I know



 お昼時を少し外した定食屋は、空席が目立ち始めていた。ひっきりなしに聞こえていた鉄鍋を五徳に打ち付ける音にかわり、皿を洗う音が厨房から聞こえてくる。
 遅めの昼食をとっていた風見が、卓の脇を通りかかった人影にふと視線を上げた。若い女だった。体にまとわりつくようなブラウスは、昔ながらの鄙びた定食屋に似合わぬ原色の青だ。腰にまだらのファーとビーズの奇抜な飾りをぶら下げている。まるで大きすぎる孔雀のようである。
 こちらに気付いた彼女は、黒く大きな目をさらに大きく丸くした。

「風見さん、ああ、ここ、座ってもいいですか?」

 風見は言葉に詰まる。非合法の協力者と一緒にいるところは、あまり見られたくはない。だがケイノは風見の答えを待たずに風見の斜め向かいに座る。

「偶然」

 なんでもない挨拶に、風見は反射的に背広の胸ポケットに手をやる。ケイノはそこにスマートフォンがあることを知っていて苦笑いした。

「今回は本当に偶然」

 恐ろしいことだ。我々は誰もが己を監視し得る高性能のツールを持ち歩いている。その危うさを真剣に考えたことがあっただろうか。
 ケイノはメニューを手に取り、その表面に視線を落とす。
 客席から見えるように設置された小さなテレビで、昼のニュースが流れていた。ロシアがサイバー攻撃を受けたという短いニュースをアナウンサーが読み上げている。
 ケイノがよく己のコンピュータを「ロシアの国防システムにも侵入できる」と嘯いていたのを思い出した。
 風見の視線を追って、ケイノも背後を振り返る。画面のテロップを見て、ケイノは風見に視線を戻した。

「言っておくけど、私じゃないですよ」
「……冗談でもやめてくれ」

 ケイノは口の端を引き上げる。片手をあげて店員を呼ぶと、一番安い定食を頼んだ。
 それから風見の渋面を見て、首を傾げる。

「ああ、知らない人のふりをしたほうがよかった?」
「出来るならば」

 ケイノは肩をすくめてテーブルに肘をついた。
 ケイノという女の素性は、実のところ全くもって怪しいところがない。経歴も平凡の範疇を出ない。本人も――やや身なりが奇抜なことを除けば――どこにでもいる若い女でしかない。
 だが、どこで何が見ているか分からない、どこから情報が漏洩するか分からないということを、降谷や風見に嫌というほど教えてくれたのは彼女である。

「あれは、何を目的に行われたんだろうな」

 風見がすでに話題の変わっているテレビを指差しながら言うと、ケイノは「だから私じゃないって」とむくれた顔をして見せた。

「一般論としてだ」
「そんなの場合による。政治的な意図がある組織かもしれないし、小金目当ての個人かもしれない」

 風見はそのどちらの動機も持たない目の前の協力者を眺める。彼女の前では銀行の金庫の扉も刑務所の独房のドアもあってないようなものだ。ただその頭脳と技術は、今はゼロによって使役されている。

「ちなみに私なら、そうだな、大統領が格好いいからかな」

 へらへらと笑うケイノに、風見は呆れて茶をすすった。

「あなたは――その技術があるから試したくなるだけだ」

 風見の言葉にケイノは目を丸くし、次いでふと天井の方を見る。風見に視線を戻したときには、大きな目は面白そうに細められていた。

「そうかな」

 ああ、と風見が答える。アスリートのようなものだ。より早く、より強く、より遠くへ。それ自体に意味はない。己の限界を超えるという喜び。彼女を突き動かすのはそれだけだ。
 それだけの理由で、彼女は降谷零に執着している。優れた頭脳を、国家という多大な権力を、いずれ己の技術力でねじ伏せたいという渇望だけが、ケイノを協力者たらしめている。強固で脆い絆だった。
 店員が定食のトレーをケイノの前に置く。ケイノは愛想良くそれを受け取った。長い指が割り箸を折る。ぱきん、と軽い音がした。

「風見さんの怖いところは、人の心を知っているところ」

 ケイノは味噌汁の水面を割り箸の先端で乱しながら囁く。

「――あの人は、人の心を知らないと?」
「なんにでも筋が通っていて、それを掴めばなんでも思い通りになると思ってる」

 誰もが彼のように強い信念と驚異的な精神力で以て生きているわけではない。そういう意味では、明晰な頭脳と卓越した技術力を、悪ふざけにしか思えぬ物事にしか活用しない彼女は、彼とは対極にある。
 ケイノはパンツのポケットを探ると、テーブルにタバコの箱とライターを並べる。

「ちなみに私はいつもタバコを持ち歩いているんだけどなんでだと思いますか」

 食事を終えた風見は箸を置きながら眉をひそめた。

「吸うため以外に持ち歩く奴がいるのか?」
「魔除け」
「…………は?」

 呆気にとられる風見に、ケイノは我が意を得たりとばかりににっと笑う。

「昔、祖母に悪いものはタバコの煙を嫌うと教わった」

 長い指がよれよれの箱を弄ぶ。かなり長い間持ち歩いているようだ。

「お守り代わりに持ち歩いているなら、ライターはいらないだろう」
「火がなければ煙は起こせない」

 一理ある。いや、あるだろうか。根からの理系技術者のくせに、そんな非科学的なことを信じているのか。傍から見れば怪しい占い師に見えなくもないケイノの姿をまじまじと見つめると、ケイノはくすぐったそうに眉尻を下げる。
 風見は腕時計にちらと目をやる。ケイノはそれを目敏く見とめた。

「足止めしてごめんなさい。お先にどうぞ。私、食べるの遅いんだ」