Change!



「スカイハイって恋人いるのかな?」

 帰宅したばかりのダニエラにニノンが唐突にそう言ったので、ダニエラは「なに?」とだけ答えた。ソファに寝そべって雑誌を読んでいたニノンの手元を覗きこむ。ハイブランドの香水の広告だった。スカイハイの巻き起こした風に乱されたブロンドを手で押さえるモデルの裸体から、シルクのシーツが滑り落ちようとしている。

「いたら、あんたみたいなのがみんな大騒ぎしそう」

 ダニエラが言うとニノンはダニエラを睨んだ。

「私そういうファンじゃないから。スカイハイの選んだ人なら応援する」

 意外と殊勝なことを言う。だが、いざそうなったらやっぱり落ち込んで泣くんだろうな、とダニエラは思う。この場合、泣かせるのは自分になるのだろうか。自分はキース・グッドマンの恋人ではあるが、これはスカイハイについてはどういう扱いになるのだろう。そのへんの切り分け方がよく分からない。
 ダニエラは上着をコート掛けに掛け、制服を脱いでそのあたりに置いてあったオーバーサイズのTシャツを着る。誰かの忘れものであった気もするが、特に返せと言われていないのでいいだろう。

「ダニエラ、下穿きなよ。寒そう」
「洗濯中なの」
「キースの露出癖がうつったの?」

 そう言われ、ダニエラは慌てて自室に戻ると引っ越し作業中の段ボール箱からスエットを引っ張り出して身に着けた。官舎はかなり古かったが、ニノンがあちこちにちょっとした置物や写真を飾ったりファブリックパネルを貼ったりして、若い女の二人暮らしに相応しい部屋になっていた。最近では少し本格的なDIYにも挑戦しようとしているらしく、工具の使い方を教えてくれとねだられている。
 家に帰るたびに少しずつ模様替えがなされているのだが、ダニエラの部屋には相変わらず段ボール箱がそのまま残されていた。思いのほか早かった職場復帰にカウンセリング、プログラム受講でばたばたしていて、なんとなく先延ばし先延ばしにして今に至る。

「早く部屋片付けたら? あ、私が片付けておいてあげようか?」
「ええ? いいよ、別に自分でやるから」
「やらないじゃん! 私が片付けておくから――」

 ダニエラはソファに倒れこむと、昼寝の姿勢に入る。ソファを追い出されたニノンは抗議の視線をダニエラに向けた。

「そのかわりにダニエラがプロムで着たドレスちょうだい」
「ないよ、借り物だったし。というか、何年前の話よ。何着たかもよく覚えてない」
「ええー、ないの!? じゃあマリア・エスペランサのワンピース」
「あれはダメ。まだ着る」

 着てないじゃん、とぼやくニノンに「確かに最近着ていなかったな」と思う。今度キースと出かけるときにでも着てみよう。入らなくなっているということはおそらくないだろう。

「ああ、あれはあげる。ピンクの石のピアス」

 ダニエラがそう言うとニノンはぱっと嬉しそうな顔をした。

「あの花の形のやつ? いいの? だってあれ高いんじゃない? それに、ダニエラの前の前の前の前の前の彼氏からのプレゼントでしょ?」

 ニノンの冗談にダニエラは渋い顔をする。いくらなんでもそんなに多くの男をとっかえひっかえしていない。

「いいよ、使わないし」
「確かにダニエラの好みではなさそう。可愛すぎ」
「あれは、私を勝手にキープ認定していた男が本命にプレゼントしようとして用意したけどフラれて私に再利用したピアスだから」

 本命は小ぶりで可愛らしいピンクのピアスが似合う女だったのだろう。その二人は今もくっついたり離れたりをしているらしい。今となってはどうでもいい話だが。
 それを聞いたニノンは鼻にしわを寄せた。

「うええ、そんなのとっておかないでよ」
「だって高そうだったから捨てられなくて」

 いざというときに売り払えないかと思っていたのだ。ニノンは口をへの字にしたまま「でも、アクセサリーに罪はない」と自分に言い聞かせている。

「スカイハイの恋人なら、ああいう可愛いピアスが似合う人だと思う」

 ニノンが言うので、ダニエラはちょっと混乱しながら「え? ああ?」と首を傾げた。

「多分ブロンドの巻き毛で、小柄で華奢で、優しくて女性らしくてふわふわしてる感じ。守ってあげたくなるお姫様系」

 言いながらニノンはあああああと声を上げながらクッションに顔を突っ込む。自分の発言に自分でダメージを受けてどうするのだろう。完全な妄想とはいえすべての要素を外してくるのもすごい。

「ニノンには似合うと思うよ」

 そう言うと、ニノンは「え、ほんと? つけてみていい?」と小走りでダニエラの部屋に向かっていった。その姿を見送り、ダニエラは目を閉じる。
 うとうとと眠りかけていると、テーブルの上に置いていた携帯端末が鳴動した。キースの名前で着信であったので特に気負いもせず通話を開始し「はぁい」と寝入り端の気の抜けた声で返事をすると「――ダニエラか。俺、鏑木虎徹。覚えてるか?」と言われたので焦ってソファから起き上がった。

「ええ、お久しぶりです」

 前に話したのはキース犬事件の時だ。あれは思い出すたびにダニエラの心拍数は嫌な感じで上がる。

「驚かないで聞いてほしんだけどな――」

 あ、なんか聞き覚えがある台詞だ、と思い、ダニエラは溜息をついた。


******


 ジャスティスタワーに入るのは二度目だ。ロビーまでであれば案外ノーチェックで入れるというのも先日初めて知った。
 簡単な金属探知と持ち物検査をうける。前は勤務中で拳銃を帯びていたのでもめたが、今回は私服なのでほとんど何も言われなかった。かわりにヒーローファンの出待ちか何かと疑われたが。
 ロビーの中ほどまであたりを見回しながら入ると、見知らぬ男に「ダニエラ!」と名を呼ばれた。誰だろう、と目を細めて記憶を手繰る。どこかで見た顔だ。
 男はずんずんとダニエラに近寄ってくる。そのあたりで止まるだろうと予期していたラインを大幅に越えたところでダニエラは思わず身構えたが、男はそれも気にせず大きく腕を広げてダニエラをハグし、あろうことかキスまでしようとしてきた。
 ダニエラはとっさに腕を振り払い、ローテーブルに置かれていたクリスタルの灰皿を武器として取り上げる。

「やめてください! 僕の体!」

 聞き慣れた声とともに耳の横辺りまで振り上げられた腕を掴みあげられる。己の腕を掴んだのがキースであると気付いて、ダニエラは目を丸くする。

「キース?」

 キース、のはずだ。顔貌はそうだ。声もそうだ。だがなんとなく違和感がある。顔付きが違う。表情が違う。白いTシャツの裾はデニムにしまわれておらず、いつもきちんと穿いているデニムも少し腰穿きにされている。

「――じゃ、ない?」

 顔をしかめるダニエラに、目の前のキースのような男は「いいですか、落ち着いてください。僕は手を離しますけど、それで彼を殴るのは絶対にやめて」と言い含めた。

「そうは言っても……」

 こちらも虎徹に宥められ止められている見知らぬ男の方をちらと見る。その顔に覚えがある。名前を思い出したダニエラはぱちんと指を鳴らす。

「ああ、バーナビー・ブルックスJr.」
「ダニエラ、そのジャケットとっても素敵だ。君が着ているのを初めて見たよ。それを着て公園に散歩に行きたいね! でも、ジョンに汚されたら困ってしまうから二人で行こう!」
「――じゃ、ない?」

 少なくともメディアで見かけるバーナビー・ブルックスJr.は、スマートで洗練された男であった。明け透けな笑顔でにっこにこ笑う男ではなかったし、初対面の女のジャケットを嬉々として褒め犬の散歩に誘う男ではなかった、と思う。

「スカイハイさん、彼女が大変混乱しているので、先に説明させて頂いてもいいですか?」

 キースが言う。冷静で落ち着いているキースというのもなかなかどうして気味が悪い。しかしそう思ってしまうのは己がキースにだいぶ毒されているからでは、とダニエラはぼんやり思った。

「はじめまして、バーナビー・ブルックスJr.です」

 キースが礼儀正しく手を差し出してくる。ダニエラはおっかなびっくりその手をとった。緩く手を握られ、目を見て微笑まれた。洗練されている。ダニエラはあやうくうっとりしそうになって、今私はどっちに? と顔を顰める。

「今、僕――バーナビーと、スカイハイさんの中身は入れ替わっています。おそらくNEXTのせいで」

 ああ、とダニエラは呻く。

「ちょっと失礼」

 ダニエラはバーナビーと虎徹に断ると、キースが着ているライダースジャケットの襟を掴み、いつものキースよりずっと薄い唇にキスをする。バーナビーが短く声を上げ天井を仰ぎ、虎徹が「ぎゃあ」と悲鳴をあげた。

「前はこれで戻ったので」

 とりあえずやってみる価値はあるかと試してみたが、やはり駄目だったらしい。

「何度も断りますけど、僕の体ですからね」
「ファーストキスでもないんでしょ」

 バーナビーがダニエラを睨む。いつも温厚で人を睨むなどほとんどしないキースの顔でそんなことをするものだから、ダニエラはたじろいで一歩下がってしまう。

「……触れちゃ駄目なとこ?」
「あなた、状況分かってますか?」
「分かったうえで冗談でも言ってないとぶっ倒れそう」
「警察官は不謹慎なジョークを好むって言いますけど、本当なんですね」
「や、やだ……キースの顔でそんなこと言わないで……」

 すごくこわい、とダニエラは呟く。虎徹がハンチングを深く被り直し、深刻なのか笑いをこらえているのか分からない顔をした。

「こんな仏頂面のスカイハイ見たことねえし、こんな爽やかなバニーちゃ……」

 そこで耐えきれないように虎徹は顔を背ける。

「虎徹さんまで……」

 キースがダニエラの肩に触れようとするが、ダニエラは思わず身を引いて避けてしまった。何しろ姿だけは見知らぬ男である。
 それに、素顔を晒してヒーローをしているバーナビーは著名人だ。何かがあったら困る。

「キース、ちょっと……考えてちょうだい」
「なぜ!? 姿は変わっても私は私だ! そうだろう!」
「そ……、たしかにそうなんだけど……」

 手をぎゅうと握られながら力説され、ダニエラは眉尻を下げた。確かにそうなのだが、今はそういう話をしているのではない。

「だから、私は君を抱きしめたい! 最近ちょっと会えていなかった! 寂しかったぞ、とても!」

 キースが両腕を広げて言う。いつもより背が高いので腕も長く、ぶんぶん振り回されると非常に危なっかしい。虎徹が見ていられないとばかりに口元を押さえた。
 普段のバーナビーを知っていれば、相当面白い光景なのだろう。ダニエラは溜息をつく。背の高いすらりとしたキースが手を広げているのを指差し、ダニエラは眉間を押さえているバーナビーの方に首を巡らせた。

「こう言ってるけど」
「絶対にやめてください」

 端的だ。
 ダニエラの手を握り抱きしめたいんだと迫るキースを、虎徹が携帯端末で撮影する。

「おら、今おまえらこんなんだぞ」

 呆れ顔のダニエラと、彼女に迫るバーナビー・ブルックスJr.の画像を見せられ、キースは膝から崩れ落ちた。

「な、なんてことだ……バーナビーくんとダニエラが……!」
「キース、よく見てキース。これあんたよ」
「はっ! そうか、これが私……! だが姿はバーナビーくん! だ、駄目だ……分かっていても耐えられない!」
「分かってくれてありがとう、私もよ」
「僕もです」
「ごめん、俺も無理」

 やっと気が付いてくれてよかった、と全員が胸を撫で下ろす。バーナビーの提案で人目のあるロビーから会議室に場所を移した。
 そこへの移動中、ダニエラは無意識にバーナビーの隣に並んでしまい、バーナビーには咳払いをされ、キースにはひどく嘆かれた。

「ダニエラが……ダニエラがバーナビーくんに取られてしまう……」
「いりませんよ」

 今度はダニエラがバーナビーを睨みつける。

「ちょっと! キースの顔でそんなこと言わないで! 分かっていても傷付く!」

 ダニエラはバーナビーの頬を横に引っ張りたい衝動に駆られる。少しは笑ってくれないだろうか。
 そう言われても、と溜息まじりにバーナビーは返す。後ろ手に会議室のドアを閉めながら、虎徹が鼻をひくつかせて変な顔をした。

「ん、なんか臭くねえか? 生臭いってか、ドブ臭いってか」

 それを聞いたダニエラが自分の髪を一房取ってにおいを嗅ぐ。

「今日、下水道にワニが出たって通報があって――シャワー浴びたんだけど」

 ダニエラの言葉に、虎徹はぎょっとして目を丸くする。

「え、ワニ!? いたのか!?」
「多分誤報かな」
「……お疲れ様でぇす」

 肩をすくめて敬礼してくる虎徹に、ダニエラは苦笑いして敬礼を返す。「お、現役警官に敬礼されちゃった」と虎徹が楽しそうに笑った。ダニエラの気持ちが少し晴れる。
 この鏑木虎徹という男の素性をダニエラはよく分かっていない。キースの仕事仲間というのは、ポセイドンラインの方なのかヒーロー事業関係の方なのか。後者の場合には機密事項が多そうなので、迂闊に尋ねられないでいる。

「それで、ワニ捜索で疲れ果てた私を叩き起こして呼び出したのは、知らない男に抱擁を懇願されるためじゃないんでしょう?」
「……なんかごめんな」

 見知らぬ男と言われ、キースは悲しそうな顔をし、バーナビーは「それなりに知られていると思っていたんですけど」と言う。それにキースは得意気に胸を張った。

「ダニエラは最近のヒーローに詳しくないんだ」
「さすがにバーナビー・ブルックスJr.は知ってるわよ」

 何しろ有名人だ。シュテルンビルトでバーナビーの顔を見ない日はない。ヒーローに疎いダニエラの家の食器用洗剤にさえ、彼の顔が印刷されている。

「ルックスは好みだなって思ってたし」
「いや……そりゃイケメンだけどよ、おまえにはキースがいるんだから……」
「イケメンというか、このヒステリックで神経質でキツそうな感じが好き」

 中身が入れ替わってしみじみ思うのは、ダニエラはキースのルックスに関しては今までの自分の好みから言えば埒外も埒外だということだ。濃い色の金髪、空のような瞳、快活で温厚な印象を受ける表情。鍛えた厚い体に、日焼けの似合う爽やかな笑顔。ハンサムで感じがいいとは思うが、同じ金髪ならバーナビーの方が断然好みだ。

「僕はヒステリックでも神経質でもキツくもないですよ」
「ごめんね、ルックスのイメージの話」

 不満気なバーナビーに虎徹が「バレてんじゃん。女の勘ってすげえな」と独りごちた。
 そのヒステリックで神経質でキツそうなバーナビーのルックスで、キースはこの世の終わりのような顔をしてダニエラの手を握る。

「そんな……では、ダニエラは私がこのままの姿の方がいいのかい? ダニエラがそう言うなら私は……!」

 思い詰めた顔で何か言いかけたキースの口を手で塞ぐ。いつもより頬がほっそりしていて、体温も低い。それがなんだか寂しい。

「馬鹿なこと言ってないで。早く戻ってたくさん抱きしめてちょうだい」

 萎れていたキースの顔がみるみる生気に満ち、色白の手が強くホワイトボードを叩く。

「戻ろう! 一刻も早く戻ろう! まずは作戦会議だ!」

 一度軌道に乗せさえすれば周囲を巻き込むパワーとリーダーシップのある男である。よしこれで解決に向かい始めたと安堵の息をつくダニエラに、虎徹が「扱い上手いな」と目配せしてきた。ありがと、とウインクを返しておく。
 虎徹は椅子の上で姿勢を変え、ダニエラの方に身を乗り出す。

「そもそもダニエラを呼んだのは、ほら、キースのマンションって本人の認証がないと入れないだろ? 指でピッてやるやつ。だから、あいつあの姿じゃ家に入れなくてさ、で、あんたのところに行くしかないかって思ってたんだよ」

 こんなに巻き込むつもりじゃなかったんだけど、とダニエラを拝む虎徹に、ダニエラは肩をすくめて首を横に振る。

「それは無理。妹と住んでるの。しかも妹はヒーローファンよ。バーナビー・ブルックスJr.が家に来た日には大騒ぎになるわ。それに、妹もキースに懐いてるから別の男連れ込んだら本気で怒られちゃう」
「へー、妹と住んでるのか。意外だな。妹は誰のファンなんだ? やっぱりバニーちゃん?」
「ゴリゴリのスカイハイ推し」
「えっ……」

 虎徹は何とも言い難い表情でキースとダニエラを見比べる。ダニエラは笑って、天井を仰ぐ演技をした。

「うちの内情ってドロドロなの」

 聞いているかい? とキースに言われ、ダニエラはひらひらと手を振りながら「聞いてる」と答える。
 遠回しで脱線が多く情熱的でまどろっこしいキースの話を、バーナビーが簡潔にまとめて説明した。たまたま行きあった二人がジャスティスタワーに向かっていると、いつの間にか二人が入れ替わっていたらしい。

「考えられる原因はNEXTですが――」
「そういえば、バーナビーくんといたときに少年にぶつかったな」

 キースが言う。

「ああ、確かに。グレーのパーカーの……。ですが、今から追うにも……」

 空から一望しようにもキースの体とNEXTを持っているのはバーナビーだ。ジェットパックで補助されているとはいえ、一朝一夕で空を飛べるものでもない。
 ダニエラがふと顔を上げる。

「その人の姿覚えてる? 年齢は?」
「そう、あれは、寂しげな目をした華奢な少年。褐色の肌の美しい――」
「年齢は15から17、グレーのパーカー、ネイビーのデニム、赤のスニーカー。痩せ型の中東系。髪と目は黒」

 バーナビーの言葉を聞いて、ダニエラは携帯端末を手にする。

「警察官にはNEXTも最新装備もないけど、数だけはいるのよ」


******


 十七分後、パトロール中の警察官からバーナビーが言うとおりの少年に職務質問をしている連絡がダニエラの端末に入った。ジャスティスタワーからほど近い路地の名前を告げられ、四人は各々席を立つ。
 ダニエラはジャスティスタワーの前に停車していたツアラーバイクに跨り、リアボックスのヘルメットを取ると、つい癖でバーナビーの方に投げてしまった。怪訝な顔でフルフェイスヘルメットを見下ろすバーナビーと、目の前を自分のヘルメットがパスされていって悲しそうに呻くキースを順に見てダニエラは額に手をやり項垂れる。
 虎徹がバイクをしげしげと眺めた。

「ゴッツいバイクだなぁ。街乗りにはデカすぎないか?」
「これくらいガタイがないと乗った気しないでしょう?」

 能力のおかげで取り回しに不便はないので、ついロマンを追い求めてしまう。
 虎徹は一瞬微妙な顔をした。

「……バイクの話だよな?」
「バイクの話ですけど!?」

 妙な誤解を産んでしまった。
 ダニエラはキースとバーナビーに向かってくるくると人差し指を回した。

「どっちが後ろに乗る? この際どっちでもいいから早く」
「私が! 私が乗ろう!」

 バーナビーの手からヘルメットを取り、キースが手慣れた動作でダニエラの後ろに跨る。バーナビーが眉をひそめた。

「構いませんが、ヘルメットは絶対に取らないでくださいね。スキャンダルはごめんなので」
「任せてくれたまえ!」

 フルフェイスヘルメットを被り、キースは親指を立ててバーナビーに示す。それを合図にダニエラはクラッチを接続した。

 現場には一台のパトカーと警官が二人が待機していた。ダニエラの姿を見ると小太りでお人好しそうな警察官が片手を上げる。

「おう、ダニエラ、非番にご苦労さん」
「休日手当も出ないのに」

 ダニエラは職務質問を受けている少年に目を向ける。あの子? とキースに目で尋ねると、キースはフルフェイスヘルメットのまま頷いた。

「ありがと、コーディ。ちょっといいかな? あの子にはNEXT濫用の疑いがあって、彼がその被害者なの」
「また濫用かよ、参っちまうな――っと、すまない」

 目の前の女もNEXTだと思い出した警察官は慌てて口を噤んだ。ダニエラは唇の端を上げる。

「いいよ、事実だもの」

 キース、とダニエラは背後に立っていた男を手招く。フルフェイスヘルメットの長身にコーディはぎょっとした顔をした。

「君、さっき会ったね! 覚えているかい?」

 キースはずいずいと少年に近付くと、ぐいと顔を覗き込んだ。不貞腐れたようにしていた少年は顔を引き攣らせて仰け反る。

「し、知らねーよ、あんた誰だよ! つか、メット取らねえとわかんねえよ!」

 全くそのとおりである。キースは「全くそのとおりだ!」と言ってヘルメットを外した。ダニエラが止める暇もない。冴えた金髪が肩に落ちるのを、ダニエラは止めようと一歩踏み出し、間に合わないと気が付いた体勢のまま眺めているしかなかった。
 コーディが小さく「うお、あれヒーロー、バーナビーか?」と呟くのにダニエラはこめかみを押さえながら「ガワはね」と答える。

「私はキース・グッドマン。君のNEXTでバーナビー・ブルックスJr.と入れ替わってしまって、今はこの姿だけど……」
「……知らねえ」

 ふいと目を逸らす少年の肩にキースが両手を置く。

「君の能力は非常に興味深く有用だ。だが、私は今とても困っている! 困っている、とても、とても!」
「だから俺じゃねえって」
「いいかい、そこに美しい女性がいるだろう? 幸運なことに彼女は私の恋人なんだが、どうやらこの姿の方を気に入ってしまったようで――このままだと私の体がフラれてしまう!」
「わおわおわお、何の話よ!?」

 ダニエラは慌てて二人の間に割り込む。

「言ってないでしょそんなこと!」
「言ったじゃないか!」
「い、言った……? いや言って……言ったっけ?」

 言った気もしてきた。

「は、はあ……? 痴話喧嘩ならよそでやれよ」
「それに関してはごめんなさい」

 ダニエラはとりあえず謝っておく。キースはクールなハンサムフェイスをくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうだ。

「困る、このままでは困るんだよ! 分かってほしい!」
「だから、俺は――」
「私は身も心もダニエラに捧げているのに! ダニエラが私の体を愛してくれていないなんてそんなことがあっていいのか、いやいいはずがない! 君もそう思うだろう!?」

 ダニエラは目を剥きキースの肩に手をやりかけ、無駄だと気が付きその手を縋るように天に向け、そのままその手で顔を覆う。

「殺してくれ」

 その場にいるキース以外の全ての人間の刺すような視線を感じながら、ダニエラは地面に座り込んだ。いったい私が何をしたというのだろう。朝から下水道を走り回って疲れたところを、恋人の一大事だというからここまで来たのに。

「な、なんだよあんた……」

 少年もドン引きである。キースが嫌がってもバーナビーの方を乗せてくればよかった、とダニエラは後悔するがもう遅い。

「私が何者かはいい。君も、そう、思わないかと聞いているんだ」
「は、いや、んなこと……」
「思うだろう。そもそも彼女の愛情が私の体と心へ分割されるというのは耐え難い。愛は独占したいし一身に浴びたいものだ。そうだね」
「そ、それは……そう、かも……」
「分かってくれてありがとう。そしてありがとう。これでやっと彼女を抱きしめられる」
「実は……俺、彼女がバーナビーに夢中になりすぎてフラれて……それでついむしゃくしゃして……」
「なんてひどい話だ! 君の愛する人なんだから、きっと素敵な人なのだろうね」
「あ、ああ……でも、もう……」
「ほんの少しの行き違いがあったかもしれないけど、きっと分かり合えるさ。もう一度話してみてごらん」
「う、うん……! そうしてみます!」
「それで駄目でも、君にはもっと素敵な女性が現れるさ。私にとっての彼女みたいにね」

 ダニエラは二人のやりとりをぼうと見ていた。自分たちが付き合いはじめたのもあんな感じの経緯だった気もしている。傍から見ると滑稽なものだ。ダニエラは眉を顰めてコーディに目をやる。

「もしかして私ってあいつに騙くらかされてる?」
「なんの話だよ」

 一足遅れて飛び込んできた虎徹とバーナビーは、キースがヘルメットを外していて、キースの手を握った少年がおいおいと泣いているのを見て「やっぱりね」とばかりに肩を落とした。


******


「ねえ、BBJがキスシーン撮られたらしいよ。知ってた?」

 パスタを茹でているニノンに言われ、ダニエラはテーブルを片付けながら「知るわけないでしょ」と答えた。

「ドラマで?」
「ちがうちがう、パパラッチされたの」

 ニノンが鍋から離れて携帯端末をとる。見せられたのは、ジャスティスタワーのロビーで噛み付くように唇を奪われているバーナビーの写真である。
 胸倉を掴まれ、緑色の瞳は驚きで見開かれている。相手は後ろ姿しか見えない。ダニエラはその画像から目をそらした。膝の裏あたりに変な汗が滲む。

「もー、アニもジュディスも大騒ぎ。フェンミンなんて早退しちゃって。ちょっとばかみたい」
「あんただってスカイハイが結婚したら寝込むでしょ」
「パパラッチと結婚は違うじゃん!」

 ニノンはダニエラから端末を取り返すと、ぷいとそっぽを向いた。

「……それ、大炎上したりしてる?」
「あんまり。バーナビーが公式に否定して、ファンが作ったコラ説が有力」
「ああ、そうなの……」

 よかった、とダニエラは喉を鳴らす。
 そのとき玄関の方からドアベルの音がする。ニノンが「私出る。鍋見てて」と言い残した。
 ダニエラは言われるままに大きな鍋の現れては消える大きなあぶくを眺める。

「ダニエラ、キース来たよ!」

 忙しない足音が二つ。ダニエラは鍋の中身を見下ろす。絶対に足りない。

「今、パスタ作ってたの。キースもよければ食べない?」
「ニノンが作ったのかい? 素晴らしい! 君は料理もパーフェクトなんだね!」
「やだなあ、乾麺茹でてソース温めるだけ!」

 ダニエラはパスタを増やすべきかと首をひねる。そうするとソースが足りない。背後からキースに抱きしめられ、耳の後ろにキスをされる。

「火の前でやめて」
「すまない、つい。会いたかった」

 ニノンが呆れたようにフォークでグラスを叩いた。ちん、と硬い音がする。

「ちょっと、妹の前でイチャつかないでくれます?」
「イチャついてないわよ、ただの挨拶」
「言うねー」

 三人分には足りないパスタを三等分し、ソースをかけた。ものぐさ姉妹の遅すぎる朝食を大袈裟に美味しいとキースが喜んだ。
 ささやかな量を食べたあと、フォークを置いたニノンは思い出したように口を開く。

「あ、ねえねえ、キースもこれ知ってる?」

 ニノンに件の画像を見せられたキースは、思いきりむせてフォークを取り落とした。皿に落ちたフォークが高く耳障りな音をたてる。

「キースどうしたの!? まさかBBJのファンだった!?」
「ごほっ、げほっ、……すまない、げほっ。……その女性の後ろ姿がダニエラに似ている気がして」

 ダニエラはテーブルの下でキースの脛を爪先で突き「余計なことを言うな」と視線で圧をかけた。

「ええ? 似てる? ……確かにちょっと似てるかも?」
「私はそんなにウエスト細くないし二の腕も結構太いわよ」
「あ、たしかにー」

 自分で言ってて悲しくなる。
 ああ、そうだ、とキースが視線をじゃぶじゃぶに泳がせながらブルゾンのポケットを探った。誤魔化しが下手だな、とダニエラはそれを見ていた。

「これ、仕事でもらったんだ。だから、二人にプレゼント」

 金の箔押しでブランド名がロゴされた、白く小さな箱が二つ。先日ニノンが雑誌で見ていた、スカイハイが広告に載っている香水だった。
 スカイハイファンのニノンは一目でそれに気付き、嬌声を上げた。

「わ、うそ、すごい! これ欲しかったの! すごく嬉しい! 本当にもらってもいいの?」
「貰い物で申し訳ないのだけれど」
「ありがと! 大切に使う! ああ、でも勿体なくて使えない!」

 ニノンが椅子から立ち上がり、キースの首にハグをする。ちょっと? とダニエラが片眉を上げると、ニノンは舌を出して笑った。
 それから、香り嗅いでくる! と皿も片付けずに自室に走っていった。

「初めてのプレゼントが香水? チャレンジャーね」
「そうなのかい? でも、君にデートにつけてきてほしいと思って」

 控えめに笑うキースに、ダニエラは唇に笑みを刷く。

「デートで? デートにつけていくだけでいいの?」

 キースは目を丸くしてダニエラを見つめた。

「ベッドでこれだけ着けていてって意味じゃないんだ?」

 意地悪く笑うと、キースは顔をみるみる真っ赤にして口を開けたり閉めたりする。

「だ、断じてそんな破廉恥な意味では……!」
「わかった、じゃあデートにつけていくだけね」
「あ、いや、そういうふうに使ってくれるなら、と、とても、嬉しい、とても……」

 今にも目を回しそうなほどパニックになっているキースに、先日のしかえしは済んだとばかりにダニエラは笑った。