裏で事を為すに相応しい名前



 雑居ビルのワンフロアにずらりとドアが並んでいる。そのほとんどがIT系のベンチャー企業か学生起業家のオフィスとして看板を掲げていた。
 コナンは低い背丈から背伸びするようにしながらそれを一つ一つ確認していく。

 ――Red Headed League

 目当ての看板に行き当たり、コナンは最近すっかり板についた子供っぽい声をあげてドアに手をかけた。

「こーんにちはー、おねえさん」

 開けると同時に声をかけ、素早く室内を確認する。安室透の姿はない。室内に不審な様子はなく、部屋の主は目を丸くしてコナンを見つめている。
 何か言いかけた唇が閉じられた。眉根に皺が寄る。それが職場に転がり込んできた子供に対する一般的な嫌悪感の表出であるのか、それ以上の意味があるのかまでは分からない。

「ええ……こ、こんにちは」

 戸惑いがちに挨拶を返され、コナンは少しだけ拍子抜けした。

「おねえさん、ぼくのこと覚えてる? ポアロって喫茶店で――」

 ああ、と彼女は相槌とも呻き声ともつかないため息をつく。

「探偵だ」
「そうだよ。町でおねえさんを見かけたから、跡を追いかけてここまで来たの。すごいでしょ」

 我ながら首を傾げたくなる言い分であるが、彼女は「なるほどね」とだけ言って脚を組んだ。

「ケイノ」
「――え?」

 唐突に告げられた聞きなれぬ単語にそう問い返すと、彼女は眉を上げる。

「おねえさんなんて恥ずかしい呼び方しないで。ケイノでいい」
「うん、ケイノさん!」

 にこやかに答えながらコナンは内心己を疑い始めていた。彼女が黒の組織の一員であるならば、自身に仕掛けられた発信機に気付かず、仮に偽名だとしても名前を名乗る無防備さはありえない。当てが外れていたか、或いは全て演技か。
 ケイノは肘掛けに肘をつき、頭を凭れさせてコナンを見た。

「それで、何の用でここに来たの?」

 コナンはふと口元に笑みを浮かべる。

「聞きたいことがあって」

 ケイノは面倒臭そうな様子を隠そうともせずに鼻を鳴らした。答えを待たずに先を続ける。

「ケイノさん、お酒は何が好き?」
「……そんなこと聞いてどうするの?」

 もっともな質問は子供っぽく「いいから教えてよ!」と駄々をこねることで封殺する。ケイノは髪を耳にかけた。

「ほろよいはちみつレモン」
「……へ、へえ」

 あんなのほとんどジュースだろ、と心の中で溢す。それをおくびにも出さずに楽しそうなふりをして見せる。

「ウイスキーとかは飲まないの? たとえば、バーボンとか」
「バーボンってなんだっけ? 名前は面白いね、爆発っぽい。はは」

 ケイノはあまり楽しくなさそうに笑い声をあげる。愚にもつかない洒落を聞かされ、コナンは内心うんざりした。
 遠回しな揺さぶりに動揺する様子も見せないケイノにコナンは痺れを切らす。

「ねえ、ケイノさんって安室さんの友達でしょ?」

 核心をついた問いのはずであった。そうであるのに、ケイノは椅子を左右に揺らしながらマグカップに口をつけた。細い首が嚥下する。

「いいや、多分違う」
「多分? 多分ってどういうこと?」

 ごとり、とマグカップがデスクに置かれる。細い指が這うように肘置きに戻った。

「あなたの言う男が、金髪碧眼の若い男で、恐ろしいほどにキレる頭とねじ曲がった性根の持ち主ならば――それは私の知っている男だ。でも、安室透と言われると、それは知らない」
「それって屁理屈じゃない?」

 コナンの言葉にケイノは肩を震わせた。

「名前は大切だよ。そうでしょう――工藤新一くん」

 血の気がひく。心臓が強く拍動した。耳鳴りのような音がする。ドアへの距離を測りながら身構え、ケイノを睨んだ。

「ちがうよ、ぼくの名前は江戸川コナン」
「そうかな」

 言いながらケイノはデスク上から型落ちのタブレットを取り、液晶をコナンに見せた。己の仮の名と、毛利探偵事務所の住所が列記されたファイルが表示されているのを目にし、コナンは身を強張らせる。
 ケイノは勝ち誇るでも脅しつけるでもなく先を続ける。そのわけの分からなさが恐ろしい。

「これ、「江戸川コナン」の住民票。何故か閲覧制限がかかってた。世帯主が本人になっているのが不可解。本籍は米花町2丁目、筆頭者は阿笠博士。住民票上では本籍が米花町になっているけど、米花町に江戸川コナンの戸籍は登録されていない。戸籍附票も見つからなかったから、地道に跡を追う羽目になった。江戸川コナンが帝丹小学校に転入する前、二ヶ月間に13回住所を移転している。最も古い転出転入は赤沢市から飯高市のものが飯高市の記録に残っていたけど、驚くべきことに赤沢市から江戸川コナンが転出した記録はない。江戸川コナンは一年前に赤沢市と飯高市の隙間に降って湧いたらしい」

 ケイノは楽しそうに言うと、青褪めるコナンの顔を見た。

「で、ここに江戸川コナンの医療記録がある。米花町で直近一年程度しか残っていない。――どうでもいいけど、怪我が多いね。もっと体を大事にしなさいよ――さて、江戸川コナンが7歳まで一切病院にかかったことがないか、大災害で医療記録が散逸したか、私が無能か、そのどれでもなければ昨年の江戸川コナンの実存は危ぶまれる。病院で提出した保険証が偽造、もしくは書き換えられていたとしても支払基金には誰の名義で保険が利用されたか記録がある。それで江戸川コナンの医療記録支払記録を照らし合わせると、出てきた名前は工藤新一。年齢は17歳。――――あなたは工藤新一だ。少なくとも記録上は」

 コナンは唾を飲む。なんと答えたらいいだろう。

「や、やだな……ぼく、まだ子供だよ」

 良識に訴えるしかあるまい。まさか17歳には見えない。人間が若返ることなどありえない。
 ケイノは肩をすくめた。

「高校生も子供だ」

 言い募ろうとするコナンに、ケイノは手のひらを向けた。ほっそりとした青白い手指は、向けられるだけで二の句を告げさせない奇妙な威圧感がある。あるいは、己が勝手にそう感じているだけかもしれない。

「あなたが江戸川コナンでも工藤新一でも実のところ私には大して問題にならない」
「――なぜオレのことを調べた?」
「あの男と一緒にいたから」

 ケイノの細い指が液晶にそっと触れると、ファイルが閉じられる。どこかで見たような青空の写真が液晶に表示された。

「安室透のことが知りたい」

 ケイノは言った。コナンは一瞬混乱し、それから慎重に言葉を繋いでいく。

「それは――あんたの方が詳しいはずだろ」
「そんなことない。おそらく、江戸川くんは私を誤解している」

 コナンは眉をひそめた。この数分でコナンの彼女への評価は一変している。黒の組織の一員ではなくとも、十分に脅威たりえた。

「誤解?」

 ケイノは憂鬱そうに目を伏せる。

「私はあの男の仲間じゃない。知人でも友人でもないし、ましてや恋人やシンパはありえない」

 片端から否定され、コナンは言葉を失う。そこまで言うのは逆に怪しい気もする。信用していいものであろうか。

「それなら、何者だ?」

 コナンが問うと、ケイノは開きかけた唇を引き結んだ。冷たい汗をかくコナンを尻目に、しばらく大きな目をぐるりと天井に向けたまま黙り込む。それから、ふと思い出したかのようにコナンの方に向き直った。

「取引先。ただし、弱みを握られて不当に買い叩かれてる」
「それを恨みに思っているのか?」

 ケイノは黒目を輝かせた。揺れる肩を髪が滑り落ちて行く。

「まさか。恨みに思うのはまだ早い」

 ぱん、とケイノは手を打ち鳴らす。プレゼントを前にした子供のような表情で、合わせた手の指先に唇を寄せた。

「子供が身元を偽って生活しているんだから、よほどの理由があるのだろうね」

 囁くケイノをコナンは睨む。

「脅迫するのか?」

 ケイノは目を丸くすると、両手をひらひらと触る。

「そうじゃない。ビジネスの話がしたい――子供には難しいかな?」

 からかうような調子で彼女は言った。7歳の江戸川コナンと17歳の工藤新一のどちらに言ったつもりかは知らないが、子供扱いは我慢がならない。コナンは無言で先を促す。ケイノはそれに応じた。

「江戸川くんの事情を詮索する気はない。でも、困っていることがあるなら協力はできる。――あの男に私は「こちら側のどこからでも開けられます」と同じくらい信用されてない。私と会うときはスマホもカードも持ち歩かないし、私的な話もほとんどしない。実のところ、名乗った名前が本名かも怪しい」

 徹底している。安室透らしいといえばそのとおりだが、そこまで徹底していると見事としか言いようがない。

「なんでもいい。住所でも、電話番号でも、交友関係でも、あなたの知っている安室透の情報が欲しい。もし応じてくれたら、あなたの知りたい情報をなんでも、どこからでも引っ張ってきてあげよう」
「なぜ――」

 恨みもない、害する気もない、仕事の取引先であるだけの男のことをそこまで知りたい理由は何だろう。問いかけたコナンの言葉を、ケイノの笑い声が遮る。

「なぜ? 動機ってやつ? どうしてそんなことばかり気にするんだろう。理由はないよ。知りたいと思った。それが重要」

 ケイノは大きな椅子から立ち上がと、コナンの前に立った。腺病質な出で立ちから受ける印象よりも背が高い。機能性の低そうな華奢なヒールがフロアタイルに当たって音をたてる。

「悪い話じゃない。お互いに」

 その情報収集能力をいやというほど見せつけられたばかりのコナンは、目の前にぶら下げられたチャンスに呆然とした。彼女に"組織"について情報を引き出させたならば――――。
 そこまで考えて疑問にぶち当たる。何故、降谷零は彼女にそれをさせなかったのか。
 おそらく彼女は、現状安室透――そして降谷零とバーボンの持つ情報から、"組織"についての有力な情報を手繰り寄せ得る。やもすれば核心さえ捉えかねない。だが、それをすれば彼女には必ず恐ろしい報復があるだろう。
 降谷零はそれを忌避しているのだ。コナンは堪えきれず吹き出した。

「ケイノさん、安室さんに信用はされてないけど、大切にはされてるんだ」
「当然。マスターキーを粗末に扱う馬鹿がどこにいる」

 そういう捉え方も出来るだろうか。だが、コナンにはそれだけではないように思えた。にやにやと笑うコナンに、ケイノは怪訝そうな顔をする。
 何かを言ってやろうかと思ったが、口を噤んでおく。蘭がらみで園子や母親から有言無言であれこれ言われていたことを思い出す。鬱陶しく感じていたが、今ならその気持ちが分からなくもない。
 ケイノは急かすように首を傾げる。

「それで、どうする?」
「せっかくの申し出だけど、やめておく」

 コナンが言うと、ケイノは意外そうな顔をした。

「もう少し利口かと思ってた」
「ケイノさんが想定しているよりは利口なんでね。安室さんを敵に回したくない」

 ケイノは靴のかかとをこつこつと鳴らすと、やや芝居じみた仕草で片眉を上げる。

「しかたない」
「へえ、もっと食い下がるかと思ってた」
「他にも手はある。子供に無理強いをするなんてスマートじゃない」

 負け惜しみでは無さそうだった。提案した破格の条件の割に、ケイノはあっさりと諦めて見せた。その引き際の良さが理解不能で不気味ですらある。
 目的も、動機も、何も分からない。

「……なあ、一応言っておくけど、オレが工藤新一だってことは――」
「言うわけないでしょう。小学生が実は高校生だった? 馬鹿馬鹿しい。気が触れたと思われるだけだよ。それに、私がそれを言いふらしていったい何になるって言うの?」
「いや、そりゃそうだけどよ……。あんたはよくそれを信じてオレにハッタリかまそうと思ったな」
「私は自分の技術力を信じてる」
「あ、そ。で、あんたはこれだけのためにいくつ法律を破ったんだよ」
「法律には詳しくない」

 淡々としたケイノの口ぶりに、コナンは深々と溜息をついた。安室透がどういう経緯でこの女と取り引きを結ぶに至ったかは知らないが、彼女の有能さを差し引いてさえ物凄い悪手ではないかと思えた。
 だが、安室が彼女を気に入っている理由は分かった気がした。