君だけを?



 降谷零からの着信がスマートフォンを鳴動させたのは、公休を明日に控えた金曜日の夜であった。
 風呂でゆっくりと体を温めたあと、消化しきれない録画番組に目を通すか、はたまた動画サイトでも巡って無為な時間を過ごすかと考えていた矢先のことである。
 ディスプレイに表示された名前を見て、反射的に背筋が伸びる。風呂上がりの髪は濡れたままであったが、構わず通話を開始する。

「――はい、風見です」
「ああ、僕だ。今話せるか?」
「ええ、何か問題ですか?」

 スマートフォンの向こうからざらざらと溜息のような音がした。

「問題、といえば問題だな。風見、その携帯、あいつに盗聴されていないだろうな」

 あいつ、と名を聞かなくても分かる。風見は苦笑いし、おそらくは、と答えた。ケイノの悪癖なのだ。覗けるものは全て覗く。彼女と会って初めて知ったが、ハッキングやクラッキングというものはドラマや映画のようにスタイリッシュで華々しい技術ではない。傍から見れば代わり映えのしない暗い画面を飽きずに延々と睨み続けている。
 彼女はその作業が何より好きらしいのだ。それで得た情報を有効に利用しようという腹も基本的には持っていない。悪気がないのだから始末に負えない。

「問題というのは彼女のことですか?」

 悪気のなさと影響度は必ずしも比例しない。彼女に関して言えば、一級の技術を持ちながら子供の悪戯のような真似ばかりしようとする。大人の体を持ち泣き暴れる赤子のようなものだ。容易に脅威たりえてしまう。

「そうだ」
「また何かしでかしたんですか」
「いや、そうではないが、おまえに相談がある」

 珍しいことだ。優秀で秘密主義者の降谷が相談事など滅多にしない。何事か、と髪から滴が落ちるのも構わず先を促す。

「ケイノが何を考えているか全く分からない」

 そう言われ、風見は椅子からずり落ちそうになった。

「…………はい?」
「冗談は言っていない。これは彼女の心を掌握しお互い安全に仕事をするために必要な措置だ」

 はあ、と風見は溜息に似た相槌を打つ。
 常々、降谷とケイノの関係は危ういと感じていた。降谷としてみればケイノはなんとしても懐柔したい相手であるが、ケイノは降谷に対してそう感じてはいない。ケイノは降谷に強い感情を抱いているが、僭越ながら純粋な好感度は自分の方が上だろう。
 風見は電話をハンズフリーにすると、椅子の背に掛けていたタオルで髪を拭う。

「無理でしょう」
「言い切ったな」

 無理なのだから仕方ない。彼女は好意的な言い方をすれば超級天然ボケの自由人で、有り体に言えば高機能社会不適合者だ。理解できないことを理解し受け入れることは出来ても、理解し掌握し支配することは出来ない。
 人は誰でも折り合いを付けることを知っている。合わない人間も理解できない人間もいて、それでも上手くやっていく。
 降谷はそれをするには優秀すぎた。他人を理解し人心を掌握する術に長けているからこそ、理解できない不確定要素であるケイノを必要以上に警戒している。
 凡百の一たる風見にしてみれば、他者など理解できないのが当然だ。降谷も理解できない他者の一人だ。それを承知で付き合っている。

「少なくとも自分には無理です」
「だが風見は僕より上手くやっているだろう」
「そうかもしれませんが、単純に相性の問題ではないでしょうか」

 何にでも筋が通っていると思っているんだ、と降谷について嘲るように憐れむように言い放った彼女の表情が脳裏に浮かぶ。どこまでもアポローン的な降谷とどこまでもディオニュソス的なケイノが衝突してしまうのは致し方ないのだろう。どちらが正しい、良いと言いたいわけではない。風見に言わせれば、どちらも両極端すぎる。

「スマートフォンの情報を抜き取られたとき、自分はそういうことをされては信頼したくても出来ないと彼女に言いました。これから一緒に仕事をしていく上で、必要以上に互いの腹を探り合うようなことはしたくないと」

 デスク上に放置されたスマートフォンのスピーカーから、低い笑い声が聞こえた。

「あいつがなんと答えたか当ててやろうか?」
「ええ」
「でも仕事相手の技術力は思い知ったでしょう」
「そのとおりです」

 本当に一字一句違わなかった。空恐ろしくなるほどの洞察力だ。

「けれど、それ以降彼女は私の個人情報を探ろうとしていません」
「気付いていないだけじゃないか?」
「そうかもしれませんが、少なくともわざと尻尾を出してこちらを揺さぶろうとするのはやめたようです」

 スピーカーが沈黙する。からん、と氷がグラスを打つ軽やかな音が聞こえた。

「つまり、完全に制御不能ではないと言うことだな」

 噛んで含めるように、降谷がゆっくりとそれを口にする。そうではない、と風見は心中で溜息をついた。

「私が言いたいのは、彼女は完全に無軌道で人心を解さないわけではないということです」

 風見にとって彼女は少々変わり者でよく分からないがそれも含めて普通の人間だ。仕事で時折出会う社会病質者とは決定的に異なる。 

「好意を示せば好意を返してくるのではないでしょうか。その返し方が分かりにくいとは思いますが」

 そう考えれば、彼女も損な性質ではあるのだろう。

「好意は示した」
「どうでした?」
「そうやって私にあなたを好かせて離れがたくしたいのだろう、と言われた」

 吹き出しそうになった風見は慌てて髪を拭いたタオルで口を覆う。出来損ないの咳のような音がした。

「ええと、その、なんというか――」
「自慢をするわけでも、驕るわけでもないが、僕はこの手を使って失敗したことはほとんどない」

 ルックス、話術、人当たりの良さ、どれをとっても一流の降谷のことだから、それは誇張無しにそうなのだろう。モテる男は羨ましい。

「よりによってなんであいつに通用しないんだ」
「……さあ、好みの問題とかですか」

 それ以上己に何を言えるというのだろう。

「あの女だけ籠絡出来れば、世界中の全ての女に通用しなくてもいい」

 通話で聞いているだけの風見が思わず赤面してしまうような情熱的な――実情を知っていれば不穏極まりない――台詞を残して、通話が切られた。
 あの様子だと、したたかに酔っていたのかもしれない。風見は待ち受け画面に戻ったスマートフォンを一瞥し、冷蔵庫へと立ち上がる。
 とりあえずアルコールが必要だ。