(終)KILLER QUEEN
ガラス張りの美しいロビーに人々が忙しなく行き来している。外資系であることもあってかロビーで交わされる言葉の中に外国語が混じっていた。それを後目に降谷は受付の女に声をかける。
「こんにちは、人を呼んで頂きたいんですけれども、大丈夫ですか?」
「ええ、もちろんです。どなたでしょうか」
女は受付としての仕事以上の愛想の良さで答えた。降谷は部署名と女の名を告げる。女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ございませんが、勤務中に情報管理室の方にはお繋ぎ出来ないことになっております」
「ええ、困ったなあ。彼女の休憩時間、分かりますか?」
「こちらのスタッフはフレックスなので……」
降谷は受付のデスクに乗り出し、立てた人差し指を唇に当てる。
「彼女とは友人で、忘れ物を届けに来たんです。彼女も困ってると思うから、なんとかして呼んで頂けませんか? 何時になっても構わないので」
女はしばらくデスクの内線電話と上司の方を交互に見ていた。降谷が困り顔で微笑むと、女は「少々お待ちください」と受話器を取り上げた。一言、二言何かを言うと、通話を切り上げ「ただいま参りますので」とはにかむ。
ものの数分で、磨き上げられたビジネスの場に似つかわしくない女が高すぎるヒールを鳴らしながらエレベーターを降りてきた。好きな方向に跳ねた髪は、暗いグレーとクリムゾンレッドに染められている。
「職場に来るとは思わなかった」
それだけ言うと、着いて来いと顎をしゃくり、ケイノはつかつかとロビーを横切り外へ出ていく。降谷は受付の女に礼を言うと、彼女のあとを追った。
近場のカフェで、ケイノは席につくと同時に日替わりランチを注文する。昼食時には少し早いためか、店内には空席が目立った。降谷はコーヒーと軽食を注文する。
店員がテーブルから離れると、ケイノは挨拶もせずに「今の会社、セキュリティ厳しいの」と言った。
今の会社、というのは先程訪問した外資系の大手製薬会社だ。降谷は「知っている」と答える。
「受付の彼女、勤務中の私に来客を通したのを知られたら馘首になるかもね」
「徹底してるな」
「海外の会社は情報の扱い方も、それを管理する人間の重要性も知ってる。彼女は美人で愛想が良くて、それは稀有な才能だけれど、でも代替可能な才能だよ」
「それは僕への嫌味か?」
ケイノはそれには答えなかった。
「この会社、社内サーバーの保守管理は外部委託だけど、当然信頼のおける企業に相応の金を払ってる。それなりに使えるエンジニアを必ず数人常駐もさせる。ただしエンジニアの派遣元は一切公開していないし、社内でも知っている人は少ない。――バレないと思ったんだけどな」
「甘いな」
「参考までに、どうして見つかったか聞いてもいい?」
「それはヒミツ」
受付の彼女にしたように、唇に人差し指を当てて見せる。彼女と違い、ケイノはひどく不愉快そうな顔をした。
「次は海外高飛びしかないかな」
「冗談でも次なんて言わないでくれ」
本当に、と念を押すと、ケイノは意地悪く薄い唇を引き上げた。どうにも調子が狂う。もう少し慌てふためいて欲しかったし、悪びれる素振りくらい見せて欲しかった。
しかし不思議と不快ではなく、どこかで再会を喜んでいるような気もする。強いて言うならそう思う自分が不快だった。
「ずっと聞きたかったんだけど」
ケイノは深紅の毛先を弄りながら言う。
「笑えた?」
「笑えるか、ばか」
ひひひ、とケイノは椅子の上で身をよじらせるようにして笑った。レンタルオフィスに半ば軟禁されていた頃より上機嫌だ。
「ねえ、警察の人、みんなでふかふかブーツ軍曹がーって言ってた? ふかふかブーツ軍曹対策会議とかしたの?」
「言うわけないだろう」
「なんだ、つまらない」
ケイノは椅子を軋ませながら脚を投げ出す。それでどうして立っていられるのか分からない独楽のようなパンプスがかつんと音を立てた。
「それで?」
険のある表情でケイノは言い、降谷を睨む。
「私を捕まえる?」
降谷はそれを鼻で笑う。
「無理だな、証拠がない。自白してくれるか?」
「あることあること言ってもいいなら」
ケイノは挑戦的に片眉を上げた。降谷は苦笑し、テーブルに肘をつく。不覚とはいえ厭な一蓮托生だ。
降谷は財布から免許証を出す。テーブルにそれを置くと、ケイノは意外そうに目を細めた。珍しい表情だ。わずかに気が晴れる。
「きみが僕の名を呼ばないのは、それが偽名だと疑っていたからだろう」
「そうだね」
こつ、こつ、と指先で免許証を示す。ケイノはテーブルの上の免許証を見て眉をひそめ、危険物を扱うようにそれを摘み上げた。
ケイノは免許証を表も裏も矯めつ眇つする。おもむろに降谷に手を出すと「保険証」と言った。降谷は黙ってそれに従い、保険証を差し出すために財布を取り出す。ケイノの長い腕が蛇のように伸び降谷の手から財布を奪っていった。
財布の中の保険証、カード、会員証といったものを次々に検分し、思い切り不愉快そうに顔をしかめる。
「やっぱり偽名だったんじゃない」
「悪いが職業病だ」
「いやなやつ」
拗ねた子供のような口振りに降谷は笑う。
「こうして名前も名乗ったし、今や立場もイーブンだ」
「腹立つ。もうあなたとはしゃべらない」
「そうは言ってもきみは僕が必要だろう」
ケイノは一瞬、腕を百足が這いのぼって来たかのような顔をした。それからふと真顔になる。
「そう、――そうかもしれない。私はあなたのもとから逃げ出して、あなたが困り果て汚辱にまみれているところを想像して満たされていたけど、ひとつ心残りがあった」
「ああ……聞くのが怖いな」
降谷の呻き声をケイノは聞いていないようだった。
「私はあなたが私への敗北感と憎しみで泣いているところが見たい! 出来ることならその涙を舐めてみたい!」
降谷は額に手をやりを項垂れる。馬鹿げて、阿呆らしくて、狂気の淵を反復横跳びしているような奴だとは思っていたが、ここまで振り切れているとは思わなかった。
「なんなら今泣けてきた」
「あなたが名前を明かした礼にこちらの手の内を明かしたのに」
「一生聞きたくなかったかもしれない」
この女、と内心で毒づく。ケイノはへらへらと笑うばかりだ。
「それを思うといくらでも碌でもないアイディアが浮かんでくる」
碌でもないことを考えている自覚はあったのか。
「そうじゃない。きみは、僕がいないとどこまでも逸脱していくだろう。そのうち取り返しがつかなくなる」
「そんなことない。ほら、見て」
ケイノは赤い髪を一房摘む。
「赤信号」
面白くもなさそうに唇の端を引き上げた。降谷はそれを笑う気にもならなかった。
店員がテーブルの傍らまで歩いてきて、二人の前に食事が置かれる。ケイノはスプーンを手に取る。降谷が笑うと、ケイノは怪訝そうに降谷の方を見た。
「やっと食事出来たな」
ケイノは思いきり不愉快そうな顔をする。
「勘違いするなよ降谷零、私はあなたの宿敵だ」