ヤる気スイッチ



 上品な橙色の光と掠れたジャズ、馥郁としたコーヒーの香りが店内に満ちている。ファミレスでもなく、大衆的な喫茶店でもなく、小洒落たカフェバーの飴色の椅子に灰原はつくねんと座っていた。
 小学生の姿にはいささか不釣り合いな店ではあるのだが、初老のマスターは嫌な顔ひとつせずに注文を取った。シンプルだがシルエットの美しいカップに注がれたコーヒーには、ミルクも砂糖も付いていなかった。そのかわりなのだろうか、ナッツを砂糖で煮絡めたプラリネが小皿で供された。正面に座る女の前にはカップしか置かれていないから、やはりそれは子供の姿をした己への気遣いであったのだろう。
 正面に座るケイノは細長い脚を持てあまし気味に組み、カップに口をつける。カップの底に模様が入っているのが見えた。それが何の図柄か分かる前に、カップはソーサーに戻される。

「フサエブランドの新作ラインがすごく素敵なの。見た?」
「見てない。灰原さんフサエ好きなの? 意外」
「意外ってどういう意味よ」

 ケイノは肩をすくめてスマートフォンを手に取った。指先がFusae Cambellとフリックする。
 工藤新一に会社名と名前を告げられ調査を頼まれたのが3ヶ月前である。相当な曲者と聞いて、自分としては慎重に慎重を期して調査した。そのはずがあっという間に捕捉され、アクセス元を辿られ、阿笠邸に菓子折を持ったケイノが訪ねてきたのが2ヶ月と2週間前である。
 なぜ家に? なぜ菓子折? その蛍光グリーンのシャツはなに? 疑問は多々あったが、衝撃の初対面から灰原の彼女への印象は一貫して「悪い人ではないのかもしれないが、」に尽きる。
 余談ではあるが、彼女が阿笠邸に菓子折を持って現れたのは「アクセスの痕跡を見てこれは大変にいい女だと思った」からであるらしい。
 しかし、経緯はどうあれ、精神年齢が近く、頭の回転の速い話し相手はありがたかった。小学生の姿では、日々の話題といえば足し算引き算の話やプラスチックビーズのアクセサリーの話が精々である。頭がおかしくなりそうだ。

 目当ての画像を見つけたのか、ケイノの手が止まる。

「地味だ」
「シックって言ってくれないかしら」

 シャンパンベージュに切り替えでラベンダーパープルのモノグラムが入ったエレガントな配色のラインだった。ただしハイエンドモデルなのでキーケースでさえ信じられないほど高価だ。とてもではないが小学生が持つようなアイテムではない。

「いち、じゅう……このバッグの値段、桁がおかしくない? 2進数?」
「2進数なら即買ってるわ」
「たしかに」

 ケイノは小さく笑った。
 いつも不思議に思う。彼女は己のことをどこまで知っているのだろう。工藤新一が江戸川コナンという人物を装っていることを、彼女は知っているらしい。では己は? 本当に小学生だと思われているのだろうか。正体を知られているならば問題だが、小学生だと思いながら毎回連れ回しているならば――それはそれで大問題な気もする。

「稼いでるんだからみみっちいこと言わないの」
「そんなに使えるお金は多くない。保釈金を取っておかないと」

 冗談のようにケイノは言ったが、おそらく本気だった。それに、と先を続ける。

「税金もきちんと払ってる。脱税、ダメ、ゼッタイ」
「あなたのモラリティの基準ってどうなってるの?」

 灰原の問いにケイノは肩を揺らして笑っただけだった。皮肉でも揶揄でもなく、心から気になったのだが。

「本当に税金が高すぎて、自分で節税用ソフトを作った。レシートの画像を読み込むとAIで細目を判断して記録して、年度末に優先度の高い順からソートして経費を計上してくれる」
「あら、便利そう」

 そういう普通の仕事も出来るのか。そっちで身を立てた方がいいのではないか。

「AIの学習用にレシートの画像を一枚10円で募集したら思いの外集まりすぎて制作費が嵩んだ」

 1円にすれば良かった、とケイノは溜息をついた。

「節税用に作ったのに出費してちゃ世話ない」
「楽しかった?」
「……楽しかった」
「じゃあ良いでしょ」
「よくはない」

 ケイノは天井を仰ぎ、青白い頤を晒す。
 灰原は静かにカップに口を付けた。

「安室さんとは仲良くやってるの?」
「あむろさん? ――ああ、あの」

 その名を聞いた途端、ケイノはあからさまに嫌そうな顔をした。工藤がにやにやしながら「ただの仕事相手らしいぜ」と言っていたのを思い出す。なんとなく察しが付いた。

「仲は良くない。なんか監視されてるし」
「監視されるようなことをしたんでしょう?」

 灰原がそう言うと、ケイノは思い切り心当たりがあるような顔をして、しれっと「してない」と答えた。灰原はわざとらしく深い溜息をつく。

「いい加減好き放題してると死んじゃうわよ」

 あの男関連ならば、黒の組織の影がついて回る。それだけで素行を改める理由にはなるだろう。 彼女がそれを知らないとしても、忠告をしない理由にはならない。
 ケイノは鼻を鳴らした。

「好き放題してないと死んじゃう」

 へらへらと笑う様子を見て灰原は言い募るのをやめた。 そこまで面倒を見る義理はない。安室透がどうにでもするだろう。

「仲良くやっときなさい」
「なんで」
「あなたのために言ってるの」
「だから、なんで」
「なんでもよ。聞き分けなさい。それに、気に入られてるんでしょ?」
「いや、監視されてるって」

 それもそうだ。灰原は笑ってしまう。笑う灰原にケイノは胡乱な目を向けた。
 灰原はプラリネを一つつまみ上げ、口にする。甘く、香ばしく、ほろ苦い。コーヒーの香りとよく合った。

「人間素直に生きるのが一番よ。私達みたいなのには到底納得できないけど、最後はそういう人間が幸せを掴むんだから」
「……何の話?」
「あなた達は手のかかる大人ね、って話よ」
「灰原さん、いくつだっけ?」
「84歳」
「ああ……」
「ああじゃないわよ」

 すなおねぇ、とケイノは独りごち、コーヒーの水面を見つめる。と、その一拍あとには勢いよく立ち上がった。ローテーブルにケイノのシルバーのパンプスがぶつかる。ソーサーとカップが甲高い音をたて、コーヒーがこぼれた。

「すなお……すなおか……」

 ぶつぶつと呟きながら、ケイノはせわしなく上着のポケットに手をやる。そこに目当てのものはなかったらしい。それはそうだろう。そこにはもとより何も入っていない。
 ああ、くそ、と小さく毒づく声がした。

「なんでいつもこうなんだろう、肝心なときに限って!」

 声量がないのだけが救いだ。周囲の客は陶器のぶつかる音にいっせいにこちらを見たが、すぐに各々のテーブルに視線を戻す。

「ケイノ、とりあえず座りなさい」
「座ってる場合じゃない。なんで灰原さんは落ち着いてコーヒーなんて飲んでるの!」

 あなたに誘われたからよ、と言う前に、ケイノは慌ただしく席を離れる。ひらひらとなびくロングカーディガンの裾がドアベルとともにドアの向こうに消えるのと、マスターがダスターを持って来るのがほとんど同時だった。
 こぼれ広がるコーヒーをマスターは手早く拭きあげ、傾いだカップを回収する。

「あの子、いつもあんなだけど、何かの発作?」
「……さあ? ビョーキではあるんでしょうけど」

 灰原が言うと、男は苦笑気味に眉を下げた。

「お嬢さん、チョコケーキ食べていきなよ。お代は彼女にツケておくから。食べ終わったら、タクシーを呼んであげよう。まったく、こんな小さな子を置いていくなんて、何を考えてるんだ」

 マスターは苦言をこぼしカウンターに戻る。ガラスケースから小さなチョコレートケーキを取り出している様子を眺めながら、灰原はやれやれと肩をすくめた。
 それから、ふとケイノを妙な方向に焚き付けてしまった予感がしたのだが、気が付かないふりをしてチョコレートケーキに思いを馳せた。