顔のない男



 フリーランスのいいところは、仕事場所自分で選べるところだ。なかば監獄のような――これは叙情的な比喩というより、事実に近いのであるが――レンタルオフィスに閉じこもっているよりは、外で作業をした方が気が楽になる。
 軽量化が進んだとはいえケースに入れるとずしりと感じるラップトップを手にして、ケイノは下町界隈をうろついていた。雑居ビルの一階に小さな喫茶店が入っているのを見て、何の気なしにそこに足を踏み入れた。
 からんからん、と懐かしさを感じさせるベル音が響く。店内をぐるりと見回すと、カウンター席で少年がジュースを飲んでいた。他の客のテーブルを片付けていた男が、愛想良く微笑む。

「お好きな席にどうぞ」

 その男があまりいも知り合いに似ていたので、ケイノはぎょっとし、思わず目を逸らした。ぎこちなく会釈すると、出入り口から一番遠い席に座る。飴色に変わった木製の椅子には、臙脂色のベロアが貼られている。似た椅子が祖父母の家にもあったな、とぼんやりと考えていた。

「ご注文をお伺いしてもよろしいですか?」
「え、ああ、アイスコーヒーをひとつ」

 ケイノは注文を取りにきた男の顔をしげしげと見つめてしまった。まさかこんなところにいるわけがない。そう思うと、なんとなく顔もこういう風ではなかったような気がしてくる。

「かしこまりました」

 男は伝票に注文を書き付けるとカウンターの奥に引っ込んでいった。 
 首を捻りながらラップトップを引っ張り出し、電源を入れる。お菓子会社の販促ミニゲームの仕様書を確認していく。

「お待たせしました。アイスコーヒー、こちらに失礼しますね」

 パソコンを心配してか、テーブルの端にグラスが置かれた。ありがとうございます、と会釈を返す。
 青灰色の瞳が優しく細められた。やはり知り合いに似ている。似ているというレベルの話ではない。瓜二つだ。本人でなければ、生き別れの兄弟かドッペルゲンガーかどちらかだろう。
 向こうが他人のふりを決め込んでいるのだから、こちらが声を掛けるのも躊躇われる。それに、なんだか腹立たしい気持ちもある。おまえと私の仲なのにそこまで無視することもあるまい。
 しかし、あれほどまで一分の動揺もなく店員として接してくるのだから、本当に件の男とは別人なのかもしれない。こと人相を覚えることに関しては、自分のことはあまり信用していない。
 ケイノは釈然としないまま、氷で満たされたグラスをストローで掻き回す。かろん、かろん、と涼しげな音がした。

「おねーさん」

 近くから声を掛けられ、ケイノは顔を上げた。何もいなかったので、視線を下げる。子供がいた。先ほどまでカウンター席でジュースを飲んでいた子である。子供の発育には詳しくないが、小学校の低学年くらいであろうか。
 眼鏡の奥の瞳をにっこりと細めて、少年はケイノのノートパソコンの画面を覗き込む。

「なにしてるの? ――あっ、そのお菓子、僕知ってるよ!」」

 ケイノはノートパソコンを閉じた。

「そう、今度見かけたら買ってやってね」

 言うと、少年はケイノの向かいの席に座る。随分と人見知りしない子だ。これでは親御さんは心配するだろう。

「おねーさん、安室さんと知り合いなんでしょう?」

 そう言われ、ケイノは思わず怪訝な顔をした。少年はこちらの表情をじいと観察している。

「ごめん、安室さんってどなた」
「この喫茶店のアルバイトの、あの金髪のおにーちゃんだよ」
「――ああ」

 カウンターの向こうで、男――安室が困ったような笑顔でこちらを見ていた。
 ケイノはテーブルに肘をつき、顎に手を添える。知った顔である。別人な気もする。知り合いだと言って別人だったら決まりが悪いし、本人であったとしてもあの男の職業柄、きっと知り合いのような素振りはしない方が良いのだろう。
 言い訳のようにそう考え、ケイノは少年に視線を戻した。

「わからない」

 我ながらおかしな返答だ。ケイノは自分の言葉に自分で眉を顰める。ふうん、と少年は目を細める。笑みというよりは、こちらを推し量るような目つきである。

「でも、おねーさん、安室さんを見てびっくりしてたし、そのあとも安室さんの方をちらちら見てたから」

 そういう言い方をされると、なんだか格好が付かない。だが、そういう素振りをしたのは本当だ。ケイノは苦笑し、安室の方に視線をやる。

「知り合いに似てるような気がして」
「本人なんじゃないの?」

 まさか、とケイノは鼻を鳴らした。同じ顔をした男が、知らぬ場所で知らぬ名前を名乗っている。そんなもの、もう知らぬ男と変わらない。
 少年は不満そうな顔をしたが、それ以上は追求してこなかった。

「でも、安室さんはおねーさんのことを知っているみたいだよ」 
「どこかで会ったのかもね」

 気のない口振りに少年は呆れたような顔をする。少年はケイノに何を言っても響かないことを悟ったらしい。

「ね、安室さん。おねーさんのこと知ってるんでしょ?」

 少年が安室の方に顔を向ける。安室は肩をすくめてそれに応えた。

「いいや、初めてお会いしたと思うけど」
「でも、おねーさんがタバコを持っているのに、安室さんは灰皿を勧めなかったよね。いつも気の付く安室さんがおねーさんのタバコに気付かないわけがないもん。おねーさんがタバコを吸わないの、知っていたんでしょう?」

 ケイノは黒い合皮のジャケットに入れたままのタバコの箱に指を掛ける。今日はたまたま上着のポケットに入れっぱなしであった。

「気が付かなかったよ。彼女はタバコの匂いもしないし、指や歯がタールで汚れていることもない。タバコを吸わない人の方が最近は多いからね」

 安室はそう言って洗い物を続ける。仕事をする気もなくなり、ケイノはそのやりとりを聞き流しながら氷が溶けて薄くなっていくアイスコーヒーを眺めていた。
 ふとケイノは口を挟む。

「ええと、小さき者よ」

 少年はひどく胡乱気な顔でケイノの方に頸を巡らす。

「それ、僕のこと?」
「そう」

 名前を知らないのだから呼びようがない。少年、や、ぼく、と声を掛けるには、少年は大人びすぎているような気がした。

「名前を教えてくれるなら、それで呼ぶけど」

 に、と少年は口の端を上げる。やはり子供らしさのない表情だ。

「江戸川コナン――探偵さ」
「エドガー・コナン?」

 外国人の子供だったのだろうか。大人びて見えるのはそういうことか。

「えどがわ!」

 少年――コナンは急に子供っぽくそう反駁する。

「ああ、ごめんね。それで、コナンくんは――え? なに? たんてい?」

 聞き慣れぬ単語である。ケイノは思い切り眉をひそめて尋ねた。

「探偵って、あの、浮気調査とかする?」
「どちらかといえば、シャーロック・ホームズや明智小五郎を思い浮かべてほしかったけどね」
「榎木津礼二郎は?」
「ちょっと違う」
「黒贄礼太郎は?」
「……誰それ」
「なんでもない」

 ケイノはそういうキャラクターがこのくらいの歳の子には流行っているのだろうか、と思う。必要以上に子供っぽく、かと思えば妙に聡い風のある少年の横顔を眺める。幼い小さな顔に、大きな黒縁眼鏡が重そうだった。

「じゃあ、コナン探偵、タバコを吸わない私がどうしてタバコを持っているか当ててごらんよ」

 ケイノはポケットからくしゃくしゃになったソフトボックスを取り出し、テーブルの上に置いた。少年はひどく真剣にそれを手に取り、じっと見つめている。

「タバコは製造番号を見ると製造年月日が分かるって、テレビで観たよ」
「へえ、そうなんだ」
「このタバコ、製造日が3年前の6月だね。これ、何か意味あるの?」
「ないと思うけど」

 おかしなことを聞く。少年はあのこちらを推し量るような目つきをした。

「何かの符牒とか」
「へえ? ……スパイっぽくて胸躍る話ではあるけど、私ならそんな面倒くさいことしないね」
「へえ、おねーさんならどうするの?」
「メールする」

 少なくとも誰が気付くか分からないタバコの符牒よりは安全性が高くて確実だ。

「おねーさんは、吸わないタバコを3年前から持ち歩いてるの?」
「そうだね」

 少年はあのわざとらしいまでの子供らしさで首を捻った。

「分かんない! 降参! だからどうしてか教えてよ!」

 ケイノはテーブルの上に放置されたボックスをしまい込む。

「理由はないよ。なんとなく」
「……うそだあ」
「本当だって」

 なんとなく仕事をする気にもならず、話しているうちに空になったグラスを押しやる。ノートパソコンをしまうと、安室が申し訳なさそうにテーブルに寄ってきた。

「すみません、お邪魔してしまって」
「良い息抜きになりました」

 答えると、コナンはにこりと笑った。

「また来てね、おねーさん」

 ケイノはそれに曖昧に笑んで首を傾げる。
 居心地は悪くなかった。コーヒーも美味しかった。知り合いに似ている店員と、奇妙な少年さえいなければまた来たいな、と思った。
 懐かしげなベル音を背中で聞きながら、どこか落ち着ける場所を探そうと考えていると、ブラックデニムの尻ポケットでスマホが鳴動した。
 いくつか用意しているフリーメールのアドレスのうち、最も使用頻度が低いアドレスのひとつに受信があった。

「今日のことは忘れろ」

 至極シンプルな業務命令にケイノは鼻を鳴らす。

「了解、ダーリン」

 語尾にハートマークを付けておく。ついでにスパイウェアソフトを添付した。それを送信すると、ものの数秒でMAILER-DAEMONから返信があった。そつのない男である。
 立て続けにもう一通、でたらめな英数字の羅列されたメールアドレスから着信があった。

「全身黒尽くめはやめろ」

 ケイノは思わず足を止め、スマホの画面を見つめる。
 余計なお世話である。何を着ようが、裸であろうが、この男に指図される筋合いはない。上から下までの黒尽くめは、ケイノにしてみれば地味な装いだ。たとえそれが冗談のようにてかてかしたエナメルジャケットだとしても。今まで己の格好に何一つ口を出さなかったのに、どういう了見であろうか。

「下着は金色」

 どうせすぐにメールアドレスは削除するのだろうと適当な文句を返信する。そのはずが、次にスマホを鳴らしたのはMAILER-DAEMONではなかった。

「そんなものを所有していないのは確認済みだ」

 それから、続けてもう一通。

「この気温でアイスコーヒーを注文するな」

 ケイノは深々と溜息をつく。
 この男を自室に上げた記憶はない。もちろん下着を開陳する趣味もない。いつの間に、とケイノは額に手をやる。
 とりあえずネット通販サイトで獣害対策の赤外線カメラでも購入しておこうと思った。