風見は何も言わなかった。ただ風見のなんとも言えない表情から、おそらくケイノにも何かしらの言い分はあったのだろうと察しはついた。