リビア経由で愛を込めて
「降谷さん」
呼ばれ、降谷は足を止める。陽気には見えぬ顔に一層険しい表情を浮かべた風見が降谷に並んで歩き出す。
「どうした」
「うちのサイバー科が庁内ウェブに不正アクセスの痕跡らしきものがあると大わらわです」
降谷は眉をひそめる。
「被害は?」
「今のところありません。それらしき痕跡があるだけで、本当に侵入されたのかも定かではないようです」
「アクセス元は調べがついているのか?」
「それが……リビアだと」
「リビア? 北アフリカか?」
「ええ」
庁内ウェブに侵入されたが特に被害はなし。侵入されたことさえ気取られぬ鮮やかな手口。アクセス元は地球の裏側。そういうふざけたことをする人間には、心当たりがある。
「説教だなこれは」
降谷が吐き捨てるように呟くと、風見もうんざりとしたように広い肩を落として見せる。
「ああ、やはり彼女なんですね」
「むしろ、そうでなかったら大問題だ」
遊び半分に警視庁に砂をかけるような技術力の有り余る阿呆がそのへんにごろごろいられては困る。行くぞ、と降谷が風見に声をかける。必要があれば、風見にケイノの姿を隠した報告をさせる。それを察したのだろう風見は一瞬嫌そうな顔をしたが、すぐに普段通りの四角四面な表情で頷いた。
車を風見に運転させながら、電話をかける。あえてケイノの携帯電話ではなく、レンタルオフィスの電話サービスに連絡した。呼び出し音の後に、受話器の上がる音がする。
「――はい」
滅多に鳴らない電話が鳴って戸惑っているのだろう。困惑気な声の主は名乗りすらしなかったが、聞き覚えのある声だ。
「ケイノか。今からそっちに行くから待ってろ」
「ああ、え? なに――」
答えを待たずに通話を終わらせる。
「オフィスの方ですか?」
「そのようだ」
風見は溜息を噛み潰すような顔をして車線を変更した。
******
都内のレンタルオフィスに車を乗り付ける。預かっていたカードキーを用意していたが、その必要はなくオフィスのドアは開いていた。
ドアを押し開け、室内に視線を走らせる。いつもと変わらない。6畳ほどのワーキングスペースには、デスクとチェアが一揃え。デスク上にはデスクトップコンピュータと数台のノートパソコン。いつの間にかモニターが増えているが、それは置いておく。
降谷が風見に目で合図をすると、風見は証拠品になり得るそれらに近寄り、不審な点がないか確認した。
パーテーションの向こうから、ケイノの青白い顔が覗く。黒い大きな目が室内の二人組を見とめた。
「早い」
言いながら、少しも悪びれることなくケイノら降谷と風見に紙コップのコーヒーを差し出す。レンタルオフィスの共有スペースにあるコーヒーマシンのものだろう。余談ではあるが、これは降谷が一人でここを訪れた際には決して供されない。
別にそれに苛立ったわけではないが、降谷はきつめの口調で風見に指示を出す。
「パソコンに触らせるな。証拠隠滅のおそれがある」
「また私何かした?」
何も答えない降谷のかわりに、ケイノは風見に「しました?」 と尋ねた。風見は一瞬言葉に詰まったが、降谷の視線を受けて小さく頷く。
「うちに不正アクセスの痕跡が……」
風見が言うと、ケイノは首を傾げた。
「私じゃない」
降谷にはちょっと理解できない派手な柄物のチュニックの裾を弄びながらケイノは言う。
「こんな馬鹿馬鹿しくて手間のかかる真似、きみ以外に誰がやるんだ」
降谷が言うと、ケイノは「知らないよ」と首を横に振った。大きな蜘蛛のような手がデスクを這う。
「どこからアクセスされたか見てやろうか?」
ケイノは肩を竦めた。降谷はケイノの細面を睨む。
「直近のアクセス元はリビアだ。おそらくさらに複数箇所を経由されているだろうが――」
ああ、とケイノが呻いた。いたずらがばれた子供ののような顔をして、降谷から目をそらす。
「それ、いつの話?」
「報告を受けたのは今朝だ。発見したのは昨晩だと聞いているが……」
風見が答える。ケイノはぎょろ、と瞳を天井に向けた。
「かなり昔にそんなことをやった気がする……」
「やはりきみだったな」
降谷の言葉に、ケイノは苛立たしげな視線を返す。
「公安にサイバーテロへの対策グループが出来たと聞いたときに、どんなもんかと覗き見たことがある」
「軽々しく言うが、違法行為だからな」
「うるさく言うな」
風見が眉根を寄せて何かを数える仕草をした。
「サイバー攻撃対策センターのことなら、昨年の春の話だが……」
降谷はこめかみを押さえて溜息をつく。攻撃を受けたことに1年も気が付かなかったとは、恥晒しもいいところだ。
ケイノはひどく言いにくそうに風見の方を伺い見た。
「そっちじゃないですよ。それになる前のやつ」
「……5年前か」
「多分、それくらい」
降谷は呆れ果てて天井を仰ぐ。空調ファンがのんきにくるくると回っていた。
「あの間抜けどもは5年も前の不正アクセスに今更気付いて大騒ぎしているってことか!?」
「逆によく気付いたと感心するくらいだ」
降谷はつかつかとケイノに歩み寄ると、ケイノの薄い肩を両手でがっしりと掴む。
「それで、どうだった」
「何が」
「警視庁のセキュリティは」
ケイノはしばらく宙に視線を移ろわせていたが、助けを求めるように風見の方を見る。風見が肩をすくめたので、ケイノは渋々答えた。
「まあ、ふつう」
「犯罪者に気を使われる日がくるとはな!」
「5年も前の話だし、ちょっとはマシになってるでしょう」
知らないけど、とケイノが呟くと、降谷は突き放すようにケイノの肩から手を離した。
まだ温かいコーヒーに降谷は口をつける。専用マシンで淹れたてとあって、それなりに味は良かった。降谷がそれを口にしたのを見て、風見もおずおずとそれに倣う。
「きみに依頼出来るならしている」
囁くような降谷の言葉に、ケイノはへらへらと笑うと、大袈裟なチェアに沈むように座った。
「あまり信用するなよ」
「これで人格的に信用出来れば重用するんだが」
「信用出来ない人間でよかった」
これ以上コキ使われると困る、とケイノは嘯く。チュニックの幾何学模様が椅子の上で波打ち歪んで広がっていた。