微睡む躯



 ゲーム会社の名目で借りているレンタルオフィスに、今日は人の気配がない。降谷は眉を顰めてオフィスの奥へと足を進める。
 依頼していた仕事の件で今日訪問することは伝えていたはずだ。
 パーティションの向こうで、ケイノはいつものように大きなデスクチェアに腰掛けていた。ただし、両の足をデスクの上に投げ出して細く寝息を立てている。

「ケイノ」

 声を掛けたが起きる気配がない。どうしたものかとしばし逡巡し、その肩に手を掛けようとする。
 痩せた体が力なく椅子に寄りかかる様は、なんだかそういう悪趣味なマネキンのようだった。生きているよな、と若干不安になりながら肩を揺すった。
 陰影の濃い目蓋が震える。大きな目がぱちりと開き、降谷を捉えると更に大きく見開かれた。
 小さく呻いたケイノがデスクから足を下ろすと、リクライニングしていた背もたれが弾みを付けて定位置に戻ってくる。ケイノのいかにも軽そうな上体は、勢いよく押し出されて降谷の腹の辺りにぶつかった。

「―――ごめん」
「いや、いいが――大丈夫か?」

 行方を失って空を切るケイノの手を取り支えてやる。嫌がられるかと思ったが、ひんやりとした手が縋るように降谷の手を取った。一瞬だけ、視線が絡まる。
 ケイノはばつが悪そうに目を逸らしながら、降谷の手を離した。すぐに普段通りの表情に戻り、すいと降谷を見上げる。

「ああ、頼まれていた件――」

 ふくよかさと無縁の頬に触れ、薄い唇に口付けた。ケイノは目を丸くして離れていく降谷の顔を見つめる。

「向こうのデスク」

 目を丸くしたまま彼女はそちらを指差した。降谷は溜息をつく。

「何も言わないんだな」
「何を言えば良かったの?」

 降谷は言葉に詰まる。何を言ってほしかったのだろうか。

「いい雰囲気だったろう」

 降谷の言葉にケイノはひどく怪訝な顔をする。

「そうかな、あなたが言うならそうだったのかも」
「嫌味か?」
「いいや、単純に私はあなたほど場数を踏んでいない」
「やっぱり嫌味じゃないか」

 ケイノは口の端をきりと上げた。降谷はやれやれと肩を竦めて見せ、皺の寄ったシャツを手で払う。それを見ていたケイノはいつものように肘掛けに肘をつき、頭を凭せかけると降谷を見上げた。

「そろそろ諦めていたのかと思ってた」
「何を」
「私にあなたを好かせようとしてる」

 降谷は前髪を掻き上げ、デスクに腰掛けた。

「諦めていない」
「もっと紳士的かと思ってたけど」
「強引な男は嫌いか」
「どうかな、あんまり考えたことない」

 白樺の枯れ枝のような頼りない足首がぶらりと投げ出される。妙に不安に駆られる光景だった。

「前も言った。そういうの、得意じゃない」

 今日初めて苛立たしげな顔をして、ケイノは降谷を睨んだ。降谷は笑みを浮かべ、ケイノに覆い被さるようにデスクチェアの背もたれに手を掛ける。

「そう言うな。こっちだって必死できみを囲い込もうとしている」
「そんなことをしなくても、私はあなたのことを思ってる。あなたといると神経が昂ぶる。寝ても醒めてもあなたをねじ伏せるときのことばかり考えてる。それじゃ駄目なの?」

 一瞬、それでもいいのかとふと思う。よく考える前に口が勝手に「駄目だ」と答えていた。

「――駄目だ」

 低く、もう一度繰り返す。自分に言い聞かせるように。ケイノは呆れたように眉尻を下げた。

「なんなんだ……」

 全くだ。どうしてこうも頑なになっている。
 険のあるケイノの青白い顔を見下ろす。もっと美しく華やかで世慣れた女達と渡り合ってきた。強く危険で恐ろしい女とも。浮き世離れした窃視症相手に、どうして上手く事が運ばない。
 降谷は熱を帯び始めた思考を吐き出すように息をつく。計算尽くで穏やかに微笑んだ。

「何度誘ったか知れないが、一緒に食事でもどうだ」
「何度断ったか知れないけど、どうしてあなたと食事をする必要が?」

 降谷は鼻を鳴らし、デスクチェアの背もたれから手を離す。先程指し示されたデスクに向かうと、背後から顔を見なくても不機嫌さが伝わる声が投げかけられた。

「仕事の相手とは寝ない」

 がんばれ、と心のこもらない薄っぺらな激励が付け足されたので、降谷は思わず笑ってしまった。