Chapter 1



 バル・エル・ムンドでは始終HEROTVの映像を流している。液晶がホール中央のソファ席から見える壁に一つ、カウンターに一つ用意されている。店内のどこからでもヒーローの活躍を観ることが出来た。
 ダニエラは薄暗い店内でちかちかと光る液晶を眺めていた。音は絞られ、ほとんど聞こえない。実況の字幕が現れては消えていくのを、今日やっと取れた夕食のボカティートを片手にラム抜きの味気ないモヒートのタンブラーグラスを傾けながら見送っていく。

「ここ、座ってもいいかな?」

 不意にそう声をかけられ、ダニエラは顔を上げた。まだ時間の早い店内は空いていて、女の隣席にわざわざ座りたいのは大方そういう目的の男だろう。軽くあしらおうとしたが、そこに立つのがちょっとこちらの気が引けるほどに感じのいい男であったので、ダニエラは反射的に「もちろん、どうぞ」と答えた。

「ありがとう、そしてありがとう」

 男は言って、ダニエラの隣に座る。その台詞をどこかで聞いたような気がしてふと考える。誰かヒーローの決め台詞だった気がした。
 それに気が付いたダニエラは眉を顰めた。ヒーローオタクの痛い男だったのか。やはり追い払うべきだった。
 ダニエラがそんなことを考えていることを露知らず、男はカウンターの店員に「私にも彼女と同じものを」と言った。店員は眉を変な形に歪めて笑いをこらえながら「モヒートをラム抜きで?」と言った。
 男は少しの狼狽も見せず、微笑みながら「美味しそうだ」と答える。ダニエラは呆れて目を細めそのやりとりを見ていた。
 やがて店員は水面が見えないほどミントをたっぷりぶち込んだグラスを男にサーブした。爽やかなミントとライムが弾ける炭酸とともにダニエラの席まで香ってくる。
 男はそれを一口飲むと「……ライムジュースだ」と呟いた。ダニエラは思わずふきだして笑ってしまう。

「モヒートからラムを抜いたらライムとミントの入った砂糖水に決まってる」

 ダニエラが半分空いたグラスを掲げると、男も掲げて「乾杯」と笑った。

「ねえ、今のってギャグでやったの?」
「ギャグ? 何が?」
「私と同じものを、って。私がラム抜きのモヒートなんて腑抜けたもの飲んでるから」
「どうしてそれがギャグなんだい? 私は君が飲んでいるものが美味しそうに見えたから、飲んでみたくなっただけだよ」

 ダニエラは肩をすくめる。面白みが無さすぎて、一周回って面白いタイプの男かもしれない。

「どうだった? 美味しい?」
「とても美味しい」
「今度はラムを入れてもらいなよ。バカルディじゃなくてハバナ・クラブ」
「そうしよう」

 ダニエラはカウンターにグラスを置いた。

「この店に来る客はだいたい二種類。この店のモヒートとボカティートを愛しているか、ヒーロー好きか。あんたはどっち?」

 そう尋ねると、男は少し困ったように笑った。

「どちらでもない。たまたま通りかかって、お腹が空いていたから」
「そう。ヒーロー好きなのかと思ってた」
「ヒーローは……どうかな。普通だよ。君は?」

 ダニエラは鼻を鳴らした。

「私? ヒーローは嫌いかな」
「なぜ?」
「商売敵」

 ダニエラはジャケットの前を広げて見せた。ベルトに提げたSBPD――シュテルンビルト市警察――のバッジがカウンターの光を鈍く反射する。
 ああ、と男は小さく呟く。それをナンパの相手が警察官だと知った狼狽であると思ったダニエラは肩を揺らして笑った。

「バーで客同士会話を楽しむのは犯罪じゃない。紳士的である限りは」
「あ、いや……その……すまない」

 心からすまなそうにそう言うものだから、ダニエラはいっそう笑ってしまった。
 男は気まずそうに液晶に目をやった。ちょうど一ヶ月程前に起きた強盗事件の録画映像が流れているところだった。
 バイパスを高速で逃走する車両を、ヒーロー達が追っている姿が小さく映っている。次々にヒーローの顔がワイプされ、ヒーローネームが大写しになった。

「ねえ、この回知ってる?」

 ダニエラが何気なく聞くと、男はすぐに頷いた。

「七月十一日、オペラ・ジュエリー強盗事件だ」
「詳しいのね」

 やはりヒーローオタクだったんじゃないか。ダニエラはそう思いながら、強盗犯のNEXTで吹き飛ばされるスカイハイの映像を眺めていた。人通りのある方へ吹き飛ばされたスカイハイを、猛スピードで割り込んできた警察車両が遮る。あわや放送事故かと思われたが、車が一台べっこりとへこんだ程度で済んだ。

「今の警察車両」
「ああ、彼のおかげで誰も怪我人が出なくて良かった」
「そうね。あれ、実は運転手は私。ヒーロースカイハイを救った女って一生の自慢に出来るかな?」

 ダニエラが言うと、男はタバスコを一瓶丸呑みにさせられたような顔をした。ダニエラはウインクしながら「なんてね」と嘯く。
 だがそれを最後まで聞かずに、男は身を乗り出すとダニエラの手を握った。

「そうか! 君だったのか!」

 ダニエラは「あ、ヤバい奴じゃん」と目を丸くした。どうやら男はヒーローオタクではなく自分をヒーローだと思い込むイカレポンチであったようだ。アルコールやドラッグで酩酊しわけのわからない幻想を垂れ流す輩はいくらでも見てきた。対処方法も心得ている。

「よしよし、お兄さん、今日は何杯飲んでるの? まだ早いのに」
「今日はこれが最初の一杯だよ」

 男はアルコール抜きのタンブラーグラスを振って見せる。

「ああ、そう。ドラッグは? 知らない人に何か変なおクスリをもらわなかった?」
「覚えはないが。そんなことはどうでもいいんだ。あのときはありがとう。私はもう少しで大勢の人に怪我をさせるところだった。君に救われたよ」
「わかった、わかった、IDある? ちょっと息嗅がせてもらっていい?」

 不意に店内に大音量でヒーローTVのサウンドロゴが鳴り響く。生中継が始まったらしい。ダニエラは溜息をつく。ヒーローの仕事が始まるということは、自分の休憩は小休止だ。
 手首にはめた通信デバイスが橈骨に振動を伝える。出動の要請だった。
 目の前の男の手首にも似たようなデバイスがはめられていて、淡いブルーに明滅していた。男はニコリと笑う。

「行かなければ。今度こそ君に助けられることがないように」

 ダニエラは咄嗟のことに口をぱくぱくさせた。

「え、なに……嘘でしょ? マジで言ってる?」

 立ち尽くすダニエラを尻目に男は駆け出した。ちょっとお代、と言いかけたが男はドアの向こうに消えてしまう。ダニエラが慌てて財布を取り出すと、バーテンダーは「もうお二人分頂いておりますよ」とそれを制止した。ダニエラは混乱した頭を抱えて、ドアを蹴破るように店を出ると店先に停めた黒のオルトロス・ポリス・インターセプターに乗り込んだ。
 ダニエラは車両の天井に回転灯をつける。赤と青の光とともに、サイレンが響き渡った。私服のジャケットを脱ぎ捨て、防弾ベストと支給のジャケットを着込む。発進の反動で助手席の足元に転がり落ちたヘルメットを拾い上げた。
 車内の無線が嫌というほど状況を垂れ流している。ゴールドステージで複数台の車両が盗まれ暴走している。そのうち一台が武装した軍用トラックで、そちらはヒーローのためにSBPDは手出し無用。現在、トラック以外の三台はばらばらに逃走。うち乗用車とホットドッグのケータリングカーは確保済み。

「ダニエラ、聞いているか」

 ボスの声が己の名を呼ぶ。ダニエラは個別回線のボリュームを上げた。

「現在ヘルミオネストリートを西に向かっています」
「そうか。そのまま行ってくれ。――そのうち暴走トレーラーと鉢合わせる」
「暴走トレーラー」
「運転手は薬物を使用している可能性が高い」
「薬物」

 ほとほとこの街の治安の悪さには呆れ果てる。ダニエラは握る必要のないハンドルを握りなおし、アクセルを少し強く踏み込む。ギアを上げるとV6ツインターボが快調に唸りを上げる。今日も良い調子だ。

「向こうは50マイルは出てる」
「市街地で、トレーラーで、50マイル? 自殺志願者ですか?」
「ジャンキーだ。脳が溶けてる。止めようにもあのデカブツ相手ではどうにもならない。無理に止めてひっくり返って市民を巻き込んだ日には目も当てられん」
「お察しします。交通規制は?」
「やっているが間に合っていない。何しろハッピーアワーの大通りだ。チェイスが無理と判断された場合に備えてヘリを用意してある。チェイスか、ダイブか。どうする?」

 道の向こうから雷鳴のようなエンジン音が地を揺るがす。乗り捨てられた乗用車を跳ね散らかしながらこちらに向かってくる超大型トレーラーを見止めてダニエラは苦笑いした。

「チェイスで」

 言うのと同時にオルトロスが急旋回する。タイヤが女の悲鳴のような音を上げ、焼けたような臭いが鼻をついた。

「いけるか?」
「やります」

 轟音とともに追い上げてくるトレーラーが肉薄する。いくら頑丈さが取り柄のオルトロスでもあの巨大なタイヤに巻き込まれては鉄屑になるだろう。さすがにぞっとするが、なるべく想像力を封じながら慎重に道を空ける。トレーラーは煽るように蛇行しながらオルトロスを追い越していった。牽引されたコンテナがガタガタに揺れている。連結部が外れかけているようだ。

「トレーラー、連結部が故障しています。止めたら貨物だけ吹っ飛んでいくかも。やりますか?」

 無線の向こうで苦々し気な沈黙が続く。二秒ほどで舌打ちとともに沈黙が破られた。

「やむを得ん、やれ。カイに援護させる」
「了解」

 ダニエラは無人の車を避けながら、トレーラーにオルトロスを横付けした。トレーラーの助手席のウインドウが開き、酩酊した男が数人身を乗り出して何かを喚く。トレーラーのエンジン音のせいで何も聞こえはしないが。

「エンジンタイプは?」
「VD120、直列6気筒、ボア148mm、ストローク170mm」
「オーケー」

 オルトロスのパワーウインドウを操作する。開いた窓から内臓の震えるような排気音と、ガス臭い風が鋭く入り込んできた。ダニエラは窓から身を乗り出し、50マイルで近付いてくる前方の景色に注意を払いながらトレーラーの車体に左手で触れる。ぼんやりとした青白い光が一瞬車内を明るくした。
 ディーゼルの供給を止められたエンジンは咳をするような音を立てて止まり、トレーラーはゆるやかに速度を落とし始める。この積載量なら30秒もあれば完全に停止するだろう。
 ダニエラは前方から転がってきた乗用車を避けるためにトレーラーから離れる。
 ボスに作戦完了を伝えようと息を吸ったところで、無線から怒鳴り声が響いた。

「前方に市民!」

 目視できる距離に運転手が取り残されたバスが停まっているのを見て、ダニエラは顔を青くする。止まるか? 止めるしかない。
 ダニエラは再びトレーラーに横付けすると、並走しながら左手を車体に押し付ける。ブレーキキャリバーを操り、めちゃくちゃな急ブレーキをかける。450PSのトラックをこんな馬鹿みたいなブレーキングで止めるのは初めてだ。血圧が急上昇し、気を失いそうになる。耳の奥でぱつんと何かが弾ける音がした。重要な血管でないといいのだが。
 アスファルトが引き裂かれたかのような音とともに二輪履きのタイヤが煙を上げる。ぐらぐらする頭でオルトロスの速度を調節しながら、全力でトレーラーのブレーキをかけた。
 タイヤは火が出るのではないかと思うほど熱を発している。もうもうと水蒸気が上がっているのは、おそらく援護がタイヤを凍り付かせようとしているのだろう。上手くいっているのか確かめる余裕はダニエラにはない。
 暴走する牡牛のようであったトレーラーは、轟音とともに減速する。口惜しそうにじりじりと10mほど前進し、せり出した排気筒がバスのフロントにぶつかって止まった。
 ダニエラはぐったりとオルトロスのウインドウに寄り掛かる。能力のせいか、緊張のせいか、心臓が壊れたのではないかと思うほどばくばくと跳ねていた。

「……と、止めました」
「よくやった。確保班――」

 ぎい、と不吉な音とともに牽引されていたコンテナが傾く。

「 退避! 退避ー!」

 ダニエラは萎えた体に鞭打って車を急発進させた。大型コンテナが地面に叩きつけられる衝撃と轟音に備えて身を固くしていたが、それは訪れなかった。そのかわり、重い風音と金属がたわむ音がした。窓から身を乗り出し後ろを見ると、傾いていたコンテナは押し戻され平衡を保っている。
 人工光のきらめく暗い空に、白い姿が浮かんでいる。風の魔術師スカイハイが、カメラもないのに見得を切っていた。
 なぜ、とダニエラは眉をひそめる。ここは撮影範囲からは大きく逸脱しているはずだ。スカイハイはオルトロスの傍らに降り立つと、開け放たれたウインドウに顔を寄せた。フルフェイスのヘルメットからでは顔は見えなかったが「無事でよかった」と言う声がさっき会った男のものと一緒だった。
 言葉を失い無礼にも顔を指差すダニエラに、スカイハイは口元に人差し指を翳す。ダニエラはやっと言葉を絞り出す。

「な、なんでこんなところに……」
「なぜ? 空から見えたからさ」
「カメラも回ってないのに」
「それが?」

 心底不思議そうにスカイハイは首を傾げたので、ダニエラは無線のボリュームを上げた。ヒーローと同現場での任務の場合はHEROTVの通信を傍受している。

 ――ちょっと! スカイハイはどこ行ってんのよ! 見せ場なのに! あー、もう!

 女性の声が鋭く何度もスカイハイの名を呼ぶ。車のドアに寄り掛かりながらスカイハイを見上げると、彼は首を横に振った。硬質なヘルメットに先ほどの感じのいい笑顔がオーバーラップする。

「関係ない。私はヒーローだ」

 ダニエラは目を丸くしていた。彼らのことを少し誤解していたかもしれない。
 NEXTにとってヒーローは、普通の市民にとっての娯楽以上の意味がある。己と同じ恐れられ、蔑まれ、疎まれる能力を持ちながら、皆の憧れとして華々しく活躍している。盲信に近い羨望を抱くNEXTもいる。非能力者の家畜と唾棄するNEXTもいる。
 ダニエラにとって、ヒーローは職務が近いだけに心境もより複雑になる。同じNEXTで、同じような仕事をし、かたやヒーローと喝采を浴び、かたや公務員として顧みられすらしない。最悪引き立て役だ。やっかむなと言う方が難しかった。

「あんたのファンになりそう」

 ダニエラが呟くと、スカイハイは大袈裟に両手を広げると「ありがとう、そしてありがとう!」と言った。生で見たのは初めてだ。いや、二度目か? ちょっと感動する。

「君の能力は――」

 ダニエラは呻く。鼻の奥から血が垂れてきた。

「運転が上手い」

 そう答えると、冗談だというのにスカイハイは深く頷いた。

「確かに素晴らしい運転だった!」
「……どうも」

 疑うことを知らないのか、阿呆なのか、彼流の冗談なのか、どれだろう。

「それでは、私は任務に戻る。また!」

 強い風が巻き起こり、砂埃に目を閉じる。目を開けたときには白い姿は夜空の遥か彼方にあった。鼻血を拭きながらはあと溜息をつき、ふと顔をしかめた。…………また?